■杉本武之プロフィール

1939年 碧南市に生まれる。

京都大学文学部卒業。

翻訳業を経て、小学校教師になるために愛知教育大学に入学。

25年間、西尾市の小中学校に勤務。

定年退職後、名古屋大学教育学部の大学院で学ぶ。

〈趣味〉読書と競馬

 

【48】日本映画(その9)

◎内田吐夢について

 内田吐夢(1898~1970)という映画監督は不思議な魅力を持った人物です。

 12歳後輩の黒澤明監督はこう述べています。

 「内田監督はものすごく面白い経歴の持ち主で、ホームレスなんかもやったらしい。俳優もやっていた。大作も良いけれど、僕は最初の方の作品が好きだね、『限りなき前進』とかね。内田さんの映画人生は波瀾万丈だった。日本での映画製作を諦めて満州に渡り、甘粕正彦の自殺に立ち会い、中国風の姿で帰国して、何があったのか定かじゃないけど、彼の映画に対する執着の凄さが作品に出ている。具合が悪くても、這って現場に行った。子役の成長や草の色の変化が気になるからと。まさに映画に人生を捧げた人と言える」

 内田吐夢(本名・常次郎)は、明治31年(1898)4月26日に岡山市内の和菓子製造業の3男として生まれた。15歳の時に父が死んだ。跡を継いだ長兄は、家業に見切りをつけ、肥料製造販売業を始めた。高等小学校最後の年、作文の時間に「祝辞」を書かされたが、彼は「弔辞」を書いた。教師を侮辱したという理由で退学を命じられた。長兄の知人が始めた教会の日曜学校へ通った。教室にピアノが置かれていた。横浜の「西川楽器店」から派遣されてきた調律師の青年と出会った。そして、その青年に連れられて横浜に行き、「西川オルガンピアノ製造所」で働くことになった。

 大正8年(1919)、徴兵検査のために岡山に戻る。甲種合格。東京九段の陸軍近衛連隊に人隊。間もなく盲腸炎に罹り人院。手術後の経過が良くなく、そのまま除隊して帰郷。翌日、母親が死去した。その後、横浜の西川オルガンピアノ製造所に戻り、調律部門で慟く。次第に仕事への情熱を失い、グレン隊の仲間に人った。仲間たちから「トム」と呼ばれた。その時の「トム」の呼称が映画界に人って「吐夢」となった。横浜で映画の製作が始まっているのを知り、撮影所を見に行った。そこで脚本顧問をしていた新進作家の谷崎潤一郎と出会い、その「大正活映撮影所」で働く許可を得た。間もなく大正活映が解散した。その後、吐夢は京都の等持院にあった「マキノ教育映画撮影所」に行って映画に出演したり、旅回りの一座に身を投じたり、日雇い人夫として働いた。

 大正15年(1926)5月、日活京都大将軍の撮影所から入社の話がもたらされた。翌年の昭和2年、早くも夢が叶い、第1回作品『競争三日間』を監督した。その後、資本主義のからくりを暴露した傾向映画『生ける人形』、剣豪大スターの大河内傳次郎主演の時代劇『仇討選手』、尾崎士郎原作の『人生劇場』、傑作として名高い『裸の町』や『限りなき前進」、製作に2年半を費やした戦前の代表作『土』などを発表した。

 『土』に続いて作られた『歴史』三部作と『島居強右衛門』の不評により、日活多摩川撮影所を辞し、松竹京都興亜キネマ撮影所に籍を移した。昭和18年4月、彼のもとに、満州映画協会との共同作品『陸戦の華・大戦車隊』の企画が舞い込んだ。所長の芦田勝、監督の内田吐夢、脚本家の新藤兼人の三人は、撮影の準備のために満州の首都・新京を訪れた。満州映画協会の理事長が甘粕正彦であった。しかし、この映画の製作は戦況の態化によって中止されることになった。意気込んでいた吐夢の落胆は激しかった。

