姪の就職2

 澤子が凛とした表情で口を開いた。

「あなたの思うようにやってください。わたしはあなたの傍を離れたくありません」

 片桐は内心ホッとした。それにしても女性は結婚すると強くなるというが、片桐は澤子にこうも簡単に承知してもらうと、自分が思い悩んでいることがバカバカしく思われてくる。仕事や会社のことを知らないから澤子は平然と言ってのけられるのだろうと、片桐にはうらやましくさえ思えるのだ。

「失敗でもしたらサラ金でもやるか」

「サラ金て、なんですか」

「サラリーマン金融を略してサラ金や。つまりサラリーマンにカネを貸して金利をもらうわけや」

「それなら銀行の仕事と同じですね。新しく銀行をつくらんかて、山城相銀でサラリーマンにおカネ貸して儲けはったらいいのと違います?」

「なるほど」

 片桐は妙に感心していた。その時点では夢にも思わなかったが、山城相銀は後にサラリーマン・ローンに力を入れることになる。高度経済成長期のこの頃は、まだサラ金も昭和五十年代後半期のような大きな社会問題になっていなかった。昭和五十八年十一月、政府は法外な高金利や暴力団による取り立てなどを規制するため、サラ金規制を試行していた。サラ金も経済が成長している間は伸びたが、一旦、低成長に転じると債権が焦げつき、未回収の債権が増え続き苦しくなる。そして借金している者の成れの果てはサラ金地獄と化かした。

 片桐は(山城相銀は外部の人間に乗っ取られ、倒産寸前なんだぞ)と言いかけて言葉を飲んだ。せっかくついてくる気になっているのに、余計な心配をさせたくないと考えたからだ。

「お前に承諾してもらえて勇気百倍になったよ。珠美が結婚するまでは失敗は許されないからなぁ」

「なによりも藤田社長に感謝されることは、必ずいいこともあるのと違います…」

 片桐家の家訓を教えられるような言い方に聞こえて妙な気がした。片桐はつくづく夫婦とは不思議なものだと思うのだった。まったく他人同志だったのに、いつしか同化しそれが心の支えになっている。

 この夜、酒量がいつもより増えたことも手伝って、精神的な安堵感に浸りながら片桐は一段と激しく燃えた。澤子の身体の温もりが伝わる。それは単に生理的な体温でなく、心の温もりであった。夫婦の絆とは心の温もりを双方が確認し合うことだろうと片桐は思うのだった。澤子の温もりが片桐の身体に浸透してくるのがわかる。その温もりが片桐の心を満たし、勇気を奮い立たす。愛の定量化とは女の温もりを感じる感性に左右されるように思える。千早赤阪村の夜がふけるのは早い。遠くでフクロウのなき声が聞こえる。窓のすき間から月光が差し込む。二人は間もなく寝入った。るり子が夕食の声をかけに真三の部屋に入ってきた。

「夕食の準備ができましたよ」

「そうか。すぐ行くよ」

 二人はキッチンのテーブルについた。

「水カレイか、夏はこれがいいな」

「あなたの好物でしょう」

「そうだな」

 二人はグラスにビールを注いで、軽くグラスを持ち上げ、そっとあわせた。

「コロナ感染者が増えてきましたね」

「愛知県も100名を超えているね」

「全国的に広がっているようです」

「毎日、感染者の数で一喜一憂しているのも、疲れるよ」

「本当ですね」

「ついに世田谷区が、こんなことではダメだと、人と密接する、例えば美容院、高齢者支援施設などから、その地区の人たちが“誰でも、いつでも、何度でも、無料で”を謳い、PCR検査を大幅に増やすしかないと、都、国の協力を得て“世田谷モデル”を進めるという」

「それがうまくいけば前進するでしょうか」

「多くの人がPCR検査を外国のように増やさないと、感染の状況が把握できないと言っているのに、政府は及び腰になっている」

「日本は行政検査ということで、健康保健所にすべての管理を統一しているので、感染者が増えてくると、対応しきれないようなことが起こるようですね」

「るり子も、いろいろ知っているね」

「毎日、テレビを観ていますと、コロナのことを知るようになります」

「そうだな。ただ、専門家によってPCR検査を多くしても意味がないというかと思えば、徹底的に検査をすべきだと真反対のことを言う者もいるものだから、我々はどちらの意見を信じたらいいのか、迷うね」

