■杉本武之プロフィール
1939年 碧南市に生まれる。
京都大学文学部卒業。
翻訳業を経て、小学校教師になるために愛知教育大学に入学。
25年間、西尾市の小中学校に勤務。
定年退職後、名古屋大学教育学部の大学院で学ぶ。
〈趣味〉読書と競馬
【44】日本映画(その5)
◎名匠・今井正
今井正の名は、現在、溝口健二や小津安二郎や黒澤明ほどよく知られていません。しかし、60年ほど前には、彼は彼らに少しも劣らない最高の評価が与えられていました。
昭和24年(1949)に作った『青い山脈』が大ヒットしました。彼は、それ以降、精力的に、『また逢う日まで』『どっこい生きてる』『山びこ学校』『ひめゆりの塔』『にごりえ』『ここに泉あり』『真昼の暗黒』『米』『純愛物語』『夜の鼓』『キクとイサム』などの名作を発表し続けました。その名声は、同年輩の黒澤明や木下恵介や市川崑などに少しも引けを取らないどころか、それ以上のものがありました。他を圧する、押しも押されもせぬ大監督だったのです。
昭和34年(1959)の『キクとイサム』の後も、今井正監督はたくさんの映画を作りましたが、それ以前の作品ほど話題になりませんでした。あれほど熱中して観てきた私も大半の作品を見逃してきました。『越後つついし親不知』も『砂糖菓子が壊れるとき』も『小林多喜二』も、そして遺作の『戦争と青春』も観ていません。
今井正は、明治45年(1912)1月8日、東京の渋谷に生まれた。父は霊泉院の住職だった。妹と弟がいた。かなり裕福な寺で、何不自由ない少年時代を過ごした。
中学3年の秋、父から寺を継ぐように説得を受けたが、断固突っぱねた。
高等学校を選ぶ時、一高は自信が無かったので水戸高校を受験した。高校に入ると、左翼運動に加わった。1年生の時に逮捕され、1年間の停学処分を受けた。3年になった時に再び逮捕された。学校側は20人ほどの退学を命じた。しかし、友人たちが「今井は組織とは関係ない」と強く主張してくれたおかげで退学を免れた。高校を卒業すると、東大文学部に入った。しかし、彼は卒業する積もりはなかった。「友人たちの学校追放処分を聞いた時、私は深く決意した。友人たちはあと一歩で帝大という瞬間に、高校を追放されてしまった。自分も決して大学を卒業すまい」。彼は追放された友人たちを切に思う気持ちで東大を中退し、映画の世界に飛び込んだ。
昭和10年(1935)、京都に出来たばかりのJ・Oスタヂオに入社した。2年間助監督を経験した後で、今井は25歳の若さで処女作『沼津兵学校』を監督した。この作品の評判が良く、彼はすぐに東京撮影所へ呼ばれた。そこで井伏 鱒二原作の『多甚古村』、石川達三原作の『結婚の生態』、軍国主義映画の『望楼の決死隊』などを作った。
戦後の『青い山脈』(昭和24年)が大ヒットして、東宝の専属監督としての今井正の名は世間に広く知られるようになった。ところが、彼はその直後にフリー宣言をした。
「映画を作る人間は、資本から独立して、自由の立場にいなければならない。『青い山脈』前後編を撮る時、プロデューサーの藤本真澄くんが二本分の監督料をくれると言うので、私は思い切って東宝に辞表を出してフリーになった。」
フリーになった彼は『どっこい生きてる』(昭和26年)を作った。東京の下町を舞台に、その日その日の職を求める日雇い労働者が一家心中にまで追い込まれるという物語であった。その後、彼はフリーという立場で、好きなテーマを追求していった。傑作が次々と生まれた。『山びこ学校』『ひめゆりの塔』『にごりえ』『ここに泉あり』『真昼の暗黒』『米』『純愛物語』『夜の鼓』『キクとイサム』
今井正は、1991年11月、『戦争と青春』の完成後、このキャンペーンに向かう車の中で倒れた。享年80。映画を愛し、映画に命を燃やし尽くした一生だった。
私が選ぶ今井正のベスト・ファイブは、1位『キクとイサム』、2位『ひめゆりの塔』、3位『にごりえ』、4位『米』、5位『山びこ学校』です。
ここでは、『キクとイサム』ではなく『ひめゆりの塔』を取り上げることにします。
◎『ひめゆりの塔』
女優の香川京子は、1992年に『ひめゆりたちの祈り| 沖縄のメッセージ』(朝日新聞社)を出版しました。この本を参考にして、映画『ひめゆりの塔』を紹介します。
新東宝に入って3年目の昭和27年(1952)、香川京子は退社してフリーになりました。そして、その年の5月、成瀬巳喜男監督の『おかあさん』に出演していた時に、今井正監督の『ひめゆりの塔』に出演してもらえないかと頼まれました。