 彼は満州映画協会で映画を作りたかった。そして、単身、満州に渡った。理事長の甘粕に会った。甘粕は、関東大震災直後の混乱に乗じて無政府主義者の大杉栄と妻の伊藤野枝と甥の3人を絞殺した人物だった。吐夢は満映参与の資格が与えられた。昭和20年8月15日、日本は無条件降伏した。8月20日午前6時。理事長室から異様なうめき声が聞こえた。吐夢が扉を開けると、白い粉(青酸カリ)を飲んだ甘粕が苦しんでいた。吐夢は馬乗りになって、胸を逆撫でした。口から泡を吐き続けて甘粕は死んだ。

 10年振りに中国から帰還した吐夢は、昭和30 年、再起第1作品として片岡千恵蔵主演の時代劇『血槍富士』を作った。その後、『黒田騒動』『逆襲獄門砦』『暴れん坊街道』『大菩薩峠・三部作』『どたんば』『森と湖のまつり』『浪花の恋の物語』『宮本武蔵・五部作』『飢餓海峡』『人生劇場・飛車角と吉良常』『真剣勝負』などを作った。

 1970年8月7日、偉大な映画監督・内田吐夢は死んだ。財布の中に2、340円入っていた。他に預金通帳もなく、これが彼の全財産だった。

◎『飢餓海峡』

 私は、戦前の『限りなき前進』や『土』などを観ていません。中国から帰ってきてから作られた『血槍富士』から遺作の『真剣勝負』までの作品は殆ど観ています。特に好きな作品は『血槍富士』と『宮本武蔵・五部作』と『飢餓海峡』です。

 彼の代表作は昭和39年(1964)に公開された水上勉原作の『飢餓海峡』です。

 ―昭和22年9月、大型台風が北海道を襲った。網走刑務所から仮釈放された二人の囚人が、たまたま知り合った犬飼多吉(三國連太郎)を張番に立たせ、岩内町の質屋に侵入し、家人を殺して大金を奪い、証拠を隠蔽するために放火した。三人は汽車で函館に逃げた。同じ頃、函館港を出港したばかりの青函連絡船が港内で沈没した。三人は混乱に乗じて漁師の舟を奪って青森県の下北半島に向かった。途中、囚人の一人が金を独り占めしようとして仲間を撲殺し、犬飼も殺そうとしたが、抵抗され逆に殺される。犬飼は二人の死体を海中に捨て、舟を漕いで仏ヶ浦に着いた。そこから陸路、大湊に向かった。そこの娼家で人の良い娼婦・杉戸八重(左幸子)に会った。親切にされたお礼として彼女に多額の金を与えた。

 一方、連絡船沈没にともなう死体引揚作業に従事していた函館警察は、乗客名簿に記載されていない二人の男の死体に疑念を持った。連絡船とは無関係な死体だと信じた弓坂刑事(伴淳三郎)は、丹念な調査の結果、大湊の娼婦・八重を突き止めた。しかし、彼女は何も語ろうとしなかった。八重はもっと稼ごうとして東京に出た。

 10年後、東京の遊郭で働いていた八重は、恩人の犬飼が樽見京一郎と名前を変えて、舞鶴市で成功者になっていることを新聞で知る。一目会って、金のお礼も述べたいと思い、舞鶴に出掛ける。だが、犬飼は自分の過去を知られる恐怖から彼女を絞殺し、心中事件に見せかけるために自分の書生までも殺して、二人の死体を海に捨てた。

 味村刑事(高倉健)を中心とする舞鶴警察は、樽見こと犬飼に疑惑を感じ始めた。定年後、北海道の刑務所で看守をしている元刑事の弓坂を招き、犬飼の取り調べを始めた。

 実地検証のために、犬飼は弓坂や舞鶴警察の者たちと北海道へ渡ることになった。青函連絡船が下北半島の仏ヶ浦のそばを進む時、死んだ八重のために花束を投げると同時に自らも身を投じて死んだ。―海の底から湧いてくるように、御詠歌を思わせる地蔵和讃の重々しいメロディが白い航跡にかぶさってしばらく画面に流れる。音楽は冨田勲。

