■杉本武之プロフィール

1939年 碧南市に生まれる。

京都大学文学部卒業。

翻訳業を経て、小学校教師になるために愛知教育大学に入学。

25年間、西尾市の小中学校に勤務。

定年退職後、名古屋大学教育学部の大学院で学ぶ。

〈趣味〉読書と競馬

 

【25】モーツァルト『交響曲第40番』

◎私の母について

  モーツァルトの『交響曲第40番』を聴くと、私は必ず母を思い出します。

 母は10年前に100歳で亡くなりました。本当に優しい人でした。

 母の名前は「まさゑ」です。私の父は「まさ」とか「まさ子」と呼んで、「まさゑ」とは決して言いませんでした。「ゑ」の字が嫌いだったのです。

 母は8人の子どもを産みました。男が3人、女が5人です。私は3男で、姉が1人います。私の下は女ばかりで4人もいます。私たち8人は今も全員生きています。一番年上の兄は86歳です。父は76歳で死んでいるので、子どもたちの長命は主として100歳まで生きた母からの遺伝だと思われます。会う度に、兄は「早く死にたい」と言っていますが、まだまだくたばりそうもありません。私も、掛かり付けの医者に「杉本さんは長生きしますよ」と言われています。私は「そんなこと言わないで下さい」と答えています。

 父は潔癖で短気な性質でした。自分にも厳しかったけれど、他人にも厳しい態度を取りました。ちょっとしたことで、家族の者はよく叱られました。母に一番厳しく当たっていました。私は、父が母に対してもう少し優しくしたらいいのにと思っていました。母はいつも耐えていましたが、一度だけ涙声で父に立ち向かっていたことを覚えています。

 母は誰に対しても親切でした。声を荒げたことも、つれない態度を取ったこともありませんでした。いつも柔和な微笑を浮かべていました。良寛のような人でした。

 私は京大の3年生の時に不登校になり、それから3年間、下宿に籠もって本ばかり読んでいました。授業に出ない私に対して、母は苦情を言ったことはありませんでした。内心は不満だったでしょうが、それを私にぶちまけることはありませんでした。大学生活が6年過ぎた年の3月下旬のこと、帰省していた私に、母は思い詰めたように「たけちゃん、卒業だけはするよね」と言いました。この一言を聞いて、私はハッとしました。翌日、京都に戻って、大学に行き、卒業に必要な単位を確かめました。

 それから、2年分の単位を1年で取りました。卒業論文も書きました。何とか卒業できました。しかし、就職をしないで実家に帰って来ました。『聖書』に出てくる「放蕩息子」のような私を、家族の者たちは、優しく迎え入れてくれました。こんなに嬉しかったことはありませんでした。

 母は90歳頃から歩けなくなりました。私と妻による在宅介護が始まりました。夜間の介護は私が担当しました。隣の部屋で寝て世話をしました。何か私に頼みたいことがあると、母は「たけちゃん、たけちゃん」と私の名前を呼びました。

 母は100歳まで生きました。市から祝い金が出ました。それからしばらくして、脳梗塞で亡くなりました。

 モーツァルトの『交響曲第40番』を聴くと必ず母を思い出すのは、何故か。

 このト短調の交響曲は、開始早々、さざ波のような旋律がヴァイオリンによって奏でられます。「タララン・タララン・タラランラーン、タララン・タララン・タラランラン、タララン……」。一度耳にすれば、決して忘れられない、優しく哀愁に満ちた旋律です。

 この部分が、私の耳には「たけちゃん・たけちゃん・たけちゃんちゃーん、たけちゃん・たけちゃん・たけちゃんちゃん、たけちゃん……」と聞こえるのです。

 指揮者によって少しずつ違って聞こえますが、ワルターがコロンビア交響楽団を指揮したCDを聴くと、隣室に寝ていた母が私の名前を呼んでいた声そっくりに聞こえます。

◎『交響曲第40番』

 『交響曲第40番』は1788年7月25日に完成されました。モーツァルトが32歳の時でした。その1カ月前の6月26日には『交響曲第39番変ホ長調』が完成されており、また『交響曲第41番ハ長調「ジュピター」』は8月10日に完成されます。ほぼ1カ月半という短期間に、古典音楽の傑作中の傑作である、いわゆる「三大交響曲」が作曲されました。しかも、『39番』と『40番』の間には、ピアノ・ソナタなどが4曲も作られているのです。この短期間の驚くべき旺盛な創作活動は、多くの人によって、モーツァルトの天才の証しとして引用されています。