「撮影に先立って渡された台本を一読したとき、私は、ストーリーの息詰まるような迫力に圧倒されて、『ああ、こんなにひどいことがあったの。なぜ、こんな若い人たちが、苦しまなければならなかったのだろう、かわいそうに』と、今まで知らなかった戦争の現実を見せつけられる思いで、いても立ってもいられないような衝動を覚えました」
映画『ひめゆりの塔』は、沖縄の戦いを象徴する悲惨極まりない内容です。
― 昭和20年(1945)3月下旬、太平洋戦争も末期に近い沖縄では、米軍の空襲が激しくなり、本島の周囲を大艦隊が集結して、海からの艦砲射撃も始まった。
陸軍病院の看護活動のために動員された沖縄師範学校女子部と沖縄県立第一高等女学校の生徒219名は、「ひめゆり学徒隊」と名付けられ、教師の引率のもとに、那覇の寄宿舎を出発して、夜道を南方の郊外にある南風原の陸軍病院へと向かった。
砲撃や爆撃はますます激化した。ひめゆり学徒隊の生徒たちは、負傷者の血や膿や汚物にまみれた壕の中での看護の合間に、危険を冒して外に出て、水汲みや食料運びをした。
5月25日、米軍が肉薄してきたため、軍医や看護婦、ひめゆり学徒隊、歩ける負傷者たちは、豪雨の中を、南風原からさらに南部へ移動した。6月18日の夜、日本軍はひめゆり学徒隊に解散を命じた。軍は彼女たちを見放したのである。翌朝、一同が脱出しようとしていた壕に、米軍のガス弾が撃ち込まれ、もうもうたる煙の中で女学生たちは互いに抱き合い、折り重なって悲惨な最期を遂げた。
この映画が撮影された時は、沖縄がまだ米軍の占領下に置かれていたので、現地ロケをすることが一切できませんでした。撮影は、主に撮影所内の屋外に建てられたセットと、千葉県内でのロケーション、そしてステージの中のセットで行われました。 女学生・上原文の役を熱演した香川京子は、この映画の意義をこう書いています。
「その頃はまだ戦争の記憶が生々しく、人々はやっと平和な時代に立ち返った喜びをかみしめながら、戦争の非合理さ、悲惨さを反省していました。それだけに、『ひめゆりの塔』に対する感動と共鳴は大きかったのでしょう。
『ひめゆりの塔』は、沖縄の戦争中の現実について、よく知らなかった、あるいはよく知らされていなかった本土の人たちに事実を提供した、という意味が最も大きかったと思います」
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【44】日本映画(その5)
◎名匠・今井正
今井正の名は、現在、溝口健二や小津安二郎や黒澤明ほどよく知られていません。しかし、60年ほど前には、彼は彼らに少しも劣らない最高の評価が与えられていました。
昭和24年(1949)に作った『青い山脈』が大ヒットしました。彼は、それ以降、精力的に、『また逢う日まで』『どっこい生きてる』『山びこ学校』『ひめゆりの塔』『にごりえ』『ここに泉あり』『真昼の暗黒』『米』『純愛物語』『夜の鼓』『キクとイサム』などの名作を発表し続けました。その名声は、同年輩の黒澤明や木下恵介や市川崑などに少しも引けを取らないどころか、それ以上のものがありました。他を圧する、押しも押されもせぬ大監督だったのです。
昭和34年(1959)の『キクとイサム』の後も、今井正監督はたくさんの映画を作りましたが、それ以前の作品ほど話題になりませんでした。あれほど熱中して観てきた私も大半の作品を見逃してきました。『越後つついし親不知』も『砂糖菓子が壊れるとき』も『小林多喜二』も、そして遺作の『戦争と青春』も観ていません。
今井正は、明治45年(1912)1月8日、東京の渋谷に生まれた。父は霊泉院の住職だった。妹と弟がいた。かなり裕福な寺で、何不自由ない少年時代を過ごした。
中学3年の秋、父から寺を継ぐように説得を受けたが、断固突っぱねた。
高等学校を選ぶ時、一高は自信が無かったので水戸高校を受験した。高校に入ると、左翼運動に加わった。1年生の時に逮捕され、1年間の停学処分を受けた。3年になった時に再び逮捕された。学校側は20人ほどの退学を命じた。しかし、友人たちが「今井は組織とは関係ない」と強く主張してくれたおかげで退学を免れた。高校を卒業すると、東大文学部に入った。しかし、彼は卒業する積もりはなかった。「友人たちの学校追放処分を聞いた時、私は深く決意した。友人たちはあと一歩で帝大という瞬間に、高校を追放されてしまった。自分も決して大学を卒業すまい」。彼は追放された友人たちを切に思う気持ちで東大を中退し、映画の世界に飛び込んだ。
