姪の就職2

 もともと三井三池炭鉱は、囚人を使って石炭を掘りだしていた歴史をもつ。その無縁仏の墓は小さな黒ずんだ石柱だけで、周囲の立派な墓石に比べると、あまりにもみすぼらしい。ここにも炭鉱の歴史が垣間見られた。

「我が家の墓はすごいでしょう」

 るり子は墓参りのたびに胸を張る。

 確かに、都会では建てられない大きな石で組み上げられ、その上には詰めると大人が十人は乗れる大きな規模である。

「でも、うちのお父さんが長男だけど、家を継いだのは長女の婿養子なので、ここに入れるのは両親だけ。子どもたちはそれぞれ自分たちの墓を新たに建てなければならないの」

「これだけの立派な墓を建てたおじいさんは、なかなかの人物だったのだろうな」

「農園や青果市場の経営、また芝居小屋も営んでいた」

「それはすごいね」

「いまの三池工業高校があったところでかつて三池集治監(炭鉱で働く囚人を収容していた)があったところなの。つまり今でいう刑務所よね。うちの祖父がそこと直接関係があったわけではないが、集治監の跡地売却の入札に参加したり、集治監の監督が住む官舎を購入していた。私の姉は幼いころ、そこで生活していたの。六十畳敷きの部屋やトイレが四つもある大邸宅だったので、人は“てんごくさん”、つまり天国のような家という意味から、そう呼んだと聞かされていました」

 るり子の家が直接、石炭と関わりはないが、歴史の一端を見せつけられた思いを真三はしていた。彼女が生まれたころ、すでに大牟田から荒尾に移転、小岱山の麓で梅づくりをしていた。るり子の両親が彼女をはじめ息子や娘を関西や関東の大学まで行かせることができたのは、祖父が残した借家があったからだと真三は聞いた覚えがあった。当時はこのあたりの農家や果樹園の家ではせいぜい高校までで、中学で学業を終えていた同級生も多い。真三自身は都会にいたが、それでも大学まで行った者は少数派であった。当時は経済的に余裕があっても、とくに女性はせいぜい短大までで十分と考え、結婚を優先的に考えていた家庭が多かった。

 二人が知り合ったのは真三が二十八歳、るり子は二十七歳だった。たまたま九州出身の会社の友人の紹介で知り合い、三ヶ月後に結婚式を挙げていた。その後、荒尾に行った時の二人の会話である。

「荒尾には地方競馬場(現在は廃止されている)と、陶器の小岱焼、それに荒尾梨ぐらいしかないのだね。歴史的な遺跡はないの?」

 荒尾に行った頃は、本当に退屈な街だった。

「宮崎兄弟の生家が資料館として残っているわ」

「宮崎兄弟?」

「わたしもよく知らないけど、明治の頃、孫文と知り合って中国革命を夢見ていた人で、孫文を自分の家にかくまったことで有名なの」

 真三は資料館に連れて行かれてはじめて宮崎兄弟のことを知った。

「大変な情熱家だね」

 宮崎兄弟の生家は県指定の資料館として整備されている。残念ながら訪れる人は少ない。むしろ荒尾では炭鉱者の社宅跡につくられた三井グリーンランドの巨大な遊園地が九州一円はもとより、東南アジアからも人を集め、ゴールデンウィーク中は九州自動車道の南関ICから三井グリーンランドに通じる道路がクルマで埋められる。徐々にではあるが、石炭の街も新しい顔をつくりつつある。

 真三はるり子と結婚して改めて都会と田舎を比較して考えてみた。江戸時代の思想家の石田梅岩の著書に『都鄙問答』というのがある。都鄙の都は都会、鄙は田舎という意味で、今でいう都会と田舎を比較した問答集である。結論から言えば、どちらも長短があるということである。真三は『都鄙問答』にならって、結婚・都鄙論を再考した。

―玉名での部下の結婚披露宴に親族、友人、会社関係者、それに都会では考えられない隣保、つまり隣り近所の人たち百名近くが集まっていた。るり子の実家から結婚式の会場へ来る途中でいろんなことが浮かんだ。

 真三の場合、三代目都会人(シティボーイ)で、るり子は代々熊本県人で東京や大阪、名古屋で働き、暮らした。兄と四人姉妹の次女で、両親を除いて全員、るり子の結婚に反対だったことを、結婚後数年経ってからるり子から教えられた。

