■杉本武之プロフィール

1939年 碧南市に生まれる。

京都大学文学部卒業。

翻訳業を経て、小学校教師になるために愛知教育大学に入学。

25年間、西尾市の小中学校に勤務。

定年退職後、名古屋大学教育学部の大学院で学ぶ。

〈趣味〉読書と競馬

 

◎梶井基次郎について

 日本文学で一番好きな作家は梶井基次郎です。夏目漱石や森鴎外よりも、宮沢賢治や新美南吉よりも、司馬遼太郎や藤沢周平よりも好きです。

 梶井基次郎は数多くの文学者から敬愛されてきました。20篇ほどの小品を発表して、31歳の若さで亡くなった作家が、多くの人たちから温かく讃えられてきたのです。

 「一番いい酒は喉を通る時に水みたいだと言いますが、それに近い文章という印象を受ける」(吉行淳之介)

 「闇の暗さや、空気の厚みのある手ごたえを、あんなに的確に表現し、定着した人はいないだろう」(安岡章太郎)

 「感覚と思索をもとに深く鋭く研ぎ澄まして冴えた澄明な世界を私たちにもたらした私たちの最良の代表」(埴谷雄高)

 「清澄鋭敏、まれにみる作家資質と私は感服した」(小林秀雄)

 「『交尾』を読んで、私は生易しい姿ではないと思った。脱帽したい気持ちであった」(井伏鱒二)

 「梶井という人の作品には徳があって、自分が世間から最も遠いところにいると考えて悲観しているような者にとって、これほど心に近く、無言の鼓舞を与えてくれる作家はいない」(庄野潤三)

 梶井基次郎は、明治34年(1901)2月17日に大阪市で生まれた。父・宗太郎、母・ひさの次男。海運会社に勤務していた父の宗太郎は、酒飲みで、家の外に女を作る遊蕩の人だった。基次郎が生まれた同じ年の9月には異母弟の順三が生まれている。保母をしていた母は、家族の行く末を案じて自殺を考え、しばしば子供たちを連れて、近くの橋の上にたたずんだ。

 幼児期から彼の心を暗くしてきた父の行状に対して、中学生の基次郎は、敢然として抗議の行動に出た。北野中学(現・北野高校)を中退して丁稚になる決意を表明した。同じ家に暮らしていた異母弟の順三が北浜の株屋へ丁稚奉公に出されることを知ると、基次郎は自分も丁稚になると言い出した。同じ父の子なのに、自分は中学生、弟は丁稚という差別に我慢できなかったのだ。基次郎は1年間メリヤスと毛布の問屋で丁稚奉公をした。その後、母の強い勧めに従って北野中学に復学した。

 中学卒業後、兄が通っていた大阪高等工業学校を受験して失敗。しかし、その後受けた京都の第三高等学校には合格した。1年と3年の時に落第し、5年後に卒業。東京大学文学部英文科に入学。三高時代の友人たちと同人誌『青空』を発行し、『檸檬』『城のある町にて』『ある心の風景』『冬の日』などの名作を発表した。 前から悪かった肺の病気がますます悪くなり、彼は大学卒業を断念する。昭和元年の大晦日に、25歳の彼は、療養のために伊豆の湯ヶ島温泉に行った。『伊豆の踊子』を発表したばかりの川端康成を訪問し、川端の世話で湯川屋に宿泊することになった。

 1年半ほどの湯ヶ島での生活で、彼は『冬の日』『筧の話』『冬の蝿』などを書いた。東京に帰ると、彼の病状はさらに悪化した。友人たちに説得されて、昭和3年9月に大阪の両親の元に戻った。静養し小康を得た。翌年1月4日、父が59歳で死去した。

 昭和6年5月、創作集『檸檬』を刊行。彼の才能は文壇の一部から認められ、『中央公論』から執筆依頼の手紙が来た。昭和7年1月、『中央公論』新年号に『のんきな患者』を発表。3月に入ると病状が急変した。3月23日、「苦しい、苦しい」と訴える基次郎に、母のひさは「あなたもまんざら平凡な人ではないのだから、もういい加減に覚悟しなさい」と諭した。彼は「分かりました。死ぬなら立派に死にます。もう何も苦しいことはありません。私は恥ずかしいことを言いました。どうぞ許して下さい」と言って、目を閉じた。一筋の涙が頬を流れ落ちた。―翌日の午前2時、この希有の作家は31歳の若さで死去した。母は「安らかに逝く」と看護日記に記した。