「政府はあまりPCR検査を積極的でないのですかね」

「それにしても感染者が増えているときに、GO TOトラベルを実施、旅行、観光を進めている。全国一斉にしないで、地域ごとに徐々に進めるべきという意見が多かったが、政府は観光業者を救済する名目で踏み切ったようだ」

「それが感染者の急増につながっているのですか」

「人が動けば感染者が増えることは、当然、予測していたのだろうが…」

 二人はビールを注ぎ足し、しばらく沈黙して食べることに集中した。

 やがて、るり子は雑誌に載ったコラム「なまけもの」を真三に見せた。

―「なまけもの」(有能な怠け者は司令官に、有能な働き者は参謀にせよ。有能な怠け者は有能であるが故に事の是非を決することができる=ハンス・フォン・ゼークト・ドイツの軍人)

 コロナウイルス騒動で多くの人々は自宅待機を自主的とはいえ余儀なくされた。独居老人たちは死の恐怖に怯えながら時の流れに身を寄せなければならない。身体が動く間は炊事、洗濯等の家事を毎日、繰り返す。その間、通院、買い物だけは欠かせない。それでも時間がありあまる。多くの老人はテレビの前に座ってチャンネルを変えながら眺めていることが多い。毎日毎日、ウイルス関連報道が多く、うんざりしてくる。

 狭い部屋で掃除をした後、アルバムや資料を引っ張り出しては過去を振り返る。人生の最終章でコロナウイルスが原因で死にたくないーという思いが強い。そのためには、じっと耐えるしかない。

 その時、ある老人は動物の“なまけもの”を思い浮かべたかもしれない。なまけものは、外気に合わせて体温を変化させる変温動物で、行動も遅いため基礎代謝量が非常に低くごく少量の食物摂取でも生命活動が可能となっている。なまけものは木の上で一日のほとんどを枝にしがみついて眠っている写真を観た人も多いだろう。なまけものは好き好んで怠けているのではない。少量の食べ物で効率よく活動できる体質なのである。

 人はなまけものになりたいと思っても、寝たきりの体にでもならない限り無理である。そうであれば科学力でワクチンや治療薬の開発を待つしかない。

「そうだな。老人は怯えているのはその通りだよ。俺もその仲間だよ」

「私も同じですが…」

「店をやめてから、俺もすっかり、なまけものになっている。それにしても自宅待機もしんどくて長続きしない。人は自暴自棄になるのではないのか」

「やはり、人は何か仕事をしていないと身がもちませんね」

「そのためには就職は大事なんだ。ところが企業の就職内定率が昨年に比べ下がっている」

「確かに店をやめたときは、これで自由な時間ができたと喜びましたが、自由な時間が制限されるようになって、本当の自由時間はなくなり、かえって苦痛になりましたね」

「人は自分で考え、自由に行動ができないと、苦悩が増すということになる」

「やはり収束には二年から三年はかかりそうですね」

「どういう状態を収束と考えることだが、ワクチンの開発ということになれば、来年の半ばということになりそうだが…」

「ワクチンができても、日本人が全員、打ってもらえるには時間がかかりそうですね」

「今回の場合、手続きを簡略化しているので、副作用の心配がついて回る」

「オリンピックがあるので、メーカーにも焦りがありませんか」

「これは焦りですまされない」

「これまでもワクチン後遺症の問題がありましたので、難しい問題ですね」

「やはり治療薬ができないと、完全な収束は期待できないだろう」

「そういうことを考えますと、気が遠くなりますね」

「愛知県も独自の緊急事態宣言を発出したので、当分は自粛生活だね」

「いやですね」

「そろそろ食事を終わろうか」と言って、真三は書斎に戻って、小説の続きを読み始めた。

―片桐はその夜、常務から取締役に降格された日のことを夢の中で思い浮かべていた。夕刊でK信用金庫の記事を読んだためか、常務理事の山田の顔が消えてはすぐ現れる。そのうち片桐自身の顔に代わっている。あれは常務になって一年目の春の午後だった。社長の藤田万吉に呼ばれて社長室に入った。

 片桐はドアをノックする寸前まで、何を命じられるか思い悩んだが、ノブに手をかけた瞬間、頭の中が空っぽになっていた。

 

■岡田 清治プロフィール

1942年生まれ ジャーナリスト

(編集プロダクション・NET108代表)