「なぜ?」

 真三はそのころから東京、大阪、名古屋など大都会と熊本、広く九州との男女の組み合わせ夫婦を強く意識した。九州男児が大都会の女性と結婚するケースは真三の周囲にもたくさんいた。現に今回の部下の結婚もそうだ。また九州に異動、住んでいた男性が現地で結ばれることも少なくない。ところが、都会出の男性が九州の女性と結ばれるケースが少ないというのが、真三の体験的観測だった。るり子の兄・姉妹にもそういう組み合わせはない。

「九州は出戻り女性が多いですたい」

 これは出張で行った長崎の飲み屋で、現地の人から聞いた。都会にあこがれ、九州を飛び出した女性が都会の男と結ばれても、うまくゆかず実家に戻って働いているというのだが、定かなことはわからない。るり子が帰省の折、小学校の同窓会に出ていくことがある。そうした旧友のなかにも同様の話が聞かれた。

「うちの息子は大都会へ働きに出しません」

 酔いが回ってきたのか、N君の結婚の宴会場で同席した初老の男性は真三が都会人だと知って、遠慮なくまくしたてた。

「息子さんでそうなら、娘さんを都会の男に嫁がせるなんてことは、絶対にないわけですね」

 真三は持論を確認するよう語気を強めた。

「娘ですか。もちろんです。息子と同じです」

 どうも大都会でも東京は少し違うような感触である。

「東京は武家社会です。熊本も地方の武家社会なんです。だから東京人とは、すぐに通じることができても関西人のように町人社会の人とは難しいのです」

「なるほどなぁと思う反面、本当かな?」

 地元紙のS氏は東京や大阪に勤務した経験があって、真三にそう教えてくれた。その時は目からウロコが落ちるほど、ショックを受けるとともに、説得力のある見方だと感心した。大阪にいる時は気付かなかった。真三の周りにはそんな説を唱える者がいなかったのである。

 このことを聞いて以来、大阪は日本の中で相当、変わっていると見られていると意識した。そのことをるり子にぶつけてみた。

「そらぁー、私だって大阪は生き馬の目を抜くところで、みんなをだましよると聞かされていました」

 るり子の父親までが、そんな忠告をしていたことを知った。

「名古屋はどうなの?」

「名古屋は三地域が寄り集まって、一面は武家社会ですが、商人はしたたかである時は西に顔を向け、またある時は東に顔を向けてうまく立ち回るように思われていますね」

「僕の知っている福岡出身の名古屋の女性は、ビジネスでは凄腕だったよ」

「博多商人は昔から商売がうまいのです」

「そこまで知っていて、よくぞ僕と結婚したね」

「わたしもあんたに騙されたようなものでした」

 るり子は照れ笑いをつくった。

 人口の減少にともない、外国人が日本にやってきて定住する比率が高まる。これからは外国人と結婚するケースも増えるに違いない。現にスポーツ界や芸能界で活躍するハーフの人たちが目立つ。日本人も他民族に徐々に慣れてきている。そのような時代に狭い日本で九州へのこだわりも薄らいでくるに違いないと真三は興味深く見守っている。

「そうか、騙されたというのか」

「あなたの家はとくに変わり者の家でしたが、不思議なことに夫婦喧嘩もしないで続いているのが奇蹟かもしれないですね」

 真三は三代目大阪人であったが、祖父の善次郎蔵、父の善群三はともに奇人変人に近い物書きであった。るり子はそのことを言っているのだ。父、群三の小説がNHKのテレビドラマに採用され全国放送された。

「あんな恥ずかしいドラマはなかった」というので、真三の実家に移り住もうとしなかった。

「近所の人も奇異な目で見るので、行くのもつらかったですよ」

「物書きの家の子は、大なり小なり被害を受けている」

「そうなんですか。歴史小説とかでは、そういうことはないでしょう」

「そう、うまくはいかないよ」

 

■岡田 清治プロフィール

1942年生まれ ジャーナリスト

(編集プロダクション・NET108代表)

