■杉本武之プロフィール

1939年 碧南市に生まれる。

京都大学文学部卒業。

翻訳業を経て、小学校教師になるために愛知教育大学に入学。

25年間、西尾市の小中学校に勤務。

定年退職後、名古屋大学教育学部の大学院で学ぶ。

〈趣味〉読書と競馬

 

【35】外国映画(その1)

◎『戦艦ポチョムキン』

 私は小さい時から映画が大好きで、今までに数え切れないほどの映画を観てきました。

 70年以上に亙って観てきた数々の映画の中で、私を鼓舞し、慰め、感動させた作品について書いていきたいと思います。当然、古い映画が多くなるでしょう。

 まず最初に取り上げる作品は、世界映画史において今なお燦然と輝く傑作『戦鑑ポチョムキン』です。

 この不滅の金字塔とも言うべきサイレント映画を作ったのは、旧ソ連の映画監督セルゲイ・エイゼンシュテインです。彼は1898年1月23日、バルト海沿岸のリガ(現在、ラトビア共和国の首都)で生まれました。この年の5月16日に、日本映画の巨匠・溝口健二が東京の浅草で誕生しています。『戦艦ポチョムキン』や『イワン雷帝』を作ったエイゼンシュテインと、『西鶴一代女』や『近松物語』を作った溝口健二。私は、この二人が同じ年に生まれたとは信じられません。どうしてもエイゼンシュテインの方がずっと年上だったように思えるからです。

 『戦艦ポチョムキン』は1925年に作られました。エイゼンシュテインは27歳でした。また『イワン雷帝』は1944年から1946年にかけて作られました。そして、この映画の天才は1948年に50歳で亡くなります。一方、日本の溝口健二は1952年に『西鶴一代女』、1953年に『雨月物語』、そして1954年に『山椒太夫』と『近松物語』を作りました。いずれもエイゼンシュテインが亡くなってからの作品です。

 そんな訳で、今でも私は、二人が同年齢だったとは信じられないのです。

 さて、『戦艦ポチョムキン』が日本で初めて上映されたのは、完成されてから34年後の1959年2月21日の夜のことでした。「『戦艦ポチョムキン』上映促進の会」の主催によって横浜の県立音楽堂で自主上映されたのです。そして、非劇場自主上映という形で上映され続け、ついに1967年に一般の劇場で公開されるようになりました。

 私がこの映画を観たのは、昭和35年(1960年)でした。勿論、映画館ではありません。大学の映画部に入っていた私は、何月だったかは忘れましたが、その年のある日、テレビ(恐らくNHK教育テレビ)で放送されることを知り、映画部の友人と一緒に丸太町通りの喫茶店で観ました。当時のテレビの画面は鮮明ではありませんでしたが、私は、観たくて堪らなかったこの歴史的な名画に圧倒されました。

 私が今持っているDVD は「IVC ベストコレクション」です。映像も美しく、付けられているショスタコーヴィチの音楽も迫力があります。ケースの裏側に次のような解説文が書かれています。分かりやすいように少し書き直して紹介します。

 「音声の無いサイレント映画は、映像表現がすべてである。27歳だったエイゼンシュテインは、リアリズム表現と編集技術を駆使して映画作りの基本とも言えるモンタージュ論を確立した。1905年6月、帝政ロシア黒海艦隊の軍艦ポチョムキン号で、ウジ虫の入ったスープを飲まされた水兵たちが反乱を起こした。反乱に成功したポチョムキン号を歓喜して迎えるオデッサ市民に向けて、皇帝の軍隊が石段の上から弾丸の雨を降らせる。逃げ惑う民衆。赤ん坊を乗せた乳母車が石段を転がり落ちる場面は余りにも名高い」

 観る機会がありましたら、見逃す事なく絶対に観て下さい。

◎『大地のうた』

 1955年に作られたインド映画『大地のうた』は、本当に素晴らしい作品です。

 この名作を作ったのはサタジット・レイ(1921~1992)です。彼は26歳の時に「カルカッタ・フィルム・ソサエティー」を設立しました。そして、最初の活動として、ロンドンの映画研究所から『戦鑑ポチョムキン』のプリントを入手しようとしました。そして、それに成功しました。その後、レイは、仕事でロンドンに行き、数多くの映画を観ましたが、特にイタリアのデ・シーカ監督の『自転車泥棒』に感銘を受けました。スターも無く、現地ロケだけでも、これだけの優れた映画ができるのだ。― 帰国すると、レイは第1作『大地のうた』の製作に取り掛かりました。

