◎宮沢賢治の最後の手紙

 偉大な童話作家・宮沢賢治は、明治29年(1896)8月27日に岩手郡稗貫郡花巻町で生まれました。この年の6月15日に明治の三陸大津波が発生しています。そして、昭和8年(1933)9月21日に花巻で急性肺炎で死去しました。37歳でした。この年の3月3日に昭和の三陸大津波が発生しています。彼は大津波が発生した年にこの世に生まれ、再び大津波が発生した年に足早にこの世を去って行ったのでした。

 死ぬ10日前に、彼は花巻農学校で教えた柳原昌悦に宛てて手紙を書きました。とても良い手紙です。私は読む度に深く感動します。紹介します。

 「お手紙ありがたく拝誦いたしました。私もお陰で大分治ってはおりますが、どうも今度は前とは違って、咳が始まると仕事も何も手につかず、まる2時間も続いたり、或いは夜中胸がぴゅうぴゅう鳴って眠れなかったり、なかなかもう全い健康は得られそうもありません。

 あなたがいろいろ思い出して書かれたようなことは最早二度と出来そうにもありませんが、それに代わることはきっとやる積もりで毎日躍起となっています。しかも心持ちばかり焦って、躓いてばかりいるような訳です。

 私のこういう惨めな失敗は、ただもう今日の時代一般の大きな病である『慢』というものの一支流に過って身を加えたことに原因します。僅かばかりの才能とか、器量とか、身分とか財産とかいうものが何か自分の体についたものででもあるかと思い、自分の仕事を卑しみ、同輩を嘲り、今にどこからか自分を社会の高みへと引き上げに来るものがあるように思い、空想をのみ生活して、却って完全な現在の生活を味わうこともせず、幾年かが空しく過ぎて漸く自分の築いていた蜃気楼の消えるのを見ては、ただもう人を怒り、世間を憤り、従って師友を失い、憂悶、病を得る、といった順序です。

 あなたは賢いし、こういう過ちはなさらないでしょうが、しかし何といっても時代が時代ですから、十分にご戒心下さい。風の中を自由に歩けるとか、はっきりした声で何時間も話ができるとか、自分の兄弟のために何円かを手伝えるとかいうようなことは、できない者から見れば、神の業にも等しいものです。

 どうか今の生活を大切にお護り下さい。上の空でなしに、しっかり落ち着いて、一時の感激や興奮を避け、楽しめるものは楽しみ、苦しまなければならないものは苦しんで生きて行きましょう。

 いろいろ生意気なことを書きました。病苦に免じて許して下さい。それでも今年は心配したようではなしに作も良くて、実にお互い心強いではありませんか。また書きます」

◎『セロ弾きのゴーシュ』

 宮沢賢治の数多くの童話の中で、私は『セロ弾きのゴーシュ』が一番好きです。

 主人公のゴーシュは若いセロ(チェロ)の演奏家です。

 「ゴーシュは町の活動写真館でセロを弾く係でした。けれども、余り上手ではないという評判でした。上手でないどころではなく、実は仲間の楽手の中では一番下手でしたから、いつでも楽長にいじめられるのでした」

 昼過ぎ、楽団員たちが、町の音楽会で演奏する予定のベートーベンの交響曲第6番『田園』を練習しています。ゴーシュは楽長から何度も注意を受けます。「おい、ゴーシュ君。君には困るんだがなあ。表情ということがまるでできてない。怒るも喜ぶも、感情というものがさっぱり出ないんだ。それに、どうしてもぴたっと他の楽器と合わないものなあ」

 その晩遅く、ゴーシュはセロを持って家へ帰って来ました。彼の家は町外れの川端にある壊れた水車小屋で、そこにゴーシュは一人で住んでいました。

 棚からコップを取ってバケツの水をごくごく飲みました。それから、椅子に腰掛けると虎みたいな勢いでセロを弾き始めました。夢中で練習していると、大きな三毛猫がやって来ました。ゴーシュの畑から取ったトマトを土産として持って来ました。

 「先生、シューマンのトロイメライを弾いてごらんなさい。聴いてあげますから」

 「生意気なことを言うな。猫のくせに」

 怒ったゴーシュは、扉に鍵を掛け、窓もみんな閉めて、明かりも消しました。それから、ハンカチを引き裂いて耳の穴に詰めると、嵐のような勢いで「インドの虎狩」という曲を弾き始めました。びっくりした猫は、目をパチパチパチッとさせ、ばっと扉の方へ飛びのきました。どんと扉へ体をぶつけますが、扉は開きません。目や額からパチパチ火花が出ました。ゴーシュはすっかり面白くなってますます勢いよく弾きました。猫は風車のようにぐるぐるぐるぐるゴーシュの周りを走りました。ようやく弾き終えると、ゴーシュは猫に「舌を出してごらん」と言って、その長い舌でマッチをすりました。猫は舌を風車のように振り回しながら、入口の扉に頭を何度もぶつけました。扉を開けてやると、猫は風のように走って出て行きました。