著書に『高野山開創千二百年 いっぱんさん行状記』『心の遺言』『あなたは社員の全能力を引き出せますか!』『リヨンで見た虹』など多数

※この物語に対する読者の方々のコメント、体験談を左記のFAXかメールでお寄せください。

今回は「就職」「日本のゆくえ」「結婚」「夫婦」「インド」「愛知県」についてです。物語が進行する中で織り込むことを試み、一緒に考えます。

FAX‥0569―34―7971

メール‥takamitsu@akai-shinbunten.net

 

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姪の就職2

 もともと三井三池炭鉱は、囚人を使って石炭を掘りだしていた歴史をもつ。その無縁仏の墓は小さな黒ずんだ石柱だけで、周囲の立派な墓石に比べると、あまりにもみすぼらしい。ここにも炭鉱の歴史が垣間見られた。

「我が家の墓はすごいでしょう」

 るり子は墓参りのたびに胸を張る。

 確かに、都会では建てられない大きな石で組み上げられ、その上には詰めると大人が十人は乗れる大きな規模である。

「でも、うちのお父さんが長男だけど、家を継いだのは長女の婿養子なので、ここに入れるのは両親だけ。子どもたちはそれぞれ自分たちの墓を新たに建てなければならないの」

「これだけの立派な墓を建てたおじいさんは、なかなかの人物だったのだろうな」

「農園や青果市場の経営、また芝居小屋も営んでいた」

「それはすごいね」

「いまの三池工業高校があったところでかつて三池集治監(炭鉱で働く囚人を収容していた)があったところなの。つまり今でいう刑務所よね。うちの祖父がそこと直接関係があったわけではないが、集治監の跡地売却の入札に参加したり、集治監の監督が住む官舎を購入していた。私の姉は幼いころ、そこで生活していたの。六十畳敷きの部屋やトイレが四つもある大邸宅だったので、人は“てんごくさん”、つまり天国のような家という意味から、そう呼んだと聞かされていました」

 るり子の家が直接、石炭と関わりはないが、歴史の一端を見せつけられた思いを真三はしていた。彼女が生まれたころ、すでに大牟田から荒尾に移転、小岱山の麓で梅づくりをしていた。るり子の両親が彼女をはじめ息子や娘を関西や関東の大学まで行かせることができたのは、祖父が残した借家があったからだと真三は聞いた覚えがあった。当時はこのあたりの農家や果樹園の家ではせいぜい高校までで、中学で学業を終えていた同級生も多い。真三自身は都会にいたが、それでも大学まで行った者は少数派であった。当時は経済的に余裕があっても、とくに女性はせいぜい短大までで十分と考え、結婚を優先的に考えていた家庭が多かった。

 二人が知り合ったのは真三が二十八歳、るり子は二十七歳だった。たまたま九州出身の会社の友人の紹介で知り合い、三ヶ月後に結婚式を挙げていた。その後、荒尾に行った時の二人の会話である。

「荒尾には地方競馬場(現在は廃止されている)と、陶器の小岱焼、それに荒尾梨ぐらいしかないのだね。歴史的な遺跡はないの?」

 荒尾に行った頃は、本当に退屈な街だった。

「宮崎兄弟の生家が資料館として残っているわ」

「宮崎兄弟?」

「わたしもよく知らないけど、明治の頃、孫文と知り合って中国革命を夢見ていた人で、孫文を自分の家にかくまったことで有名なの」

 真三は資料館に連れて行かれてはじめて宮崎兄弟のことを知った。

「大変な情熱家だね」

 宮崎兄弟の生家は県指定の資料館として整備されている。残念ながら訪れる人は少ない。むしろ荒尾では炭鉱者の社宅跡につくられた三井グリーンランドの巨大な遊園地が九州一円はもとより、東南アジアからも人を集め、ゴールデンウィーク中は九州自動車道の南関ICから三井グリーンランドに通じる道路がクルマで埋められる。徐々にではあるが、石炭の街も新しい顔をつくりつつある。

 真三はるり子と結婚して改めて都会と田舎を比較して考えてみた。江戸時代の思想家の石田梅岩の著書に『都鄙問答』というのがある。都鄙の都は都会、鄙は田舎という意味で、今でいう都会と田舎を比較した問答集である。結論から言えば、どちらも長短があるということである。真三は『都鄙問答』にならって、結婚・都鄙論を再考した。