 三國連太郎も左幸子も伴淳三郎も、入魂の演技を見せ、実に見事でした。

 

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【48】日本映画(その9)

◎内田吐夢について

 内田吐夢(1898~1970)という映画監督は不思議な魅力を持った人物です。

 12歳後輩の黒澤明監督はこう述べています。

 「内田監督はものすごく面白い経歴の持ち主で、ホームレスなんかもやったらしい。俳優もやっていた。大作も良いけれど、僕は最初の方の作品が好きだね、『限りなき前進』とかね。内田さんの映画人生は波瀾万丈だった。日本での映画製作を諦めて満州に渡り、甘粕正彦の自殺に立ち会い、中国風の姿で帰国して、何があったのか定かじゃないけど、彼の映画に対する執着の凄さが作品に出ている。具合が悪くても、這って現場に行った。子役の成長や草の色の変化が気になるからと。まさに映画に人生を捧げた人と言える」

 内田吐夢(本名・常次郎)は、明治31年(1898)4月26日に岡山市内の和菓子製造業の3男として生まれた。15歳の時に父が死んだ。跡を継いだ長兄は、家業に見切りをつけ、肥料製造販売業を始めた。高等小学校最後の年、作文の時間に「祝辞」を書かされたが、彼は「弔辞」を書いた。教師を侮辱したという理由で退学を命じられた。長兄の知人が始めた教会の日曜学校へ通った。教室にピアノが置かれていた。横浜の「西川楽器店」から派遣されてきた調律師の青年と出会った。そして、その青年に連れられて横浜に行き、「西川オルガンピアノ製造所」で働くことになった。

 大正8年(1919)、徴兵検査のために岡山に戻る。甲種合格。東京九段の陸軍近衛連隊に人隊。間もなく盲腸炎に罹り人院。手術後の経過が良くなく、そのまま除隊して帰郷。翌日、母親が死去した。その後、横浜の西川オルガンピアノ製造所に戻り、調律部門で慟く。次第に仕事への情熱を失い、グレン隊の仲間に人った。仲間たちから「トム」と呼ばれた。その時の「トム」の呼称が映画界に人って「吐夢」となった。横浜で映画の製作が始まっているのを知り、撮影所を見に行った。そこで脚本顧問をしていた新進作家の谷崎潤一郎と出会い、その「大正活映撮影所」で働く許可を得た。間もなく大正活映が解散した。その後、吐夢は京都の等持院にあった「マキノ教育映画撮影所」に行って映画に出演したり、旅回りの一座に身を投じたり、日雇い人夫として働いた。

 大正15年(1926)5月、日活京都大将軍の撮影所から入社の話がもたらされた。翌年の昭和2年、早くも夢が叶い、第1回作品『競争三日間』を監督した。その後、資本主義のからくりを暴露した傾向映画『生ける人形』、剣豪大スターの大河内傳次郎主演の時代劇『仇討選手』、尾崎士郎原作の『人生劇場』、傑作として名高い『裸の町』や『限りなき前進」、製作に2年半を費やした戦前の代表作『土』などを発表した。

 『土』に続いて作られた『歴史』三部作と『島居強右衛門』の不評により、日活多摩川撮影所を辞し、松竹京都興亜キネマ撮影所に籍を移した。昭和18年4月、彼のもとに、満州映画協会との共同作品『陸戦の華・大戦車隊』の企画が舞い込んだ。所長の芦田勝、監督の内田吐夢、脚本家の新藤兼人の三人は、撮影の準備のために満州の首都・新京を訪れた。満州映画協会の理事長が甘粕正彦であった。しかし、この映画の製作は戦況の態化によって中止されることになった。意気込んでいた吐夢の落胆は激しかった。

