■杉本武之プロフィール

1939年 碧南市に生まれる。

京都大学文学部卒業。

翻訳業を経て、小学校教師になるために愛知教育大学に入学。

25年間、西尾市の小中学校に勤務。

定年退職後、名古屋大学教育学部の大学院で学ぶ。

〈趣味〉読書と競馬

 

【49】日本文学(その1)

◎兼好法師『徒然草』

 今回から、今までに私が読んで面白かった日本文学について書いていきます。

 少年時代、本を読むことも好きでしたが、それ以上に外で遊ぶのが好きでした。家のすぐ側には波静かな衣浦湾があり、春には潮干狩り、夏には海水浴、秋には魚釣りをして楽しみました。海で遊べない時は、近くの原っぱやお寺の境内で遊びました。

 そんな訳で、本格的に本を読むようになったのは、大学に入ってからでした。

 日本の古典で一番好きなのは『徒然草』です。中学の国語の教科書で少し習いました。その時は面白いと思いました。暗記の勉強が嫌いな私にとって、高校の古文の時間は苦痛そのものでした。授業は文法中心で、一文一文、単語に線を引き、品詞に分け、活用形の種類や語尾変化ばかり教えられました。退屈で苦しい時間でした。古文を読むのが大嫌いになりました。大学の時に『徒然草』を読んで非常に面白いと思いました。

 清少納言の『枕草子』と並ぶ随筆文学の傑作『徒然草』は、今から七百年ほど前の鎌倉時代後期に兼好法師によって書かれました。序段と243段で構成されています。

 

 先ず「序段」を読んでみましょう。

 現代語訳「これといってやることもないままに、終日、硯に向かって、心に浮かんでは消えて行く、取り留めもない事を、ぼんやりと書き付けていると、自分ながら気味が悪くなり発狂するんじゃないかとさえ思われてくる」

 原文「つれづれなるままに、日暮らし硯に向かひて、心に移り行くよしなし事を、そこはかと無く書き付くれば怪しうこそもの狂ほしけれ」

 〈私の感想〉本当に人間の心というものは不思議なもので、自分の内部にあるものなのに、自由に制御できません。夜中に目が覚めて、なかなか寝付かれない時など、これでもかこれでもかと心の中に想念が湧き起こってきて、始末に終えなくなってしまいます。

 

 次に「第八段」を読んでみましょう。

 現代語訳「この世の人間の心を迷わすもので、色欲に及ぶものはない。人間の心というものは、何という愚かなものであるのだろう。匂いなどは、かりそめのものであり、ほんの一時的に衣装に香こうを薫きこんでいるのだと分かっていながら、何とも言えない良い匂いがすると、必ず心がときめくものである。深山に入って修行をしていた久米めの仙人は、洗濯をしている女の人の白いふくら脛はぎを見て、空を飛ぶ神通力を失って落ちたという。まったく、手足や素肌などが美しく肥えて脂肪がたまってつやが出ているのは、女性本来の肉体の色であるから、なるほど、そんなこともありうることだと思われる」

 原文「世の人の心惑はす事、色欲には如かず。人の心は愚かなるものかな。匂ひなどは仮のものなるに、しばらく衣装に薫きものすと知りながら、えならぬ匂ひには、必ず心ときめきするものなり。久米の仙人の、物洗ふ女の脛の白きを見て、通つうを失ひけんは、誠に、手足・肌などのきよらに肥え脂あぶらづきたらんは、外の色ならねば、さもあらんかし」

 〈私の感想〉この「久米の仙人」の話はとても面白い。男である私には、この世の中で、女の人ほど美しく思われるものはありません。神通力を失った久米の仙人は、その後、どうしたのでしょうか。修行を諦めて山を下り、誰か美しい女の人と結婚したのでしょうか。思い出す度に私はクスッと笑ってしまいます。

 

 次は、たいていの人が学校で習ったことのある「第十一段」。

 現代語訳「陰暦十月(神無月)の頃、栗くる栖す野の(京都・山科)という所を通り過ぎて、或る山里に人を訪ねて入って行ったことがあった。遥か向こうまで続いている苔むした細道を踏み分けて行くと、心細い様子で人が住んでいる庵があった。落ち葉に埋もれている筧かけひから落ちる雫だけが音を立てている。閼伽棚(仏前に供える花や水を置く棚)に菊や紅葉などを折り散らしてあるのは、やはり住む人がいるからなのであろう。こんなにしても住んでいられるものだなあと感心して見ていた。すると、向こうの方の庭に、大きな蜜柑の木があり、枝もしなうほどに実がなっていた。その周りは厳重に囲われていたので、今までの感興が少しさめてしまい、この蜜柑の木が無かったら良かったのにと思われた」

