私は6月号の末尾に、「フェノロサの仏画論」のつづきとして、「仏像を偶像崇拝と揶揄するキリスト教徒には、仏像が持つ慈悲の世界が見えなかっただけとフェノロサは言います。」と私は述べたかった事を補足しておきます。

 櫻井敬徳の思想について、もう少し述べさせていただくと三井寺法明院は三井寺の密教道場の塔頭としてあります。密教と言うと秘密の教えのように聞こえますが、そうではありません。仏教の3原則「戒定慧」のうち、「定慧」で以て仏の道を学び、「戒」でもって仏の道を実践するのが仏教です。換言すれば、成仏し成道を実現していくのが仏教です。慈悲の世界実現を目指して。しかし成道は、「実現」していくものですから、まだ「顕」ではなく「密」に留まります。だから密教だと言えます。フェノロサはこの密教の実践性において敬徳に敬服したのでした。そしてこの密教の道は善の実現を願う哲学者の道と同じです。私はこれを以て櫻井敬徳を哲学者と表します。

 

*地元での櫻井敬徳勉強会について。今は敬徳の思想を深く理解するために思想的土壌として西阿野村の古文書を読んだり、常滑の文化を考える努力をしています。これらの研究成果も後日発行の研究論文集にて発表致します。

 

 

 今号から「鈴渓義塾物語」というテーマで、盛田命祺、溝口幹、盛田昭夫、平岩外四の思想を順に紹介していきます。もちろん哲学思想として。

 鈴渓義塾は明治の初め、常滑市の小鈴谷にある盛田酒造の当主盛田命祺によって、その地につくられた学校で溝口幹を塾長とする学校でした。

 盛田昭夫や平岩外四は鈴渓義塾とは直接的には関係ありませんが盛田命祺・溝口幹によって築かれた鈴渓義塾の思想を継承発展させた人として紹介します。

 さて、手もとに常滑市観光協会発行(平成23 年11月)の『尾州知多 鈴渓の郷巡り』のパンフレットがあります。「鈴渓の歴史を歩む」というタイトルのもとに「鈴渓義塾」と「命祺翁と溝口幹塾長」がコンパクトにまとめられています。

 

「鈴渓義塾」について

明治維新後、政府は明治5年に学校制度を発布し各地に郷学校が設立された。小鈴谷村で代々庄屋を務める盛田本家第11代久左衛門(隠居後、命祺と名乗る)はその創設に尽力し、伊勢から教師として溝口幹を招く。その後、明治19年小学校令が発布され高等小学校は一郡一校の定めで知多郡では半田に置かれた。しかし小鈴谷からは遠く、向学心に燃える者に更に上の教育を授けたいという幹の希望を聞き、明治21年私塾「鈴渓義塾」を創設し幹を塾長に迎えた。各界で活躍した人や教職に就いた人を多数輩出する。

 

「命祺翁と溝口幹塾長」について

命祺翁は明治維新で活躍した福沢諭吉や松下村塾から出た品川弥二郎や明倫館を出た井上馨などとの親交を深め、これからの日本には教育が必要と考え、私財を投じ学校を建設し学費や寄宿舎などの支援を行った。また秀才の誉れが高い伊勢神宮嗣官御師の子息、溝口幹の資質を見込み小鈴谷村に招いた。(次号に)

 

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私は6月号の末尾に、「フェノロサの仏画論」のつづきとして、「仏像を偶像崇拝と揶揄するキリスト教徒には、仏像が持つ慈悲の世界が見えなかっただけとフェノロサは言います。」と私は述べたかった事を補足しておきます。

 櫻井敬徳の思想について、もう少し述べさせていただくと三井寺法明院は三井寺の密教道場の塔頭としてあります。密教と言うと秘密の教えのように聞こえますが、そうではありません。仏教の3原則「戒定慧」のうち、「定慧」で以て仏の道を学び、「戒」でもって仏の道を実践するのが仏教です。換言すれば、成仏し成道を実現していくのが仏教です。慈悲の世界実現を目指して。しかし成道は、「実現」していくものですから、まだ「顕」ではなく「密」に留まります。だから密教だと言えます。フェノロサはこの密教の実践性において敬徳に敬服したのでした。そしてこの密教の道は善の実現を願う哲学者の道と同じです。私はこれを以て櫻井敬徳を哲学者と表します。

 

*地元での櫻井敬徳勉強会について。今は敬徳の思想を深く理解するために思想的土壌として西阿野村の古文書を読んだり、常滑の文化を考える努力をしています。これらの研究成果も後日発行の研究論文集にて発表致します。

 

 

 

 

 今号から「鈴渓義塾物語」というテーマで、盛田命祺、溝口幹、盛田昭夫、平岩外四の思想を順に紹介していきます。もちろん哲学思想として。

 鈴渓義塾は明治の初め、常滑市の小鈴谷にある盛田酒造の当主盛田命祺によって、その地につくられた学校で溝口幹を塾長とする学校でした。

 盛田昭夫や平岩外四は鈴渓義塾とは直接的には関係ありませんが盛田命祺・溝口幹によって築かれた鈴渓義塾の思想を継承発展させた人として紹介します。

 さて、手もとに常滑市観光協会発行(平成23 年11月)の『尾州知多 鈴渓の郷巡り』のパンフレットがあります。「鈴渓の歴史を歩む」というタイトルのもとに「鈴渓義塾」と「命祺翁と溝口幹塾長」がコンパクトにまとめられています。

 

「鈴渓義塾」について

明治維新後、政府は明治5年に学校制度を発布し各地に郷学校が設立された。小鈴谷村で代々庄屋を務める盛田本家第11代久左衛門(隠居後、命祺と名乗る)はその創設に尽力し、伊勢から教師として溝口幹を招く。その後、明治19年小学校令が発布され高等小学校は一郡一校の定めで知多郡では半田に置かれた。しかし小鈴谷からは遠く、向学心に燃える者に更に上の教育を授けたいという幹の希望を聞き、明治21年私塾「鈴渓義塾」を創設し幹を塾長に迎えた。各界で活躍した人や教職に就いた人を多数輩出する。

 

「命祺翁と溝口幹塾長」について

命祺翁は明治維新で活躍した福沢諭吉や松下村塾から出た品川弥二郎や明倫館を出た井上馨などとの親交を深め、これからの日本には教育が必要と考え、私財を投じ学校を建設し学費や寄宿舎などの支援を行った。また秀才の誉れが高い伊勢神宮嗣官御師の子息、溝口幹の資質を見込み小鈴谷村に招いた。(次号に)