鈴渓義塾の創始者たちとして盛田命祺と溝口幹の思想を書いた時に、次には鈴渓義塾の継承者たちとして盛田昭夫と平岩外四の思想を書くと宣言しておきながら、ここまで遅れたことをお詫びします。理由は、読者のみなさんに納得していただけるものが書けなかったからです。しかし、もし今回のものでも納得していただけないとしたら、恐縮ですが、来月の中頃に出版を予定している『企業哲学と共生の経営論を説いた盛田昭夫と平岩外四 鈴渓義塾物語② ―鈴渓義塾の継承者たちの思想―』(ほっとブックス新栄)をご覧ください。詳しい論証を含めて書いておきましたので。

 これから6回にわたって、盛田昭夫と平岩外四の鈴渓義塾継承の思想物語を書きます。

 鈴渓義塾の創始者としての盛田命祺と溝口幹の思想は、端的に言えば、盛田命祺が起こした「村民とともに生きる思想」を、彼から薫陶を受けた溝口幹が、この思想において、村を「徳これ香る里」にした哲学物語と言えます。

 盛田昭夫と平岩外四はこの思想をどう継承し発展させたのでしょうか。これを書くのがここでの課題です。

 二人が一番輝いた時代は1990年代の前半部です。盛田昭夫が経団連副会長、平岩外四が経団連会長であった時代です。しかしこの時代は大変な時代でした。

 日本の技術力が著しく向上した時代で、その結果日本の輸出は大幅に伸びましたが、世界から「集中豪雨的輸出」と非難されるという具合でした。他方、世界経済の中には新自由主義が台頭してきました。金を儲ければいいという考えのマネタリズムです。

 貿易の安定のための為替相場は、戦後当初の固定相場制から、経済の実勢を反映させる変動相場制に移行しましたが、彼らはこの為替差損を儲けの対象とします。そして大量のマネーを動員して為替相場を人為的につりあげ儲けるという行動にも出てきます。これでは資本主義の秩序は守れません。更にこの新自由主義は、もともと儲ければよいという自由主義ですので、資本主義の秩序を根本から破壊する行動をするようにもなります。

 「集中豪雨的輸出」と非難される中で、同時に新自由主義の資本主義破壊行動とたたかうということを余儀なくされたのが、1990年代の前半部のことです。

 資本主義の秩序を守るために、二人はどうたたかったのでしょうか。しかし資本主義の秩序とは何かと自問すれば、ほとんど研究されていませんので、五里霧中。そこで二人は、資本主義の真実の姿を求めて奮闘することになったのでした。つまり資本主義の秩序の確立を目指しつつたたかうということです。

 しかし彼らはそんなことは言っていない。確かにその通りです。しかし盛田昭夫は「企業哲学」を語り、企業は哲学を持つべきだと言います。平岩外四は「共生の経営論」を説き、経営は共生を理念とすべきだと言います。彼らが資本主義の真実の姿を求めていることは明らかです。

 では、彼らは具体的にはどうたたかってきたのでしょうか。盛田昭夫から見ていくことにします。盛田は経営者でありながら、自ら執筆し自らの思想を残しています。平岩外四の「共生の経営論」は、自らの思考の結果と言うよりは、盛田との出会いの中で、形成させてきた感じがするからです。1990年代の前半部において。

 この意味でも盛田昭夫から見ていくのがよいでしょう。盛田はこのたたかいの中で、鈴渓義塾の思想を継承していくのでした。

 

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 これから6回にわたって、盛田昭夫と平岩外四の鈴渓義塾継承の思想物語を書きます。

 鈴渓義塾の創始者としての盛田命祺と溝口幹の思想は、端的に言えば、盛田命祺が起こした「村民とともに生きる思想」を、彼から薫陶を受けた溝口幹が、この思想において、村を「徳これ香る里」にした哲学物語と言えます。

 盛田昭夫と平岩外四はこの思想をどう継承し発展させたのでしょうか。これを書くのがここでの課題です。

 二人が一番輝いた時代は1990年代の前半部です。盛田昭夫が経団連副会長、平岩外四が経団連会長であった時代です。しかしこの時代は大変な時代でした。

 日本の技術力が著しく向上した時代で、その結果日本の輸出は大幅に伸びましたが、世界から「集中豪雨的輸出」と非難されるという具合でした。他方、世界経済の中には新自由主義が台頭してきました。金を儲ければいいという考えのマネタリズムです。

 貿易の安定のための為替相場は、戦後当初の固定相場制から、経済の実勢を反映させる変動相場制に移行しましたが、彼らはこの為替差損を儲けの対象とします。そして大量のマネーを動員して為替相場を人為的につりあげ儲けるという行動にも出てきます。これでは資本主義の秩序は守れません。更にこの新自由主義は、もともと儲ければよいという自由主義ですので、資本主義の秩序を根本から破壊する行動をするようにもなります。

 「集中豪雨的輸出」と非難される中で、同時に新自由主義の資本主義破壊行動とたたかうということを余儀なくされたのが、1990年代の前半部のことです。

 資本主義の秩序を守るために、二人はどうたたかったのでしょうか。しかし資本主義の秩序とは何かと自問すれば、ほとんど研究されていませんので、五里霧中。そこで二人は、資本主義の真実の姿を求めて奮闘することになったのでした。つまり資本主義の秩序の確立を目指しつつたたかうということです。

 しかし彼らはそんなことは言っていない。確かにその通りです。しかし盛田昭夫は「企業哲学」を語り、企業は哲学を持つべきだと言います。平岩外四は「共生の経営論」を説き、経営は共生を理念とすべきだと言います。彼らが資本主義の真実の姿を求めていることは明らかです。

 では、彼らは具体的にはどうたたかってきたのでしょうか。盛田昭夫から見ていくことにします。盛田は経営者でありながら、自ら執筆し自らの思想を残しています。平岩外四の「共生の経営論」は、自らの思考の結果と言うよりは、盛田との出会いの中で、形成させてきた感じがするからです。1990年代の前半部において。

 この意味でも盛田昭夫から見ていくのがよいでしょう。盛田はこのたたかいの中で、鈴渓義塾の思想を継承していくのでした。