■杉本武之プロフィール

1939年 碧南市に生まれる。

京都大学文学部卒業。

翻訳業を経て、小学校教師になるために愛知教育大学に入学。

25年間、西尾市の小中学校に勤務。

定年退職後、名古屋大学教育学部の大学院で学ぶ。

〈趣味〉読書と競馬

 

【43】日本映画(その4)

◎市川崑『おとうと』

 今年の夏に「東京オリンピック大会」が開かれます。56年前にも東京で開催されました。その時の公式記録映画『東京オリンピック』を監督したのが市川崑でした。 彼は、競技の勝ち負けにこだわらずに、競技に集中している人間の表情や動作を撮ることに全力を尽くしました。出来上がった作品は、あくまでも忠実な競技記録というよりは、人間味あふれる楽しいドキュメンタリーになりました。日本のオリンピック関係者たちの一部は、「勝敗と関係ない無意味な場面が多すぎる」と不満を表明しました。市川崑監督は、日本の選手が優勝して日の丸が高々と掲揚されるシーンを撮ることなどに興味も関心も無く、ひたすら選手達の人間性を追求したのでした。

 市川崑は、大正4年(1915)11月20日に三重県伊勢市の呉服問屋に生まれた。その時、母は48歳の高齢だった。間もなく父が亡くなり、家業が傾き、倒産する。4歳の時に、姉の嫁ぎ先の大阪に移る。大阪市の市岡商業学校に入学する。絵の勉強をするため画塾に通っていた時に、ウォルト・ディズニーのアニメーション映画を観て感動する。昭和8年、18歳の時に、京都の太秦のJ・O スタヂオのトーキー漫画部に入る。

 4年後に企業合同により東宝映画に移り、劇映画の助監督を務める。第1回作品は、野上弥生子の『真知子』を映画化した『花ひらく』であった。そのすぐ後に、市川崑は茂木由美子と結婚した。彼女は、和田夏十というペンネームで、市川崑の多くの作品のシナリオを書いた。彼女は、今井正と組んで数多くの名画のシナリオを書いた水木洋子と並ぶ偉大な女性脚本家であった。

 「異色の才人」と呼ばれた市川崑の代表的な作品を年代順に挙げます。

 『恋人』『プーサン』『こころ』『ビルマの竪琴』『処刑の部屋』『炎上』『鍵』『野火』『ぼんち』『おとうと』『破戒』『私は二歳』『雪之丞変化』『太平洋ひとりぼっち』『東京オリンピック』『細雪』 私は、若い頃から彼の映画が好きで、たくさん観てきました。

 私が選ぶ市川崑作品のベスト・ファイブは、1位『おとうと』、2位『太平洋ひとりぼっち』、3位『東京オリンピック』、4位『ビルマの竪琴』、5位『私は二歳』です。

 臆病な私は、怖い映画が嫌いなので、彼が5作品も連続して映画化した横溝正史・原作の『犬神家の一族』や『悪魔の手毬唄』や『獄門島』などの「金田一耕助シリーズ」を一つも観ていません。

 幸田文が書いた小説を映画化した『おとうと』は、次のような内容です。

―げん(岸恵子)と碧郎(川口浩)は、いつも喧嘩ばかりしているが、本当は仲の良い姉弟である。リューマチを病む継母(田中絹代)は家族の者に不満で、小言ばかり言っている。作家の父親(森雅之)は何も言わないで黙っている。家庭は陰鬱な雰囲気に満ちている。それに反発するかのように、碧郎は不良仲間と交わって悪い事ばかりして母や姉を困らせている。その弟が結核に罹り、海辺の療養所に入院する。げんは病院に付き添い、懸命に看病する。病状の悪化した弟は、見舞いに来た父親とも談笑するし、母親にも初めて優しく接する。家族が和解した後、姉の献身的な看病も空しく、弟は若い命を終える。耐えに耐えていた姉のげんは、気絶して、その場に崩れ落ちる。

 入院する前に、夕焼け空を見ながら、「うっすらと哀しい」だったか「うっすらと寂しい」だったか忘れましたが、碧郎が姉のげんに小声で話すシーンがあります。

 この映画は、その弟の言葉のように、うっすらと哀しい、うっすらと寂しい名作です。

◎木下恵介『二十四の瞳』

 かつて黒澤明と並び称された木下恵介は、多様な題材を自由自在にこなした天才的な映画監督でした。特に1950年代に作られた映画は、正に「傑作の森」と表してもよい作品ばかりでした。私のような後期高齢者にとっては、本当に懐かしい名作ばかりです。