 彼は満州映画協会で映画を作りたかった。そして、単身、満州に渡った。理事長の甘粕に会った。甘粕は、関東大震災直後の混乱に乗じて無政府主義者の大杉栄と妻の伊藤野枝と甥の3人を絞殺した人物だった。吐夢は満映参与の資格が与えられた。昭和20年8月15日、日本は無条件降伏した。8月20日午前6時。理事長室から異様なうめき声が聞こえた。吐夢が扉を開けると、白い粉(青酸カリ)を飲んだ甘粕が苦しんでいた。吐夢は馬乗りになって、胸を逆撫でした。口から泡を吐き続けて甘粕は死んだ。

 10年振りに中国から帰還した吐夢は、昭和30 年、再起第1作品として片岡千恵蔵主演の時代劇『血槍富士』を作った。その後、『黒田騒動』『逆襲獄門砦』『暴れん坊街道』『大菩薩峠・三部作』『どたんば』『森と湖のまつり』『浪花の恋の物語』『宮本武蔵・五部作』『飢餓海峡』『人生劇場・飛車角と吉良常』『真剣勝負』などを作った。

 1970年8月7日、偉大な映画監督・内田吐夢は死んだ。財布の中に2、340円入っていた。他に預金通帳もなく、これが彼の全財産だった。

 

 

◎『飢餓海峡』

 私は、戦前の『限りなき前進』や『土』などを観ていません。中国から帰ってきてから作られた『血槍富士』から遺作の『真剣勝負』までの作品は殆ど観ています。特に好きな作品は『血槍富士』と『宮本武蔵・五部作』と『飢餓海峡』です。

 彼の代表作は昭和39年(1964)に公開された水上勉原作の『飢餓海峡』です。

 ―昭和22年9月、大型台風が北海道を襲った。網走刑務所から仮釈放された二人の囚人が、たまたま知り合った犬飼多吉(三國連太郎)を張番に立たせ、岩内町の質屋に侵入し、家人を殺して大金を奪い、証拠を隠蔽するために放火した。三人は汽車で函館に逃げた。同じ頃、函館港を出港したばかりの青函連絡船が港内で沈没した。三人は混乱に乗じて漁師の舟を奪って青森県の下北半島に向かった。途中、囚人の一人が金を独り占めしようとして仲間を撲殺し、犬飼も殺そうとしたが、抵抗され逆に殺される。犬飼は二人の死体を海中に捨て、舟を漕いで仏ヶ浦に着いた。そこから陸路、大湊に向かった。そこの娼家で人の良い娼婦・杉戸八重(左幸子)に会った。親切にされたお礼として彼女に多額の金を与えた。

 一方、連絡船沈没にともなう死体引揚作業に従事していた函館警察は、乗客名簿に記載されていない二人の男の死体に疑念を持った。連絡船とは無関係な死体だと信じた弓坂刑事(伴淳三郎)は、丹念な調査の結果、大湊の娼婦・八重を突き止めた。しかし、彼女は何も語ろうとしなかった。八重はもっと稼ごうとして東京に出た。

 10年後、東京の遊郭で働いていた八重は、恩人の犬飼が樽見京一郎と名前を変えて、舞鶴市で成功者になっていることを新聞で知る。一目会って、金のお礼も述べたいと思い、舞鶴に出掛ける。だが、犬飼は自分の過去を知られる恐怖から彼女を絞殺し、心中事件に見せかけるために自分の書生までも殺して、二人の死体を海に捨てた。

 味村刑事(高倉健)を中心とする舞鶴警察は、樽見こと犬飼に疑惑を感じ始めた。定年後、北海道の刑務所で看守をしている元刑事の弓坂を招き、犬飼の取り調べを始めた。

 実地検証のために、犬飼は弓坂や舞鶴警察の者たちと北海道へ渡ることになった。青函連絡船が下北半島の仏ヶ浦のそばを進む時、死んだ八重のために花束を投げると同時に自らも身を投じて死んだ。―海の底から湧いてくるように、御詠歌を思わせる地蔵和讃の重々しいメロディが白い航跡にかぶさってしばらく画面に流れる。音楽は冨田勲。

 三國連太郎も左幸子も伴淳三郎も、入魂の演技を見せ、実に見事でした。