著書に『高野山開創千二百年 いっぱんさん行状記』『心の遺言』『あなたは社員の全能力を引き出せますか!』『リヨンで見た虹』など多数

※この物語に対する読者の方々のコメント、体験談を左記のFAXかメールでお寄せください。

今回は「就職」「日本のゆくえ」「結婚」「夫婦」「インド」「愛知県」についてです。物語が進行する中で織り込むことを試み、一緒に考えます。

FAX‥0569―34―7971

メール‥takamitsu@akai-shinbunten.net

 

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姪の就職2

  澤子が凛とした表情で口を開いた。

「あなたの思うようにやってください。わたしはあなたの傍を離れたくありません」

 片桐は内心ホッとした。それにしても女性は結婚すると強くなるというが、片桐は澤子にこうも簡単に承知してもらうと、自分が思い悩んでいることがバカバカしく思われてくる。仕事や会社のことを知らないから澤子は平然と言ってのけられるのだろうと、片桐にはうらやましくさえ思えるのだ。

「失敗でもしたらサラ金でもやるか」

「サラ金て、なんですか」

「サラリーマン金融を略してサラ金や。つまりサラリーマンにカネを貸して金利をもらうわけや」

「それなら銀行の仕事と同じですね。新しく銀行をつくらんかて、山城相銀でサラリーマンにおカネ貸して儲けはったらいいのと違います?」

「なるほど」

 片桐は妙に感心していた。その時点では夢にも思わなかったが、山城相銀は後にサラリーマン・ローンに力を入れることになる。高度経済成長期のこの頃は、まだサラ金も昭和五十年代後半期のような大きな社会問題になっていなかった。昭和五十八年十一月、政府は法外な高金利や暴力団による取り立てなどを規制するため、サラ金規制を試行していた。サラ金も経済が成長している間は伸びたが、一旦、低成長に転じると債権が焦げつき、未回収の債権が増え続き苦しくなる。そして借金している者の成れの果てはサラ金地獄と化かした。

 片桐は(山城相銀は外部の人間に乗っ取られ、倒産寸前なんだぞ)と言いかけて言葉を飲んだ。せっかくついてくる気になっているのに、余計な心配をさせたくないと考えたからだ。

「お前に承諾してもらえて勇気百倍になったよ。珠美が結婚するまでは失敗は許されないからなぁ」

「なによりも藤田社長に感謝されることは、必ずいいこともあるのと違います…」

 片桐家の家訓を教えられるような言い方に聞こえて妙な気がした。片桐はつくづく夫婦とは不思議なものだと思うのだった。まったく他人同志だったのに、いつしか同化しそれが心の支えになっている。

 この夜、酒量がいつもより増えたことも手伝って、精神的な安堵感に浸りながら片桐は一段と激しく燃えた。澤子の身体の温もりが伝わる。それは単に生理的な体温でなく、心の温もりであった。夫婦の絆とは心の温もりを双方が確認し合うことだろうと片桐は思うのだった。澤子の温もりが片桐の身体に浸透してくるのがわかる。その温もりが片桐の心を満たし、勇気を奮い立たす。愛の定量化とは女の温もりを感じる感性に左右されるように思える。千早赤阪村の夜がふけるのは早い。遠くでフクロウのなき声が聞こえる。窓のすき間から月光が差し込む。二人は間もなく寝入った。るり子が夕食の声をかけに真三の部屋に入ってきた。

「夕食の準備ができましたよ」

「そうか。すぐ行くよ」

 二人はキッチンのテーブルについた。

「水カレイか、夏はこれがいいな」

「あなたの好物でしょう」

「そうだな」

 二人はグラスにビールを注いで、軽くグラスを持ち上げ、そっとあわせた。

「コロナ感染者が増えてきましたね」

「愛知県も100名を超えているね」

「全国的に広がっているようです」

「毎日、感染者の数で一喜一憂しているのも、疲れるよ」

「本当ですね」

「ついに世田谷区が、こんなことではダメだと、人と密接する、例えば美容院、高齢者支援施設などから、その地区の人たちが“誰でも、いつでも、何度でも、無料で”を謳い、PCR検査を大幅に増やすしかないと、都、国の協力を得て“世田谷モデル”を進めるという」

「それがうまくいけば前進するでしょうか」

「多くの人がPCR検査を外国のように増やさないと、感染の状況が把握できないと言っているのに、政府は及び腰になっている」

「日本は行政検査ということで、健康保健所にすべての管理を統一しているので、感染者が増えてくると、対応しきれないようなことが起こるようですね」

「るり子も、いろいろ知っているね」

「毎日、テレビを観ていますと、コロナのことを知るようになります」

「そうだな。ただ、専門家によってPCR検査を多くしても意味がないというかと思えば、徹底的に検査をすべきだと真反対のことを言う者もいるものだから、我々はどちらの意見を信じたらいいのか、迷うね」