 次の晩も、水をごくごく飲むとセロを弾き始めました。真夜中、天井の穴からかっこうが降りて来ました。そして、「音楽を教えて下さい」と頼みました。ゴーシュはドレミファソラシドと弾きました。「ちょっと違うな」と言いながら何度も弾くように頼むので、ゴーシュは怒ってしまい、「このばか鳥め。出て行かんと、むしって朝飯に食ってしまうぞ」と脅しました。かっこうは窓を目がけて飛び立ちましたが、ガラスに頭をぶつけました。ゴーシュは足を上げて窓を蹴りました。かっこうは壊れた窓から矢のように外へ飛び出しました。

 次の晩も、夜中過ぎまでセロを弾いて疲れて水を飲んでいると、狸の子がやって来ました。自分は小太鼓の係で、父が習いに行って来いと言うので来たと言いました。狸の子は背中から棒切れを2本出すと、セロの駒のところを拍子を取ってぽんぽん叩きました。そして、ゴーシュのセロの2番目の糸の具合が良くないと指摘しました。ゴーシュははっとしました。自分でも気が付いていたのでした。夜が明け、狸の子は帰りました。

 次の晩も、夜通しセロを弾いて疲れてうとうとしていると、野ねずみの母親が子供を連れてやって来ました。小さい子供が病気で死にそうなので、セロを弾いて治してほしいと頼みます。病気になると動物たちは床下に入って、彼のセロを聞きながら治していたのでした。ゴーシュは子供をセロの孔から中に入れました。子供は元気になりました。

 6日後の演奏会で、ゴーシュは立派に演奏しました。楽長が言いました。「ゴーシュ君、良かったぞ。10日前と比べたら、まるで赤ん坊と兵隊だ」

 その晩遅く、ゴーシュは自分の家へ帰って来ました。そして、また水をがぶがぶ飲みました。それから窓を開けて、いつかかっこうの飛んで行ったと思った遠くの空を眺めながら、「ああ、かっこう、あの時はすまなかったなあ。俺は怒ったんじゃなかったんだ」と言いました。

 

■杉本武之プロフィール

1939年 碧南市に生まれる。

京都大学文学部卒業。

翻訳業を経て、小学校教師になるために愛知教育大学に入学。

25年間、西尾市の小中学校に勤務。

定年退職後、名古屋大学教育学部の大学院で学ぶ。

〈趣味〉読書と競馬

 

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◎宮沢賢治の最後の手紙

 

 偉大な童話作家・宮沢賢治は、明治29年(1896)8月27日に岩手郡稗貫郡花巻町で生まれました。この年の6月15日に明治の三陸大津波が発生しています。そして、昭和8年(1933)9月21日に花巻で急性肺炎で死去しました。37歳でした。この年の3月3日に昭和の三陸大津波が発生しています。彼は大津波が発生した年にこの世に生まれ、再び大津波が発生した年に足早にこの世を去って行ったのでした。

 死ぬ10日前に、彼は花巻農学校で教えた柳原昌悦に宛てて手紙を書きました。とても良い手紙です。私は読む度に深く感動します。紹介します。

 「お手紙ありがたく拝誦いたしました。私もお陰で大分治ってはおりますが、どうも今度は前とは違って、咳が始まると仕事も何も手につかず、まる2時間も続いたり、或いは夜中胸がぴゅうぴゅう鳴って眠れなかったり、なかなかもう全い健康は得られそうもありません。

 あなたがいろいろ思い出して書かれたようなことは最早二度と出来そうにもありませんが、それに代わることはきっとやる積もりで毎日躍起となっています。しかも心持ちばかり焦って、躓いてばかりいるような訳です。

 私のこういう惨めな失敗は、ただもう今日の時代一般の大きな病である『慢』というものの一支流に過って身を加えたことに原因します。僅かばかりの才能とか、器量とか、身分とか財産とかいうものが何か自分の体についたものででもあるかと思い、自分の仕事を卑しみ、同輩を嘲り、今にどこからか自分を社会の高みへと引き上げに来るものがあるように思い、空想をのみ生活して、却って完全な現在の生活を味わうこともせず、幾年かが空しく過ぎて漸く自分の築いていた蜃気楼の消えるのを見ては、ただもう人を怒り、世間を憤り、従って師友を失い、憂悶、病を得る、といった順序です。

 あなたは賢いし、こういう過ちはなさらないでしょうが、しかし何といっても時代が時代ですから、十分にご戒心下さい。風の中を自由に歩けるとか、はっきりした声で何時間も話ができるとか、自分の兄弟のために何円かを手伝えるとかいうようなことは、できない者から見れば、神の業にも等しいものです。