―玉名での部下の結婚披露宴に親族、友人、会社関係者、それに都会では考えられない隣保、つまり隣り近所の人たち百名近くが集まっていた。るり子の実家から結婚式の会場へ来る途中でいろんなことが浮かんだ。

 真三の場合、三代目都会人(シティボーイ)で、るり子は代々熊本県人で東京や大阪、名古屋で働き、暮らした。兄と四人姉妹の次女で、両親を除いて全員、るり子の結婚に反対だったことを、結婚後数年経ってからるり子から教えられた。

「なぜ?」

 真三はそのころから東京、大阪、名古屋など大都会と熊本、広く九州との男女の組み合わせ夫婦を強く意識した。九州男児が大都会の女性と結婚するケースは真三の周囲にもたくさんいた。現に今回の部下の結婚もそうだ。また九州に異動、住んでいた男性が現地で結ばれることも少なくない。ところが、都会出の男性が九州の女性と結ばれるケースが少ないというのが、真三の体験的観測だった。るり子の兄・姉妹にもそういう組み合わせはない。

「九州は出戻り女性が多いですたい」

 これは出張で行った長崎の飲み屋で、現地の人から聞いた。都会にあこがれ、九州を飛び出した女性が都会の男と結ばれても、うまくゆかず実家に戻って働いているというのだが、定かなことはわからない。るり子が帰省の折、小学校の同窓会に出ていくことがある。そうした旧友のなかにも同様の話が聞かれた。

「うちの息子は大都会へ働きに出しません」

 酔いが回ってきたのか、N君の結婚の宴会場で同席した初老の男性は真三が都会人だと知って、遠慮なくまくしたてた。

「息子さんでそうなら、娘さんを都会の男に嫁がせるなんてことは、絶対にないわけですね」

 真三は持論を確認するよう語気を強めた。

「娘ですか。もちろんです。息子と同じです」

 どうも大都会でも東京は少し違うような感触である。

「東京は武家社会です。熊本も地方の武家社会なんです。だから東京人とは、すぐに通じることができても関西人のように町人社会の人とは難しいのです」

「なるほどなぁと思う反面、本当かな?」

 地元紙のS氏は東京や大阪に勤務した経験があって、真三にそう教えてくれた。その時は目からウロコが落ちるほど、ショックを受けるとともに、説得力のある見方だと感心した。大阪にいる時は気付かなかった。真三の周りにはそんな説を唱える者がいなかったのである。

 このことを聞いて以来、大阪は日本の中で相当、変わっていると見られていると意識した。そのことをるり子にぶつけてみた。

「そらぁー、私だって大阪は生き馬の目を抜くところで、みんなをだましよると聞かされていました」

 るり子の父親までが、そんな忠告をしていたことを知った。

「名古屋はどうなの?」

「名古屋は三地域が寄り集まって、一面は武家社会ですが、商人はしたたかである時は西に顔を向け、またある時は東に顔を向けてうまく立ち回るように思われていますね」

「僕の知っている福岡出身の名古屋の女性は、ビジネスでは凄腕だったよ」

「博多商人は昔から商売がうまいのです」

「そこまで知っていて、よくぞ僕と結婚したね」

「わたしもあんたに騙されたようなものでした」

 るり子は照れ笑いをつくった。

 人口の減少にともない、外国人が日本にやってきて定住する比率が高まる。これからは外国人と結婚するケースも増えるに違いない。現にスポーツ界や芸能界で活躍するハーフの人たちが目立つ。日本人も他民族に徐々に慣れてきている。そのような時代に狭い日本で九州へのこだわりも薄らいでくるに違いないと真三は興味深く見守っている。

「そうか、騙されたというのか」

「あなたの家はとくに変わり者の家でしたが、不思議なことに夫婦喧嘩もしないで続いているのが奇蹟かもしれないですね」

 真三は三代目大阪人であったが、祖父の善次郎蔵、父の善群三はともに奇人変人に近い物書きであった。るり子はそのことを言っているのだ。父、群三の小説がNHKのテレビドラマに採用され全国放送された。

「あんな恥ずかしいドラマはなかった」というので、真三の実家に移り住もうとしなかった。

「近所の人も奇異な目で見るので、行くのもつらかったですよ」

「物書きの家の子は、大なり小なり被害を受けている」

「そうなんですか。歴史小説とかでは、そういうことはないでしょう」

「そう、うまくはいかないよ」