◎『冬の蝿』

 梶井基次郎は、小説らしい小説を書きませんでした。学生時代に東京で梶井と同じ下宿で生活したことがある小説家・評論家の伊藤整は、梶井文学の特徴をこう述べています。

 「梶井は、ごく小さい気持ちの動き、現象の変化の中に、人間の実在の秘密があるのを感じて、その微細な一点をできるだけ正確に描こうとした」

 湯ヶ島温泉で療養していた時に書かれた『冬の蝿』を紹介します。

 「冬の蝿とは何か?よぼよぼと歩いている蝿。指を近づけても逃げない蝿。そして飛べないかと思っていると、やはり飛ぶ蝿。彼等は一体何処で夏頃の不逞さや憎々しいほどのすばしこさを失って来るのだろう。色は不鮮明に黒ずんで、翅体は萎縮している。汚い臓物で張り切っていた腹は、紙縒のように痩せ細っている。そんな彼等が我々の気も付かないような夜具の上などを、いじけ衰えた姿で匍ているのである。

 冬から早春にかけて、人は一度ならずそんな蝿を見たにちがいない。それが冬の蝿である。私はいま、この冬私の部屋に棲んでいた彼等から一篇の小説を書こうとしている。」

 谷間の温泉宿の一室。私は窓を開けて日光浴をやり始めた。10時頃、半裸体を日に晒していると、彼等が天井からやって来る。日なたの中へ下りて来ると急に活気づく。彼等は日光の中で交尾さえする。毎日、2匹ほどの蝿が牛乳ビンの中に入る。なんとか出ようとするが、どうしても中途で落下してしまう。私が「もう落ちる時分だ」と思う頃に、蝿も「ああ、もう落ちそうだ」という風に落ちてしまう。

 午後になると私は読書をする。彼等がやって来る。本にまつわりつく。逃げ足が遅く、私がめくるページの間に挟み込まれて、仰向けになって、もがいている。

 夜、私が寝床に入ると、彼等はみな天井に貼り付いている。じっと死んだように貼り付いている。眠れない時、私は先ず軍艦の進水式を思い浮かべる。続いて小倉百人一首を一首ずつ思い出しては、その意味を考える。最後に最も残虐な自殺の方法を空想する。

 ある晴れた温かい日、私は村の郵便局へ手紙を出しに行った。疲れていた。そこへ一台の乗合自動車が来た。不意に手を挙げて、乗り込んでしまった。私は人里離れた山の中で車を止めた。私は山道を歩き出した。3里先の温泉に行くことにした。寒い闇に包まれ、私は暗い情熱に溢れて山道を歩き続けた。「歩け、歩け、へたばるまで歩け」

 温泉に着いて、共同湯に入った。食事を取ると、私はまた夜の道へ出た。港の町に着いた。そこに3日滞在して、村に戻った。

 気が付いてみると、私の部屋に一匹も蝿がいなくなっていた。私が鬱屈した部屋から逃げ出していた間に、彼等は寒気と飢えで死んでしまったのだ。私は彼等の死にしばらく憂鬱を感じた。ますます陰鬱を加えて行く私の生活を感じたのだ。

 

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 日本文学で一番好きな作家は梶井基次郎です。夏目漱石や森鴎外よりも、宮沢賢治や新美南吉よりも、司馬遼太郎や藤沢周平よりも好きです。

 梶井基次郎は数多くの文学者から敬愛されてきました。20篇ほどの小品を発表して、31歳の若さで亡くなった作家が、多くの人たちから温かく讃えられてきたのです。

 「一番いい酒は喉を通る時に水みたいだと言いますが、それに近い文章という印象を受ける」(吉行淳之介)

 「闇の暗さや、空気の厚みのある手ごたえを、あんなに的確に表現し、定着した人はいないだろう」(安岡章太郎)

 「感覚と思索をもとに深く鋭く研ぎ澄まして冴えた澄明な世界を私たちにもたらした私たちの最良の代表」(埴谷雄高)

 「清澄鋭敏、まれにみる作家資質と私は感服した」(小林秀雄)

 「『交尾』を読んで、私は生易しい姿ではないと思った。脱帽したい気持ちであった」(井伏鱒二)

 「梶井という人の作品には徳があって、自分が世間から最も遠いところにいると考えて悲観しているような者にとって、これほど心に近く、無言の鼓舞を与えてくれる作家はいない」(庄野潤三)

 梶井基次郎は、明治34年(1901)2月17日に大阪市で生まれた。父・宗太郎、母・ひさの次男。海運会社に勤務していた父の宗太郎は、酒飲みで、家の外に女を作る遊蕩の人だった。基次郎が生まれた同じ年の9月には異母弟の順三が生まれている。保母をしていた母は、家族の行く末を案じて自殺を考え、しばしば子供たちを連れて、近くの橋の上にたたずんだ。

 幼児期から彼の心を暗くしてきた父の行状に対して、中学生の基次郎は、敢然として抗議の行動に出た。北野中学(現・北野高校)を中退して丁稚になる決意を表明した。同じ家に暮らしていた異母弟の順三が北浜の株屋へ丁稚奉公に出されることを知ると、基次郎は自分も丁稚になると言い出した。同じ父の子なのに、自分は中学生、弟は丁稚という差別に我慢できなかったのだ。基次郎は1年間メリヤスと毛布の問屋で丁稚奉公をした。その後、母の強い勧めに従って北野中学に復学した。