 資金も殆ど無いし、どの映画会社も話に乗ってくれません。レイは、家財道具を売り払いました。そして、昼間は仕事を続け、土曜日の午後と日曜日に撮影をしました。そのうちにべンガル州の政府が補助金を出してくれ、撮影開始から3年後に映画は完成しました。しかし、州政府は映画を観て「暗すぎる」と言って公開を許しませんでした。許可が出たのは、数年後の1955年のことでした。

 1956年のカンヌ映画祭に出品され、「最良の人間的記録」として特別賞が与えられました。世界各地で数々の賞を受けましたが、日本で公開されたのは1966年になってからでした。それも、アート・シアター・ギルド(ATG)の配給でした。大きな映画配給会社は、こんなに暗いインド映画には客が来ないと判断していたのでしょう。

 私は、日本で公開された年に京都の小さな映画館で観ました。強い感動を受けました。凄い作品だと思いました。数年前に中古のDVD を買いました。私の大切な宝物です。

 レイはこう語っています。「私は、シナリオをがっちり組み立て、シナリオを重視して撮影した。大自然の中に立ち、風光と光線、風習に応じてカメラの位置を決定し、ゆっくりとしたリズムで話を進めて行った」

 『羅生門』などでレイに強い影響を与えた黒澤明監督はこう語っています。「サタジット・レイに会ったら、あの人の作品が分かったね。眼光炯炯としていて、本当に立派な人なんだ。映画は、作った監督そのままなんだ。サタジット・レイは、滔々と流れるガンジス河のような、迫力のある大きな体で、哲学的に遠くを見る眼力がすごかった。なるほど、こういう人だから、あんな映画が撮れるんだと納得した。映画は、怖くなるほど監督自身を映し出すから、ちゃんと生きなければいけないと思う」

 1930年代のインドの西べンガル地方の寒村が舞台です。主人公の少年オプーの家庭は、詩や戯曲も書く善良な父、現状に不満な働き者の母、芯の強い優しい姉の4人家族です。それに親戚の病弱の老婆が同居しています。日々の生活は貧困そのものです。

 物語の中心は、老婆と姉のドゥルガの二人の「死」です。哀切極まりない話で、特に優しい姉が高熱を発して、激しい雷雨で家が壊されかかった中で、母に抱き締められながら死んで行く場面は深い悲しみに満ちています。

 出演者はみんな素人ですが、老婆の役だけは舞台俳優のチュニバラ・デヴィが演じています。ガンで闘病中だった名女優は、激痛を押さえるためにアヘンを服用していました。そして、撮影終了後に亡くなったそうです。正に入魂の名演技です。

 

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【35】外国映画(その1)

◎『戦艦ポチョムキン』

 私は小さい時から映画が大好きで、今までに数え切れないほどの映画を観てきました。

 70年以上に亙って観てきた数々の映画の中で、私を鼓舞し、慰め、感動させた作品について書いていきたいと思います。当然、古い映画が多くなるでしょう。

 まず最初に取り上げる作品は、世界映画史において今なお燦然と輝く傑作『戦鑑ポチョムキン』です。

 この不滅の金字塔とも言うべきサイレント映画を作ったのは、旧ソ連の映画監督セルゲイ・エイゼンシュテインです。彼は1898年1月23日、バルト海沿岸のリガ(現在、ラトビア共和国の首都)で生まれました。この年の5月16日に、日本映画の巨匠・溝口健二が東京の浅草で誕生しています。『戦艦ポチョムキン』や『イワン雷帝』を作ったエイゼンシュテインと、『西鶴一代女』や『近松物語』を作った溝口健二。私は、この二人が同じ年に生まれたとは信じられません。どうしてもエイゼンシュテインの方がずっと年上だったように思えるからです。

 『戦艦ポチョムキン』は1925年に作られました。エイゼンシュテインは27歳でした。また『イワン雷帝』は1944年から1946年にかけて作られました。そして、この映画の天才は1948年に50歳で亡くなります。一方、日本の溝口健二は1952年に『西鶴一代女』、1953年に『雨月物語』、そして1954年に『山椒太夫』と『近松物語』を作りました。いずれもエイゼンシュテインが亡くなってからの作品です。

 そんな訳で、今でも私は、二人が同年齢だったとは信じられないのです。

 さて、『戦艦ポチョムキン』が日本で初めて上映されたのは、完成されてから34年後の1959年2月21日の夜のことでした。「『戦艦ポチョムキン』上映促進の会」の主催によって横浜の県立音楽堂で自主上映されたのです。そして、非劇場自主上映という形で上映され続け、ついに1967年に一般の劇場で公開されるようになりました。