 大作家・芥川龍之介の3男で、高名な作曲家だった芥川也寸志は『音楽を愛する人に』(旺文社文庫)の中でこう書いています。

 「作曲というものに、普通どの位の時間を必要とするかは、その曲の内容なり形式の違いで千変万化ですが、少なくとも考える時間を除いて、あのオタマジャクシをポチポチ書くのに必要な物理的時間は、今も、モーツァルトの時代も、そう違いはあるまいと思います。今、私に時間が与えられ、モーツァルトがこの1カ月半の間に書いた三大交響曲をはじめとする全作品を写せと言われたら、毎日この仕事に没頭したとしても、丁寧にペン書きしていたら、恐らく1ヶ月近くはかかるだろうと思います」

 もし、私が余命1週間と宣告されたとしたら、その1週間をどうやって過ごすだろう、と考えることがあります。本当に好きなものを享受して死にたいと思います。

 最初の1日は、黒澤明の『七人の侍』を観て過ごそう。次の1日は、ドストエフスキーの『罪と罰』を読めるところまで読もう。残りの5日間は、「モーツァルト音楽会」のようなものを開いて、この世のものとは思われない至純な音楽を聴こう。思う存分に堪能しよう。そして、死を迎えよう。偉大な物理学者のアインシュタインは「死とは、モーツァルトが聴けなくなることだ」と言いました。私もそう思います。

 さて、何度も考えた末に、私は、次のような「モーツァルト音楽会」のプログラムを作りました。これで充分だと思います。

<1日目>

①ヴァイオリン・ソナタ ホ短調

②クラリネット五重奏曲 イ長調

③『魔笛』

<2日目>

①ピアノ・ソナタ イ短調

②ピアノ協奏曲第21番 ハ長調

③『フィガロの結婚』

<3日目>

①フルートとハープのための協奏曲 ハ長調

②弦楽五重奏曲第3番 ハ長調

③『コシ・ファン・トゥッテ』

<4日目>

①クラリネット協奏曲 イ長調

②交響曲第40番 ト短調

③『ドン・ジョヴァンニ』

<5日目>

①ピアノ協奏曲第20番 ニ短調

②交響曲第41番「ジュピター」 ハ長調

③『レクイエム』 ニ短調

 

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【25】モーツァルト『交響曲第40番』

◎私の母について

 

 モーツァルトの『交響曲第40番』を聴くと、私は必ず母を思い出します。

 母は10年前に100歳で亡くなりました。本当に優しい人でした。

 母の名前は「まさゑ」です。私の父は「まさ」とか「まさ子」と呼んで、「まさゑ」とは決して言いませんでした。「ゑ」の字が嫌いだったのです。

 母は8人の子どもを産みました。男が3人、女が5人です。私は3男で、姉が1人います。私の下は女ばかりで4人もいます。私たち8人は今も全員生きています。一番年上の兄は86歳です。父は76歳で死んでいるので、子どもたちの長命は主として100歳まで生きた母からの遺伝だと思われます。会う度に、兄は「早く死にたい」と言っていますが、まだまだくたばりそうもありません。私も、掛かり付けの医者に「杉本さんは長生きしますよ」と言われています。私は「そんなこと言わないで下さい」と答えています。

 父は潔癖で短気な性質でした。自分にも厳しかったけれど、他人にも厳しい態度を取りました。ちょっとしたことで、家族の者はよく叱られました。母に一番厳しく当たっていました。私は、父が母に対してもう少し優しくしたらいいのにと思っていました。母はいつも耐えていましたが、一度だけ涙声で父に立ち向かっていたことを覚えています。

 母は誰に対しても親切でした。声を荒げたことも、つれない態度を取ったこともありませんでした。いつも柔和な微笑を浮かべていました。良寛のような人でした。

 私は京大の3年生の時に不登校になり、それから3年間、下宿に籠もって本ばかり読んでいました。授業に出ない私に対して、母は苦情を言ったことはありませんでした。内心は不満だったでしょうが、それを私にぶちまけることはありませんでした。大学生活が6年過ぎた年の3月下旬のこと、帰省していた私に、母は思い詰めたように「たけちゃん、卒業だけはするよね」と言いました。この一言を聞いて、私はハッとしました。翌日、京都に戻って、大学に行き、卒業に必要な単位を確かめました。

