さて、溝口幹の思想は、諸般の事情から詳しい資料が焼却されていますので、鈴渓義塾の卒業生や鈴渓義塾と関係のあった人々の残した言からしか知ることができません。

 彼らの言は、『溝口先生記念?附鈴渓同窓会報告書第12 回?』(1908、鈴渓同窓会編輯・発行)、『溝口先生小傳』(1925、細見京之助編輯・盛山久左衛門発行)、『鈴渓22 號?溝口幹先生頌徳記念號」(1936、鈴渓同窓会編輯・発行)の3 冊と、常滑市立小鈴谷小学校の通用門の横に立つ「幹頌徳碑」の碑文に残されています。

 碑文から見ていくことにしましょう。この頌徳碑は、最上部に松田源治による題額「徳維香」を掲げ、その次に横江嘉純による幹の肖像を刻み、その下に第八高等学校講師の八木幸太郎による幹頌徳の碑文が刻されています。

 私は先月号の最後に、「学問は出世のためにするものではありません。学問を深め、みんなが幸せになれるようにしていくのが学問の道です」と書きました。多分幹はこう言っていたに違いないという私の思いから書いたのでその事について論証する必要があります。

 八木はこの頌徳碑建設の意義について、「富国強兵に酔い、富と力を望み、力と財に迷える者が多い今日、名利に恬淡で、真実の教育に生きられた先生の頌徳は、鈴渓の地だけでなく社会一般の為になるものである」と語り、実際の碑文に「卒業生たちはこの先生の徳を忘れることができず、碑を建ててその徳を不朽ならしめんとする」と書き留め、自らも以下の漢詩でもって幹の教育を讃えるのでした。

諄諄善誨 不羨声聞 徳化之厚 英士如雲

大碑屹屹 不見垢塵 鈴渓之郷 永仰哲人

 諄諄と善く教え、他者の出世を羨まず、徳でもって人を導くこと厚き貴兄の英士は雲の如くに高い。今や貴兄を讃える碑は屹然と建ち、貴兄の徳は垢や塵にまみれて忘れられることはあるまい。鈴渓の郷の人々は永遠に貴兄を哲人と仰ぐであろう。

 以上の言からだけでも「学問は出世のためにするものではありません。学問を深め、みんなが幸せになれるようにしていくのが学問の道です」との言を幹の言とする私の類推の正しさは論証できたように思います。溝口幹は盛田命祺を慕い、命祺のように生きたいと願い、命祺に請われて鈴渓義塾の教師になりました。その命祺は舜の徒と讃えられるほどに村民のために生きた人。更に尾張藩の教師、細井平洲は、上に立つ人は人々の苦しみを解決するという自覚を持てと説いています。これらのことを考え合わせれば教育は社会のリーダーを育てるものですから幹がこう言うのは当然のように思えます。

 

 八木の表わした頌徳文の中には以下のような文言もあります。

 先生は、大津師範の監事の志賀泰山に去ることを願い出る。泰山はこの時、「嗚呼、君は郷党の師となるか」と言われる。先生(幹)は俯きて言なし。こうして先生は小鈴谷小学校の訓導になられる。

 溝口幹はより良い教師を目指し、盛田命祺の推奨の下、大津師範学校に学びます。しかし幹は優秀な成績を修めたため、卒業の時、泰山からこの学校に残り教官となって僕と力を合わせていい先生を育てるための師範学校づくりに協力してほしいと引き留められます。この当時師範学校は草創期にあり(愛知にはまだなかった)、優秀な幹には、この泰山の気時ちは手にとるように分かります。いい先生を育てるにはいい教官が必要であるのは理の当然ですので幹は悩むのでした。

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 さて、溝口幹の思想は、諸般の事情から詳しい資料が焼却されていますので、鈴渓義塾の卒業生や鈴渓義塾と関係のあった人々の残した言からしか知ることができません。

 彼らの言は、『溝口先生記念?附鈴渓同窓会報告書第12 回?』(1908、鈴渓同窓会編輯・発行)、『溝口先生小傳』(1925、細見京之助編輯・盛山久左衛門発行)、『鈴渓22 號?溝口幹先生頌徳記念號」(1936、鈴渓同窓会編輯・発行)の3 冊と、常滑市立小鈴谷小学校の通用門の横に立つ「幹頌徳碑」の碑文に残されています。

 碑文から見ていくことにしましょう。この頌徳碑は、最上部に松田源治による題額「徳維香」を掲げ、その次に横江嘉純による幹の肖像を刻み、その下に第八高等学校講師の八木幸太郎による幹頌徳の碑文が刻されています。

 私は先月号の最後に、「学問は出世のためにするものではありません。学問を深め、みんなが幸せになれるようにしていくのが学問の道です」と書きました。多分幹はこう言っていたに違いないという私の思いから書いたのでその事について論証する必要があります。

 八木はこの頌徳碑建設の意義について、「富国強兵に酔い、富と力を望み、力と財に迷える者が多い今日、名利に恬淡で、真実の教育に生きられた先生の頌徳は、鈴渓の地だけでなく社会一般の為になるものである」と語り、実際の碑文に「卒業生たちはこの先生の徳を忘れることができず、碑を建ててその徳を不朽ならしめんとする」と書き留め、自らも以下の漢詩でもって幹の教育を讃えるのでした。

諄諄善誨 不羨声聞 徳化之厚 英士如雲

大碑屹屹 不見垢塵 鈴渓之郷 永仰哲人

諄諄と善く教え、他者の出世を羨まず、徳でもって人を導くこと厚き貴兄の英士は雲の如くに高い。今や貴兄を讃える碑は屹然と建ち、貴兄の徳は垢や塵にまみれて忘れられることはあるまい。鈴渓の郷の人々は永遠に貴兄を哲人と仰ぐであろう。

 以上の言からだけでも「学問は出世のためにするものではありません。学問を深め、みんなが幸せになれるようにしていくのが学問の道です」との言を幹の言とする私の類推の正しさは論証できたように思います。溝口幹は盛田命祺を慕い、命祺のように生きたいと願い、命祺に請われて鈴渓義塾の教師になりました。その命祺は舜の徒と讃えられるほどに村民のために生きた人。更に尾張藩の教師、細井平洲は、上に立つ人は人々の苦しみを解決するという自覚を持てと説いています。これらのことを考え合わせれば教育は社会のリーダーを育てるものですから幹がこう言うのは当然のように思えます。

 

 八木の表わした頌徳文の中には以下のような文言もあります。

 先生は、大津師範の監事の志賀泰山に去ることを願い出る。泰山はこの時、「嗚呼、君は郷党の師となるか」と言われる。先生(幹)は俯きて言なし。こうして先生は小鈴谷小学校の訓導になられる。

 溝口幹はより良い教師を目指し、盛田命祺の推奨の下、大津師範学校に学びます。しかし幹は優秀な成績を修めたため、卒業の時、泰山からこの学校に残り教官となって僕と力を合わせていい先生を育てるための師範学校づくりに協力してほしいと引き留められます。この当時師範学校は草創期にあり(愛知にはまだなかった)、優秀な幹には、この泰山の気時ちは手にとるように分かります。いい先生を育てるにはいい教官が必要であるのは理の当然ですので幹は悩むのでした。