「政府はあまりPCR検査を積極的でないのですかね」

「それにしても感染者が増えているときに、GO TOトラベルを実施、旅行、観光を進めている。全国一斉にしないで、地域ごとに徐々に進めるべきという意見が多かったが、政府は観光業者を救済する名目で踏み切ったようだ」

「それが感染者の急増につながっているのですか」

「人が動けば感染者が増えることは、当然、予測していたのだろうが…」

 二人はビールを注ぎ足し、しばらく沈黙して食べることに集中した。

 やがて、るり子は雑誌に載ったコラム「なまけもの」を真三に見せた。

―「なまけもの」(有能な怠け者は司令官に、有能な働き者は参謀にせよ。有能な怠け者は有能であるが故に事の是非を決することができる=ハンス・フォン・ゼークト・ドイツの軍人)

 コロナウイルス騒動で多くの人々は自宅待機を自主的とはいえ余儀なくされた。独居老人たちは死の恐怖に怯えながら時の流れに身を寄せなければならない。身体が動く間は炊事、洗濯等の家事を毎日、繰り返す。その間、通院、買い物だけは欠かせない。それでも時間がありあまる。多くの老人はテレビの前に座ってチャンネルを変えながら眺めていることが多い。毎日毎日、ウイルス関連報道が多く、うんざりしてくる。

 狭い部屋で掃除をした後、アルバムや資料を引っ張り出しては過去を振り返る。人生の最終章でコロナウイルスが原因で死にたくないーという思いが強い。そのためには、じっと耐えるしかない。

 その時、ある老人は動物の“なまけもの”を思い浮かべたかもしれない。なまけものは、外気に合わせて体温を変化させる変温動物で、行動も遅いため基礎代謝量が非常に低くごく少量の食物摂取でも生命活動が可能となっている。なまけものは木の上で一日のほとんどを枝にしがみついて眠っている写真を観た人も多いだろう。なまけものは好き好んで怠けているのではない。少量の食べ物で効率よく活動できる体質なのである。

 人はなまけものになりたいと思っても、寝たきりの体にでもならない限り無理である。そうであれば科学力でワクチンや治療薬の開発を待つしかない。

「そうだな。老人は怯えているのはその通りだよ。俺もその仲間だよ」

「私も同じですが…」

「店をやめてから、俺もすっかり、なまけものになっている。それにしても自宅待機もしんどくて長続きしない。人は自暴自棄になるのではないのか」

「やはり、人は何か仕事をしていないと身がもちませんね」

「そのためには就職は大事なんだ。ところが企業の就職内定率が昨年に比べ下がっている」

「確かに店をやめたときは、これで自由な時間ができたと喜びましたが、自由な時間が制限されるようになって、本当の自由時間はなくなり、かえって苦痛になりましたね」

「人は自分で考え、自由に行動ができないと、苦悩が増すということになる」

「やはり収束には二年から三年はかかりそうですね」

「どういう状態を収束と考えることだが、ワクチンの開発ということになれば、来年の半ばということになりそうだが…」

「ワクチンができても、日本人が全員、打ってもらえるには時間がかかりそうですね」

「今回の場合、手続きを簡略化しているので、副作用の心配がついて回る」

「オリンピックがあるので、メーカーにも焦りがありませんか」

「これは焦りですまされない」

「これまでもワクチン後遺症の問題がありましたので、難しい問題ですね」

「やはり治療薬ができないと、完全な収束は期待できないだろう」

「そういうことを考えますと、気が遠くなりますね」

「愛知県も独自の緊急事態宣言を発出したので、当分は自粛生活だね」

「いやですね」

「そろそろ食事を終わろうか」と言って、真三は書斎に戻って、小説の続きを読み始めた。

―片桐はその夜、常務から取締役に降格された日のことを夢の中で思い浮かべていた。夕刊でK信用金庫の記事を読んだためか、常務理事の山田の顔が消えてはすぐ現れる。そのうち片桐自身の顔に代わっている。あれは常務になって一年目の春の午後だった。社長の藤田万吉に呼ばれて社長室に入った。

 片桐はドアをノックする寸前まで、何を命じられるか思い悩んだが、ノブに手をかけた瞬間、頭の中が空っぽになっていた。