 原文「神無月の頃、栗栖野といふ所を過ぎて、ある山里に尋ね入ること侍はべりしに、遥かなる苔の細道を踏み分けて、心細く住みなしたる庵あり。木の葉に埋もるる筧の雫ならでは、露おとなふものなし。閼伽棚に菊・紅葉など折り散らしたる、さすがに住む人のあればなるべし。かくてもあられけるよと、あはれに見るほどに、彼方の庭に、大きなる柑子の木の、枝もたわわに生りたるが、周りを厳しく囲ひたりしこそ、少しこと醒めて、この木なからましかばと覚えしか」

 〈私の感想〉私の敬愛する良寛さんだったら、庭の蜜柑を盗まれないように囲いを厳重にしたでしょうか。しなかったでしょうね。今、私は市民農園で野菜作りを楽しんでいます。カラスの群れにイチゴやグリーンピースを食い荒らされることがあります。私は、カラスに荒らされた後で、細かい紐を張って、その後の侵入を防ぐようにしています。少しはカラスに食べられても構わないという思いで野菜を栽培しています。

 

 最後に「第百十七段」を読んでみましょう。

 現代語訳「友とするのに悪い者が七つある。第一には身分の高く貴い人。第二には若い人。第三には無病で身体の強健な人。第四には酒の好きな人。第五には勇猛な武士。第六には嘘をつく人。第七には欲の深い人。

 良い友に三つある。第一には物をくれる友。第二には医者。第三には知恵のある友」

 原文「友とするに悪しき者、七つあり。一つには、高くやんごとなき人。二つには、若き人。三つには、病なく身強き人。四つには、酒を好む人。五つには、猛く勇める兵。六つには、虚言する人。七つには、欲深き人。

 良き友、三つあり。一つには、物くるる友。二つには、医師。三つには、知恵ある友」

 〈私の感想〉初めて読んだ時、「良き友」の第一が「物くるる友」というのには驚きました。長い間、この考え方に抵抗がありましたが、今ではちゃんと納得しています。

 私はビールが好きです。普段は安い第3のビールなどを飲んでいますが、思いがけない時に、高級のビールを送ってくれる人がいます。その時のうれしさ。「物くるる友」のありがたさ。そのありがたみが分かっていながら、私自身は滅多に人に物をあげることはありません。私は「欲深き人」の一人なのでしょう。「良き友」になる資格がありません。

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 今回から、今までに私が読んで面白かった日本文学について書いていきます。

 少年時代、本を読むことも好きでしたが、それ以上に外で遊ぶのが好きでした。家のすぐ側には波静かな衣浦湾があり、春には潮干狩り、夏には海水浴、秋には魚釣りをして楽しみました。海で遊べない時は、近くの原っぱやお寺の境内で遊びました。

 そんな訳で、本格的に本を読むようになったのは、大学に入ってからでした。

 日本の古典で一番好きなのは『徒然草』です。中学の国語の教科書で少し習いました。その時は面白いと思いました。暗記の勉強が嫌いな私にとって、高校の古文の時間は苦痛そのものでした。授業は文法中心で、一文一文、単語に線を引き、品詞に分け、活用形の種類や語尾変化ばかり教えられました。退屈で苦しい時間でした。古文を読むのが大嫌いになりました。大学の時に『徒然草』を読んで非常に面白いと思いました。

 清少納言の『枕草子』と並ぶ随筆文学の傑作『徒然草』は、今から七百年ほど前の鎌倉時代後期に兼好法師によって書かれました。序段と243段で構成されています。

 

 先ず「序段」を読んでみましょう。

 現代語訳「これといってやることもないままに、終日、硯に向かって、心に浮かんでは消えて行く、取り留めもない事を、ぼんやりと書き付けていると、自分ながら気味が悪くなり発狂するんじゃないかとさえ思われてくる」

 原文「つれづれなるままに、日暮らし硯に向かひて、心に移り行くよしなし事を、そこはかと無く書き付くれば怪しうこそもの狂ほしけれ」

 〈私の感想〉本当に人間の心というものは不思議なもので、自分の内部にあるものなのに、自由に制御できません。夜中に目が覚めて、なかなか寝付かれない時など、これでもかこれでもかと心の中に想念が湧き起こってきて、始末に終えなくなってしまいます。

 