 どうか今の生活を大切にお護り下さい。上の空でなしに、しっかり落ち着いて、一時の感激や興奮を避け、楽しめるものは楽しみ、苦しまなければならないものは苦しんで生きて行きましょう。

 いろいろ生意気なことを書きました。病苦に免じて許して下さい。それでも今年は心配したようではなしに作も良くて、実にお互い心強いではありませんか。また書きます」

 

 

◎『セロ弾きのゴーシュ』

 

 宮沢賢治の数多くの童話の中で、私は『セロ弾きのゴーシュ』が一番好きです。

 主人公のゴーシュは若いセロ(チェロ)の演奏家です。

 「ゴーシュは町の活動写真館でセロを弾く係でした。けれども、余り上手ではないという評判でした。上手でないどころではなく、実は仲間の楽手の中では一番下手でしたから、いつでも楽長にいじめられるのでした」

 昼過ぎ、楽団員たちが、町の音楽会で演奏する予定のベートーベンの交響曲第6番『田園』を練習しています。ゴーシュは楽長から何度も注意を受けます。「おい、ゴーシュ君。君には困るんだがなあ。表情ということがまるでできてない。怒るも喜ぶも、感情というものがさっぱり出ないんだ。それに、どうしてもぴたっと他の楽器と合わないものなあ」

 その晩遅く、ゴーシュはセロを持って家へ帰って来ました。彼の家は町外れの川端にある壊れた水車小屋で、そこにゴーシュは一人で住んでいました。

 棚からコップを取ってバケツの水をごくごく飲みました。それから、椅子に腰掛けると虎みたいな勢いでセロを弾き始めました。夢中で練習していると、大きな三毛猫がやって来ました。ゴーシュの畑から取ったトマトを土産として持って来ました。

 「先生、シューマンのトロイメライを弾いてごらんなさい。聴いてあげますから」

 「生意気なことを言うな。猫のくせに」

 怒ったゴーシュは、扉に鍵を掛け、窓もみんな閉めて、明かりも消しました。それから、ハンカチを引き裂いて耳の穴に詰めると、嵐のような勢いで「インドの虎狩」という曲を弾き始めました。びっくりした猫は、目をパチパチパチッとさせ、ばっと扉の方へ飛びのきました。どんと扉へ体をぶつけますが、扉は開きません。目や額からパチパチ火花が出ました。ゴーシュはすっかり面白くなってますます勢いよく弾きました。猫は風車のようにぐるぐるぐるぐるゴーシュの周りを走りました。ようやく弾き終えると、ゴーシュは猫に「舌を出してごらん」と言って、その長い舌でマッチをすりました。猫は舌を風車のように振り回しながら、入口の扉に頭を何度もぶつけました。扉を開けてやると、猫は風のように走って出て行きました。

 次の晩も、水をごくごく飲むとセロを弾き始めました。真夜中、天井の穴からかっこうが降りて来ました。そして、「音楽を教えて下さい」と頼みました。ゴーシュはドレミファソラシドと弾きました。「ちょっと違うな」と言いながら何度も弾くように頼むので、ゴーシュは怒ってしまい、「このばか鳥め。出て行かんと、むしって朝飯に食ってしまうぞ」と脅しました。かっこうは窓を目がけて飛び立ちましたが、ガラスに頭をぶつけました。ゴーシュは足を上げて窓を蹴りました。かっこうは壊れた窓から矢のように外へ飛び出しました。

 次の晩も、夜中過ぎまでセロを弾いて疲れて水を飲んでいると、狸の子がやって来ました。自分は小太鼓の係で、父が習いに行って来いと言うので来たと言いました。狸の子は背中から棒切れを2本出すと、セロの駒のところを拍子を取ってぽんぽん叩きました。そして、ゴーシュのセロの2番目の糸の具合が良くないと指摘しました。ゴーシュははっとしました。自分でも気が付いていたのでした。夜が明け、狸の子は帰りました。

 次の晩も、夜通しセロを弾いて疲れてうとうとしていると、野ねずみの母親が子供を連れてやって来ました。小さい子供が病気で死にそうなので、セロを弾いて治してほしいと頼みます。病気になると動物たちは床下に入って、彼のセロを聞きながら治していたのでした。ゴーシュは子供をセロの孔から中に入れました。子供は元気になりました。

 6日後の演奏会で、ゴーシュは立派に演奏しました。楽長が言いました。「ゴーシュ君、良かったぞ。10日前と比べたら、まるで赤ん坊と兵隊だ」

 その晩遅く、ゴーシュは自分の家へ帰って来ました。そして、また水をがぶがぶ飲みました。それから窓を開けて、いつかかっこうの飛んで行ったと思った遠くの空を眺めながら、「ああ、かっこう、あの時はすまなかったなあ。俺は怒ったんじゃなかったんだ」と言いました。