 それから、2年分の単位を1年で取りました。卒業論文も書きました。何とか卒業できました。しかし、就職をしないで実家に帰って来ました。『聖書』に出てくる「放蕩息子」のような私を、家族の者たちは、優しく迎え入れてくれました。こんなに嬉しかったことはありませんでした。

 母は90歳頃から歩けなくなりました。私と妻による在宅介護が始まりました。夜間の介護は私が担当しました。隣の部屋で寝て世話をしました。何か私に頼みたいことがあると、母は「たけちゃん、たけちゃん」と私の名前を呼びました。

 母は100歳まで生きました。市から祝い金が出ました。それからしばらくして、脳梗塞で亡くなりました。

 モーツァルトの『交響曲第40番』を聴くと必ず母を思い出すのは、何故か。

 このト短調の交響曲は、開始早々、さざ波のような旋律がヴァイオリンによって奏でられます。「タララン・タララン・タラランラーン、タララン・タララン・タラランラン、タララン……」。一度耳にすれば、決して忘れられない、優しく哀愁に満ちた旋律です。

 この部分が、私の耳には「たけちゃん・たけちゃん・たけちゃんちゃーん、たけちゃん・たけちゃん・たけちゃんちゃん、たけちゃん……」と聞こえるのです。

 指揮者によって少しずつ違って聞こえますが、ワルターがコロンビア交響楽団を指揮したCDを聴くと、隣室に寝ていた母が私の名前を呼んでいた声そっくりに聞こえます。

 

◎『交響曲第40番』

 『交響曲第40番』は1788年7月25日に完成されました。モーツァルトが32歳の時でした。その1カ月前の6月26日には『交響曲第39番変ホ長調』が完成されており、また『交響曲第41番ハ長調「ジュピター」』は8月10日に完成されます。ほぼ1カ月半という短期間に、古典音楽の傑作中の傑作である、いわゆる「三大交響曲」が作曲されました。しかも、『39番』と『40番』の間には、ピアノ・ソナタなどが4曲も作られているのです。この短期間の驚くべき旺盛な創作活動は、多くの人によって、モーツァルトの天才の証しとして引用されています。

 大作家・芥川龍之介の3男で、高名な作曲家だった芥川也寸志は『音楽を愛する人に』(旺文社文庫)の中でこう書いています。

 「作曲というものに、普通どの位の時間を必要とするかは、その曲の内容なり形式の違いで千変万化ですが、少なくとも考える時間を除いて、あのオタマジャクシをポチポチ書くのに必要な物理的時間は、今も、モーツァルトの時代も、そう違いはあるまいと思います。今、私に時間が与えられ、モーツァルトがこの1カ月半の間に書いた三大交響曲をはじめとする全作品を写せと言われたら、毎日この仕事に没頭したとしても、丁寧にペン書きしていたら、恐らく1ヶ月近くはかかるだろうと思います」

 もし、私が余命1週間と宣告されたとしたら、その1週間をどうやって過ごすだろう、と考えることがあります。本当に好きなものを享受して死にたいと思います。

 最初の1日は、黒澤明の『七人の侍』を観て過ごそう。次の1日は、ドストエフスキーの『罪と罰』を読めるところまで読もう。残りの5日間は、「モーツァルト音楽会」のようなものを開いて、この世のものとは思われない至純な音楽を聴こう。思う存分に堪能しよう。そして、死を迎えよう。偉大な物理学者のアインシュタインは「死とは、モーツァルトが聴けなくなることだ」と言いました。私もそう思います。

 さて、何度も考えた末に、私は、次のような「モーツァルト音楽会」のプログラムを作りました。これで充分だと思います。

<1日目>

①ヴァイオリン・ソナタ ホ短調

②クラリネット五重奏曲 イ長調

③『魔笛』

<2日目>

①ピアノ・ソナタ イ短調

②ピアノ協奏曲第21番 ハ長調

③『フィガロの結婚』

<3日目>

①フルートとハープのための協奏曲 ハ長調

②弦楽五重奏曲第3番 ハ長調

③『コシ・ファン・トゥッテ』

<4日目>

①クラリネット協奏曲 イ長調

②交響曲第40番 ト短調

③『ドン・ジョヴァンニ』

<5日目>

①ピアノ協奏曲第20番 ニ短調

②交響曲第41番「ジュピター」 ハ長調

③『レクイエム』 ニ短調