 次に「第八段」を読んでみましょう。

 現代語訳「この世の人間の心を迷わすもので、色欲に及ぶものはない。人間の心というものは、何という愚かなものであるのだろう。匂いなどは、かりそめのものであり、ほんの一時的に衣装に香こうを薫きこんでいるのだと分かっていながら、何とも言えない良い匂いがすると、必ず心がときめくものである。深山に入って修行をしていた久米めの仙人は、洗濯をしている女の人の白いふくら脛はぎを見て、空を飛ぶ神通力を失って落ちたという。まったく、手足や素肌などが美しく肥えて脂肪がたまってつやが出ているのは、女性本来の肉体の色であるから、なるほど、そんなこともありうることだと思われる」

 原文「世の人の心惑はす事、色欲には如かず。人の心は愚かなるものかな。匂ひなどは仮のものなるに、しばらく衣装に薫きものすと知りながら、えならぬ匂ひには、必ず心ときめきするものなり。久米の仙人の、物洗ふ女の脛の白きを見て、通つうを失ひけんは、誠に、手足・肌などのきよらに肥え脂あぶらづきたらんは、外の色ならねば、さもあらんかし」

 〈私の感想〉この「久米の仙人」の話はとても面白い。男である私には、この世の中で、女の人ほど美しく思われるものはありません。神通力を失った久米の仙人は、その後、どうしたのでしょうか。修行を諦めて山を下り、誰か美しい女の人と結婚したのでしょうか。思い出す度に私はクスッと笑ってしまいます。

 

 次は、たいていの人が学校で習ったことのある「第十一段」。

 現代語訳「陰暦十月(神無月)の頃、栗くる栖す野の(京都・山科)という所を通り過ぎて、或る山里に人を訪ねて入って行ったことがあった。遥か向こうまで続いている苔むした細道を踏み分けて行くと、心細い様子で人が住んでいる庵があった。落ち葉に埋もれている筧かけひから落ちる雫だけが音を立てている。閼伽棚(仏前に供える花や水を置く棚)に菊や紅葉などを折り散らしてあるのは、やはり住む人がいるからなのであろう。こんなにしても住んでいられるものだなあと感心して見ていた。すると、向こうの方の庭に、大きな蜜柑の木があり、枝もしなうほどに実がなっていた。その周りは厳重に囲われていたので、今までの感興が少しさめてしまい、この蜜柑の木が無かったら良かったのにと思われた」

 原文「神無月の頃、栗栖野といふ所を過ぎて、ある山里に尋ね入ること侍はべりしに、遥かなる苔の細道を踏み分けて、心細く住みなしたる庵あり。木の葉に埋もるる筧の雫ならでは、露おとなふものなし。閼伽棚に菊・紅葉など折り散らしたる、さすがに住む人のあればなるべし。かくてもあられけるよと、あはれに見るほどに、彼方の庭に、大きなる柑子の木の、枝もたわわに生りたるが、周りを厳しく囲ひたりしこそ、少しこと醒めて、この木なからましかばと覚えしか」

 〈私の感想〉私の敬愛する良寛さんだったら、庭の蜜柑を盗まれないように囲いを厳重にしたでしょうか。しなかったでしょうね。今、私は市民農園で野菜作りを楽しんでいます。カラスの群れにイチゴやグリーンピースを食い荒らされることがあります。私は、カラスに荒らされた後で、細かい紐を張って、その後の侵入を防ぐようにしています。少しはカラスに食べられても構わないという思いで野菜を栽培しています。

 

 最後に「第百十七段」を読んでみましょう。

 現代語訳「友とするのに悪い者が七つある。第一には身分の高く貴い人。第二には若い人。第三には無病で身体の強健な人。第四には酒の好きな人。第五には勇猛な武士。第六には嘘をつく人。第七には欲の深い人。

 良い友に三つある。第一には物をくれる友。第二には医者。第三には知恵のある友」

 原文「友とするに悪しき者、七つあり。一つには、高くやんごとなき人。二つには、若き人。三つには、病なく身強き人。四つには、酒を好む人。五つには、猛く勇める兵。六つには、虚言する人。七つには、欲深き人。

 良き友、三つあり。一つには、物くるる友。二つには、医師。三つには、知恵ある友」

 〈私の感想〉初めて読んだ時、「良き友」の第一が「物くるる友」というのには驚きました。長い間、この考え方に抵抗がありましたが、今ではちゃんと納得しています。

 私はビールが好きです。普段は安い第3のビールなどを飲んでいますが、思いがけない時に、高級のビールを送ってくれる人がいます。その時のうれしさ。「物くるる友」のありがたさ。そのありがたみが分かっていながら、私自身は滅多に人に物をあげることはありません。私は「欲深き人」の一人なのでしょう。「良き友」になる資格がありません。