昭和10年(1935)、京都に出来たばかりのJ・Oスタヂオに入社した。2年間助監督を経験した後で、今井は25歳の若さで処女作『沼津兵学校』を監督した。この作品の評判が良く、彼はすぐに東京撮影所へ呼ばれた。そこで井伏 鱒二原作の『多甚古村』、石川達三原作の『結婚の生態』、軍国主義映画の『望楼の決死隊』などを作った。
戦後の『青い山脈』(昭和24年)が大ヒットして、東宝の専属監督としての今井正の名は世間に広く知られるようになった。ところが、彼はその直後にフリー宣言をした。
「映画を作る人間は、資本から独立して、自由の立場にいなければならない。『青い山脈』前後編を撮る時、プロデューサーの藤本真澄くんが二本分の監督料をくれると言うので、私は思い切って東宝に辞表を出してフリーになった。」
フリーになった彼は『どっこい生きてる』(昭和26年)を作った。東京の下町を舞台に、その日その日の職を求める日雇い労働者が一家心中にまで追い込まれるという物語であった。その後、彼はフリーという立場で、好きなテーマを追求していった。傑作が次々と生まれた。『山びこ学校』『ひめゆりの塔』『にごりえ』『ここに泉あり』『真昼の暗黒』『米』『純愛物語』『夜の鼓』『キクとイサム』
今井正は、1991年11月、『戦争と青春』の完成後、このキャンペーンに向かう車の中で倒れた。享年80。映画を愛し、映画に命を燃やし尽くした一生だった。
私が選ぶ今井正のベスト・ファイブは、1位『キクとイサム』、2位『ひめゆりの塔』、3位『にごりえ』、4位『米』、5位『山びこ学校』です。
ここでは、『キクとイサム』ではなく『ひめゆりの塔』を取り上げることにします。
◎『ひめゆりの塔』
女優の香川京子は、1992年に『ひめゆりたちの祈り| 沖縄のメッセージ』(朝日新聞社)を出版しました。この本を参考にして、映画『ひめゆりの塔』を紹介します。
新東宝に入って3年目の昭和27年(1952)、香川京子は退社してフリーになりました。そして、その年の5月、成瀬巳喜男監督の『おかあさん』に出演していた時に、今井正監督の『ひめゆりの塔』に出演してもらえないかと頼まれました。
「撮影に先立って渡された台本を一読したとき、私は、ストーリーの息詰まるような迫力に圧倒されて、『ああ、こんなにひどいことがあったの。なぜ、こんな若い人たちが、苦しまなければならなかったのだろう、かわいそうに』と、今まで知らなかった戦争の現実を見せつけられる思いで、いても立ってもいられないような衝動を覚えました」
映画『ひめゆりの塔』は、沖縄の戦いを象徴する悲惨極まりない内容です。
― 昭和20年(1945)3月下旬、太平洋戦争も末期に近い沖縄では、米軍の空襲が激しくなり、本島の周囲を大艦隊が集結して、海からの艦砲射撃も始まった。
陸軍病院の看護活動のために動員された沖縄師範学校女子部と沖縄県立第一高等女学校の生徒219名は、「ひめゆり学徒隊」と名付けられ、教師の引率のもとに、那覇の寄宿舎を出発して、夜道を南方の郊外にある南風原の陸軍病院へと向かった。
砲撃や爆撃はますます激化した。ひめゆり学徒隊の生徒たちは、負傷者の血や膿や汚物にまみれた壕の中での看護の合間に、危険を冒して外に出て、水汲みや食料運びをした。
5月25日、米軍が肉薄してきたため、軍医や看護婦、ひめゆり学徒隊、歩ける負傷者たちは、豪雨の中を、南風原からさらに南部へ移動した。6月18日の夜、日本軍はひめゆり学徒隊に解散を命じた。軍は彼女たちを見放したのである。翌朝、一同が脱出しようとしていた壕に、米軍のガス弾が撃ち込まれ、もうもうたる煙の中で女学生たちは互いに抱き合い、折り重なって悲惨な最期を遂げた。
この映画が撮影された時は、沖縄がまだ米軍の占領下に置かれていたので、現地ロケをすることが一切できませんでした。撮影は、主に撮影所内の屋外に建てられたセットと、千葉県内でのロケーション、そしてステージの中のセットで行われました。 女学生・上原文の役を熱演した香川京子は、この映画の意義をこう書いています。
「その頃はまだ戦争の記憶が生々しく、人々はやっと平和な時代に立ち返った喜びをかみしめながら、戦争の非合理さ、悲惨さを反省していました。それだけに、『ひめゆりの塔』に対する感動と共鳴は大きかったのでしょう。
『ひめゆりの塔』は、沖縄の戦争中の現実について、よく知らなかった、あるいはよく知らされていなかった本土の人たちに事実を提供した、という意味が最も大きかったと思います」