 『カルメン故郷に帰る』『少年期』『カルメン純情す』『日本の悲劇』『女の園』『二十四の瞳』『遠い雲』『野菊の如き君なりき』『喜びも悲しみも幾歳月』『楢山節考』

 木下恵介は、大正元年(1912)12月5日に静岡県浜松市に生まれた。浜松工業学校の紡織科を卒業したが、就職もせず、上級学校へも進学せずに遊んでいた。ある時、彼の頭に「閃光のように、子供の頃から最も夢中になってきた映画、自分の進むべき道は、一番好きなもの以外に無い」と閃いた。苦労の末、彼は蒲田撮影所に撮影助手として入った。3年後、念願の監督部に移り、助監督になった。昭和15年、彼は補充兵として中国の戦場に送られた。転戦中、病気になり、南京の陸軍病院に入院した。除隊後、昭和18年(1943)に監督に昇進した。処女作は『花咲く港』で、好評だった。

 木下恵介の作品には、前に挙げた1950年代の作品以外にも、『陸軍』『わが恋せし乙女』『お嬢さん乾杯!』『破れ太鼓』『笛吹川』『永遠の人』『香華』『衝動殺人・息子よ』『この子を残して』など数多くの佳作があります。 私が選ぶ木下恵介のべスト・ファイブは、次のようです。

 1位『二十四の瞳』、2位『野菊の如き君なりき』、3位『楢山節考』、4位『この子を残して』、5位『カルメン故郷に帰る』

 1位に選んだ『二十四の瞳』は、昭和29年(1954)に公開され、多くの人たちを泣かせました。木下の豊かな叙情性が全編に発揮され、美しくも悲しい師弟愛が詩情豊かに描かれ、観客全てに忘れ難い印象を与えました。原作は壺井栄。こんな物語です。

―昭和3年の春、瀬戸内海の小豆島の岬の分校に、新任の教師として大石先生(高峰秀子)がやって来る。新入生は12人。瞳の数は、合計24。教師と生徒たちの楽しい学校生活が、美しい小豆島の風景とともに展開される。

 しかし、学校の教育も段々と軍国主義的になっていく。男の子たちは「将来は兵隊になるのだ」と言って、大石先生を悲しませる。やがて、彼女は結婚し、軍国主義的な教育はしたくないと言って退職する。戦争が始まり、5人の男の教え子も戦場に行き、3人が戦死する。彼女の夫(天本英世)も戦死する。

 戦後、中年になった彼女は、再び教壇に戻り、岬の分校に赴任する。新入生の中には、かつての教え子の子供が何人かいる。教え子たちが同窓会を開く。その席上、戦争で失明した磯吉(田村高広)が、1年生の時の記念写真を手にして、まるで見えるように、「中央にいるのが先生、その隣が○○、その横が××」と説明していく。

 2時間半の長編映画の随所に懐かしい小学唱歌が流れ、これまた涙腺を刺激します。

 私も小学校の教師をしました。何時も大石先生のことを考えて教えていました。

 

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【43】日本映画(その4)

◎市川崑『おとうと』

 今年の夏に「東京オリンピック大会」が開かれます。56年前にも東京で開催されました。その時の公式記録映画『東京オリンピック』を監督したのが市川崑でした。 彼は、競技の勝ち負けにこだわらずに、競技に集中している人間の表情や動作を撮ることに全力を尽くしました。出来上がった作品は、あくまでも忠実な競技記録というよりは、人間味あふれる楽しいドキュメンタリーになりました。日本のオリンピック関係者たちの一部は、「勝敗と関係ない無意味な場面が多すぎる」と不満を表明しました。市川崑監督は、日本の選手が優勝して日の丸が高々と掲揚されるシーンを撮ることなどに興味も関心も無く、ひたすら選手達の人間性を追求したのでした。

 市川崑は、大正4年(1915)11月20日に三重県伊勢市の呉服問屋に生まれた。その時、母は48歳の高齢だった。間もなく父が亡くなり、家業が傾き、倒産する。4歳の時に、姉の嫁ぎ先の大阪に移る。大阪市の市岡商業学校に入学する。絵の勉強をするため画塾に通っていた時に、ウォルト・ディズニーのアニメーション映画を観て感動する。昭和8年、18歳の時に、京都の太秦のJ・O スタヂオのトーキー漫画部に入る。

 4年後に企業合同により東宝映画に移り、劇映画の助監督を務める。第1回作品は、野上弥生子の『真知子』を映画化した『花ひらく』であった。そのすぐ後に、市川崑は茂木由美子と結婚した。彼女は、和田夏十というペンネームで、市川崑の多くの作品のシナリオを書いた。彼女は、今井正と組んで数多くの名画のシナリオを書いた水木洋子と並ぶ偉大な女性脚本家であった。

 「異色の才人」と呼ばれた市川崑の代表的な作品を年代順に挙げます。

 『恋人』『プーサン』『こころ』『ビルマの竪琴』『処刑の部屋』『炎上』『鍵』『野火』『ぼんち』『おとうと』『破戒』『私は二歳』『雪之丞変化』『太平洋ひとりぼっち』『東京オリンピック』『細雪』 私は、若い頃から彼の映画が好きで、たくさん観てきました。