 中学卒業後、兄が通っていた大阪高等工業学校を受験して失敗。しかし、その後受けた京都の第三高等学校には合格した。1年と3年の時に落第し、5年後に卒業。東京大学文学部英文科に入学。三高時代の友人たちと同人誌『青空』を発行し、『檸檬』『城のある町にて』『ある心の風景』『冬の日』などの名作を発表した。 前から悪かった肺の病気がますます悪くなり、彼は大学卒業を断念する。昭和元年の大晦日に、25歳の彼は、療養のために伊豆の湯ヶ島温泉に行った。『伊豆の踊子』を発表したばかりの川端康成を訪問し、川端の世話で湯川屋に宿泊することになった。

 1年半ほどの湯ヶ島での生活で、彼は『冬の日』『筧の話』『冬の蝿』などを書いた。東京に帰ると、彼の病状はさらに悪化した。友人たちに説得されて、昭和3年9月に大阪の両親の元に戻った。静養し小康を得た。翌年1月4日、父が59歳で死去した。

 昭和6年5月、創作集『檸檬』を刊行。彼の才能は文壇の一部から認められ、『中央公論』から執筆依頼の手紙が来た。昭和7年1月、『中央公論』新年号に『のんきな患者』を発表。3月に入ると病状が急変した。3月23日、「苦しい、苦しい」と訴える基次郎に、母のひさは「あなたもまんざら平凡な人ではないのだから、もういい加減に覚悟しなさい」と諭した。彼は「分かりました。死ぬなら立派に死にます。もう何も苦しいことはありません。私は恥ずかしいことを言いました。どうぞ許して下さい」と言って、目を閉じた。一筋の涙が頬を流れ落ちた。―翌日の午前2時、この希有の作家は31歳の若さで死去した。母は「安らかに逝く」と看護日記に記した。

 

 

◎『冬の蝿』

 梶井基次郎は、小説らしい小説を書きませんでした。学生時代に東京で梶井と同じ下宿で生活したことがある小説家・評論家の伊藤整は、梶井文学の特徴をこう述べています。

 「梶井は、ごく小さい気持ちの動き、現象の変化の中に、人間の実在の秘密があるのを感じて、その微細な一点をできるだけ正確に描こうとした」

 湯ヶ島温泉で療養していた時に書かれた『冬の蝿』を紹介します。

 「冬の蝿とは何か?よぼよぼと歩いている蝿。指を近づけても逃げない蝿。そして飛べないかと思っていると、やはり飛ぶ蝿。彼等は一体何処で夏頃の不逞さや憎々しいほどのすばしこさを失って来るのだろう。色は不鮮明に黒ずんで、翅体は萎縮している。汚い臓物で張り切っていた腹は、紙縒のように痩せ細っている。そんな彼等が我々の気も付かないような夜具の上などを、いじけ衰えた姿で匍ているのである。

 冬から早春にかけて、人は一度ならずそんな蝿を見たにちがいない。それが冬の蝿である。私はいま、この冬私の部屋に棲んでいた彼等から一篇の小説を書こうとしている。」

 谷間の温泉宿の一室。私は窓を開けて日光浴をやり始めた。10時頃、半裸体を日に晒していると、彼等が天井からやって来る。日なたの中へ下りて来ると急に活気づく。彼等は日光の中で交尾さえする。毎日、2匹ほどの蝿が牛乳ビンの中に入る。なんとか出ようとするが、どうしても中途で落下してしまう。私が「もう落ちる時分だ」と思う頃に、蝿も「ああ、もう落ちそうだ」という風に落ちてしまう。

 午後になると私は読書をする。彼等がやって来る。本にまつわりつく。逃げ足が遅く、私がめくるページの間に挟み込まれて、仰向けになって、もがいている。

 夜、私が寝床に入ると、彼等はみな天井に貼り付いている。じっと死んだように貼り付いている。眠れない時、私は先ず軍艦の進水式を思い浮かべる。続いて小倉百人一首を一首ずつ思い出しては、その意味を考える。最後に最も残虐な自殺の方法を空想する。

 ある晴れた温かい日、私は村の郵便局へ手紙を出しに行った。疲れていた。そこへ一台の乗合自動車が来た。不意に手を挙げて、乗り込んでしまった。私は人里離れた山の中で車を止めた。私は山道を歩き出した。3里先の温泉に行くことにした。寒い闇に包まれ、私は暗い情熱に溢れて山道を歩き続けた。「歩け、歩け、へたばるまで歩け」

 温泉に着いて、共同湯に入った。食事を取ると、私はまた夜の道へ出た。港の町に着いた。そこに3日滞在して、村に戻った。

 気が付いてみると、私の部屋に一匹も蝿がいなくなっていた。私が鬱屈した部屋から逃げ出していた間に、彼等は寒気と飢えで死んでしまったのだ。私は彼等の死にしばらく憂鬱を感じた。ますます陰鬱を加えて行く私の生活を感じたのだ。