 私がこの映画を観たのは、昭和35年(1960年)でした。勿論、映画館ではありません。大学の映画部に入っていた私は、何月だったかは忘れましたが、その年のある日、テレビ(恐らくNHK教育テレビ)で放送されることを知り、映画部の友人と一緒に丸太町通りの喫茶店で観ました。当時のテレビの画面は鮮明ではありませんでしたが、私は、観たくて堪らなかったこの歴史的な名画に圧倒されました。

 私が今持っているDVD は「IVC ベストコレクション」です。映像も美しく、付けられているショスタコーヴィチの音楽も迫力があります。ケースの裏側に次のような解説文が書かれています。分かりやすいように少し書き直して紹介します。

 「音声の無いサイレント映画は、映像表現がすべてである。27歳だったエイゼンシュテインは、リアリズム表現と編集技術を駆使して映画作りの基本とも言えるモンタージュ論を確立した。1905年6月、帝政ロシア黒海艦隊の軍艦ポチョムキン号で、ウジ虫の入ったスープを飲まされた水兵たちが反乱を起こした。反乱に成功したポチョムキン号を歓喜して迎えるオデッサ市民に向けて、皇帝の軍隊が石段の上から弾丸の雨を降らせる。逃げ惑う民衆。赤ん坊を乗せた乳母車が石段を転がり落ちる場面は余りにも名高い」

 観る機会がありましたら、見逃す事なく絶対に観て下さい。

 

◎『大地のうた』

 1955年に作られたインド映画『大地のうた』は、本当に素晴らしい作品です。

 この名作を作ったのはサタジット・レイ(1921~1992)です。彼は26歳の時に「カルカッタ・フィルム・ソサエティー」を設立しました。そして、最初の活動として、ロンドンの映画研究所から『戦鑑ポチョムキン』のプリントを入手しようとしました。そして、それに成功しました。その後、レイは、仕事でロンドンに行き、数多くの映画を観ましたが、特にイタリアのデ・シーカ監督の『自転車泥棒』に感銘を受けました。スターも無く、現地ロケだけでも、これだけの優れた映画ができるのだ。― 帰国すると、レイは第1作『大地のうた』の製作に取り掛かりました。

 資金も殆ど無いし、どの映画会社も話に乗ってくれません。レイは、家財道具を売り払いました。そして、昼間は仕事を続け、土曜日の午後と日曜日に撮影をしました。そのうちにべンガル州の政府が補助金を出してくれ、撮影開始から3年後に映画は完成しました。しかし、州政府は映画を観て「暗すぎる」と言って公開を許しませんでした。許可が出たのは、数年後の1955年のことでした。

 1956年のカンヌ映画祭に出品され、「最良の人間的記録」として特別賞が与えられました。世界各地で数々の賞を受けましたが、日本で公開されたのは1966年になってからでした。それも、アート・シアター・ギルド(ATG)の配給でした。大きな映画配給会社は、こんなに暗いインド映画には客が来ないと判断していたのでしょう。

 私は、日本で公開された年に京都の小さな映画館で観ました。強い感動を受けました。凄い作品だと思いました。数年前に中古のDVD を買いました。私の大切な宝物です。

 レイはこう語っています。「私は、シナリオをがっちり組み立て、シナリオを重視して撮影した。大自然の中に立ち、風光と光線、風習に応じてカメラの位置を決定し、ゆっくりとしたリズムで話を進めて行った」

 『羅生門』などでレイに強い影響を与えた黒澤明監督はこう語っています。「サタジット・レイに会ったら、あの人の作品が分かったね。眼光炯炯としていて、本当に立派な人なんだ。映画は、作った監督そのままなんだ。サタジット・レイは、滔々と流れるガンジス河のような、迫力のある大きな体で、哲学的に遠くを見る眼力がすごかった。なるほど、こういう人だから、あんな映画が撮れるんだと納得した。映画は、怖くなるほど監督自身を映し出すから、ちゃんと生きなければいけないと思う」

 1930年代のインドの西べンガル地方の寒村が舞台です。主人公の少年オプーの家庭は、詩や戯曲も書く善良な父、現状に不満な働き者の母、芯の強い優しい姉の4人家族です。それに親戚の病弱の老婆が同居しています。日々の生活は貧困そのものです。

 物語の中心は、老婆と姉のドゥルガの二人の「死」です。哀切極まりない話で、特に優しい姉が高熱を発して、激しい雷雨で家が壊されかかった中で、母に抱き締められながら死んで行く場面は深い悲しみに満ちています。

 出演者はみんな素人ですが、老婆の役だけは舞台俳優のチュニバラ・デヴィが演じています。ガンで闘病中だった名女優は、激痛を押さえるためにアヘンを服用していました。そして、撮影終了後に亡くなったそうです。正に入魂の名演技です。