 私が選ぶ市川崑作品のベスト・ファイブは、1位『おとうと』、2位『太平洋ひとりぼっち』、3位『東京オリンピック』、4位『ビルマの竪琴』、5位『私は二歳』です。

 臆病な私は、怖い映画が嫌いなので、彼が5作品も連続して映画化した横溝正史・原作の『犬神家の一族』や『悪魔の手毬唄』や『獄門島』などの「金田一耕助シリーズ」を一つも観ていません。

 幸田文が書いた小説を映画化した『おとうと』は、次のような内容です。

―げん(岸恵子)と碧郎(川口浩)は、いつも喧嘩ばかりしているが、本当は仲の良い姉弟である。リューマチを病む継母(田中絹代)は家族の者に不満で、小言ばかり言っている。作家の父親(森雅之)は何も言わないで黙っている。家庭は陰鬱な雰囲気に満ちている。それに反発するかのように、碧郎は不良仲間と交わって悪い事ばかりして母や姉を困らせている。その弟が結核に罹り、海辺の療養所に入院する。げんは病院に付き添い、懸命に看病する。病状の悪化した弟は、見舞いに来た父親とも談笑するし、母親にも初めて優しく接する。家族が和解した後、姉の献身的な看病も空しく、弟は若い命を終える。耐えに耐えていた姉のげんは、気絶して、その場に崩れ落ちる。

 入院する前に、夕焼け空を見ながら、「うっすらと哀しい」だったか「うっすらと寂しい」だったか忘れましたが、碧郎が姉のげんに小声で話すシーンがあります。

 この映画は、その弟の言葉のように、うっすらと哀しい、うっすらと寂しい名作です。

 

◎木下恵介『二十四の瞳』

 かつて黒澤明と並び称された木下恵介は、多様な題材を自由自在にこなした天才的な映画監督でした。特に1950年代に作られた映画は、正に「傑作の森」と表してもよい作品ばかりでした。私のような後期高齢者にとっては、本当に懐かしい名作ばかりです。

 『カルメン故郷に帰る』『少年期』『カルメン純情す』『日本の悲劇』『女の園』『二十四の瞳』『遠い雲』『野菊の如き君なりき』『喜びも悲しみも幾歳月』『楢山節考』

 木下恵介は、大正元年(1912)12月5日に静岡県浜松市に生まれた。浜松工業学校の紡織科を卒業したが、就職もせず、上級学校へも進学せずに遊んでいた。ある時、彼の頭に「閃光のように、子供の頃から最も夢中になってきた映画、自分の進むべき道は、一番好きなもの以外に無い」と閃いた。苦労の末、彼は蒲田撮影所に撮影助手として入った。3年後、念願の監督部に移り、助監督になった。昭和15年、彼は補充兵として中国の戦場に送られた。転戦中、病気になり、南京の陸軍病院に入院した。除隊後、昭和18年(1943)に監督に昇進した。処女作は『花咲く港』で、好評だった。

 木下恵介の作品には、前に挙げた1950年代の作品以外にも、『陸軍』『わが恋せし乙女』『お嬢さん乾杯!』『破れ太鼓』『笛吹川』『永遠の人』『香華』『衝動殺人・息子よ』『この子を残して』など数多くの佳作があります。 私が選ぶ木下恵介のべスト・ファイブは、次のようです。

 1位『二十四の瞳』、2位『野菊の如き君なりき』、3位『楢山節考』、4位『この子を残して』、5位『カルメン故郷に帰る』

 1位に選んだ『二十四の瞳』は、昭和29年(1954)に公開され、多くの人たちを泣かせました。木下の豊かな叙情性が全編に発揮され、美しくも悲しい師弟愛が詩情豊かに描かれ、観客全てに忘れ難い印象を与えました。原作は壺井栄。こんな物語です。

―昭和3年の春、瀬戸内海の小豆島の岬の分校に、新任の教師として大石先生(高峰秀子)がやって来る。新入生は12人。瞳の数は、合計24。教師と生徒たちの楽しい学校生活が、美しい小豆島の風景とともに展開される。

 しかし、学校の教育も段々と軍国主義的になっていく。男の子たちは「将来は兵隊になるのだ」と言って、大石先生を悲しませる。やがて、彼女は結婚し、軍国主義的な教育はしたくないと言って退職する。戦争が始まり、5人の男の教え子も戦場に行き、3人が戦死する。彼女の夫(天本英世)も戦死する。

 戦後、中年になった彼女は、再び教壇に戻り、岬の分校に赴任する。新入生の中には、かつての教え子の子供が何人かいる。教え子たちが同窓会を開く。その席上、戦争で失明した磯吉(田村高広)が、1年生の時の記念写真を手にして、まるで見えるように、「中央にいるのが先生、その隣が○○、その横が××」と説明していく。

 2時間半の長編映画の随所に懐かしい小学唱歌が流れ、これまた涙腺を刺激します。

 私も小学校の教師をしました。何時も大石先生のことを考えて教えていました。