(前号より。案内パンフレットのつづき)

溝口幹は命祺翁の理想に感銘し、薫陶と支援を受け、小鈴谷村郷学校の教師を経て大阪・東京の師範学校で学び、大津師範では卒業後、教職を経験した後、小鈴谷村に戻り、「私塾鈴渓義塾」の塾長となり、"志"学ぶ"情熱"の3つの柱を教育の礎として多くの人材を育て、命祺翁の期待と支援に応え小鈴谷村でその一生を終えた。

 

 パンフレットの中に「溝口幹は命祺翁の理想に感銘し薫陶と支援を受け」の叙述が見られます。私は前号で盛田昭夫や平岩外四を盛田命祺・溝口幹によって築かれた鈴渓義塾の思想の継承発展者と書くと言いましたがその「 鈴渓義塾の思想」はこの命祺と幹の出会いによって誕生したのでした。

 この誕生及びその継承発展の物語を書く事がここでの目的です。しかし当面は命祺と幹に集中します。なぜなら誕生が第一で、継承発展は第二ですので。

 私は後日、『村民とともに生きた盛田命祺と溝口幹』という本の出版を予定していますが、そこでは盛田命祺・溝口幹の二人が「村民とともに生き」、鈴渓の郷(小鈴谷村)を「徳これ馨る」郷に変えていった鈴渓義塾物語として書くつもりです。二人の生没年は、

盛田命祺(1816~1894) 溝口幹(1852~1933)

 二人の物語を知る上で一番大事な本は構口幹著『盛田命祺翁小傳』(大正5年刊)です。この本は溝口幹が村民とともに生きた盛田命祺の生き方を感動をもって伝え、私もこう生きたいという思いの籠った本になっています。

 冒頭に、尾張藩主で貴族院議員の徳川義親をはじめ明治天皇や岩倉具視、品川弥二郎らによる表彰状や交流の書状を掲載し、その後に「盛田命祺翁小傳」の本文が書かれています。そしてこの「表彰状や交流の書状」 はすべて村民の貧困を救い、村民のために学校や道路をつくり「村民とともに生きた」盛田命祺を讃えるものになっています。

 この上に立って溝口幹は『盛田命祺翁小傳』を書いたのです。どんな思いで。もちろん「私も命祺翁のように、村民とともに生きる教師でありたい」。この事だと思います。実際、この思いについては『盛田命祺翁小傳』から容易に読み取れます。この詳述は次号でします。

 その前に、大正7年10月、盛田酒造に隣接する白山神社境内での盛田命祺翁の銅像建立について述べることにします。

 この銅像の銅像記の執筆者は衆議院議員の矢土勝之ですが、彼は溝口幹の依頼によって書いたと言い、そして文面もほとんど『盛田命祺翁小傳』に依拠していますので、この銅像も溝口幹の意図において建立されたことが分かります。

 では、何を意図して建立したのでしょうか。この銅像記には、「像を鋳し、以てその儀を正しく保存すべく、文を録して以てその徳行を伝える」と書かれています。命祺翁の徳行を後世に残したい事であったことは自明です。

 更に、この銅像には尾張藩主で貴族院議員の徳川義親の題額「厚德廣惠」がはめ込まれています。これも溝口幹が求めたのでしょう。「德厚くして廣く恵みを与えた人」という意味になりますので。徳川義親は尾張藩主の時代に盛田命祺の飢渇難渋の村民救済や村民の利便のための往還道の普請等の功績に対して表彰をしていますが、命祺を表わすには「厚德廣惠」がピッタリと考え、こう揮毫したと思われます。( 次号に)

 

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溝口幹は命祺翁の理想に感銘し、薫陶と支援を受け、小鈴谷村郷学校の教師を経て大阪・東京の師範学校で学び、大津師範では卒業後、教職を経験した後、小鈴谷村に戻り、「私塾鈴渓義塾」の塾長となり、"志"学ぶ"情熱"の3つの柱を教育の礎として多くの人材を育て、命祺翁の期待と支援に応え小鈴谷村でその一生を終えた。

 

 パンフレットの中に「溝口幹は命祺翁の理想に感銘し薫陶と支援を受け」の叙述が見られます。私は前号で盛田昭夫や平岩外四を盛田命祺・溝口幹によって築かれた鈴渓義塾の思想の継承発展者と書くと言いましたがその「 鈴渓義塾の思想」はこの命祺と幹の出会いによって誕生したのでした。

 この誕生及びその継承発展の物語を書く事がここでの目的です。しかし当面は命祺と幹に集中します。なぜなら誕生が第一で、継承発展は第二ですので。

 私は後日、『村民とともに生きた盛田命祺と溝口幹』という本の出版を予定していますが、そこでは盛田命祺・溝口幹の二人が「村民とともに生き」、鈴渓の郷(小鈴谷村)を「徳これ馨る」郷に変えていった鈴渓義塾物語として書くつもりです。二人の生没年は、

盛田命祺(1816~1894)

溝口幹(1852~1933)

 二人の物語を知る上で一番大事な本は構口幹著『盛田命祺翁小傳』(大正5年刊)です。この本は溝口幹が村民とともに生きた盛田命祺の生き方を感動をもって伝え、私もこう生きたいという思いの籠った本になっています。

 冒頭に、尾張藩主で貴族院議員の徳川義親をはじめ明治天皇や岩倉具視、品川弥二郎らによる表彰状や交流の書状を掲載し、その後に「盛田命祺翁小傳」の本文が書かれています。そしてこの「表彰状や交流の書状」 はすべて村民の貧困を救い、村民のために学校や道路をつくり「村民とともに生きた」盛田命祺を讃えるものになっています。

 この上に立って溝口幹は『盛田命祺翁小傳』を書いたのです。どんな思いで。もちろん「私も命祺翁のように、村民とともに生きる教師でありたい」。この事だと思います。実際、この思いについては『盛田命祺翁小傳』から容易に読み取れます。この詳述は次号でします。

 その前に、大正7年10月、盛田酒造に隣接する白山神社境内での盛田命祺翁の銅像建立について述べることにします。

 この銅像の銅像記の執筆者は衆議院議員の矢土勝之ですが、彼は溝口幹の依頼によって書いたと言い、そして文面もほとんど『盛田命祺翁小傳』に依拠していますので、この銅像も溝口幹の意図において建立されたことが分かります。

 では、何を意図して建立したのでしょうか。この銅像記には、「像を鋳し、以てその儀を正しく保存すべく、文を録して以てその徳行を伝える」と書かれています。命祺翁の徳行を後世に残したい事であったことは自明です。

 更に、この銅像には尾張藩主で貴族院議員の徳川義親の題額「厚德廣惠」がはめ込まれています。これも溝口幹が求めたのでしょう。「德厚くして廣く恵みを与えた人」という意味になりますので。徳川義親は尾張藩主の時代に盛田命祺の飢渇難渋の村民救済や村民の利便のための往還道の普請等の功績に対して表彰をしていますが、命祺を表わすには「厚德廣惠」がピッタリと考え、こう揮毫したと思われます。

( 次号に)