■杉本武之プロフィール

1939年 碧南市に生まれる。

京都大学文学部卒業。

翻訳業を経て、小学校教師になるために愛知教育大学に入学。

25年間、西尾市の小中学校に勤務。

定年退職後、名古屋大学教育学部の大学院で学ぶ。

〈趣味〉読書と競馬

 

【21】小津安二郎『秋刀魚の味』

◎小津監督の映画との出会い

 初めて観た小津安二郎の映画は何だったのか。──思い出そうとしても、はっきりしません。『麦秋』(昭和26年)だったような気がします。そうだとすると、12歳の小学6年生の時のことになります。私は、中学生になり、少し物心がつくと、映画に熱中し始めました。『東京物語』(昭和28年)は2年生の時に観ました。

 私の中学時代は日本映画の黄金時代と重なっていました。映画少年だった私は、黒澤明の『生きる』『七人の侍』、溝口健二の『雨月物語』『近松物語』、今井正の『山びこ学校』『にごりえ』、木下恵介の『日本の悲劇』 『二十四の瞳』、新藤兼人の『原爆の子』、成瀬巳喜男の『おかあさん』などを夢中で観ました。そして、将来は映画監督になることを夢見ていました。何と幸せな中学時代だったことでしょう!

 小津安二郎は、明治36年(1903年)12月12日、東京の深川に父・寅之助、母・あさえの次男として生まれました。父は、日本橋にある「湯浅屋」という海産物問屋と、深川にある海産物の肥料問屋「小津商店」を取り仕切る番頭でした。本店は三重県の松阪にありました。小津少年は、小学校4年生の時、松阪の小学校に転校します。子どもの教育には自然の環境に恵まれた田舎の方がいいという父の考えで、一家は本家のある松阪に移り住んだのでした。それから19歳で東京に戻るまでの10年間、小津は松阪を中心に暮らしました。大正5年、県立第四中学校に入学すると、彼は映画にのめり込みます。

 「伊勢の松阪で少年時代を送り、活動(映画)を見ることが病みつきになっていた。しまいには学校から禁止されている映画に行くことが、映画そのものを見ること以上にスリルを感じさせて、よけい楽しみになってしまった」

 中学の卒業が近づき、彼は、兄が進学した神戸高等商業学校( 現・神戸大学)を受験しますが、意図的に落第。「そんな所へ入っちゃったら、映画やれなくなっちゃうし、初めっから落ちるつもりでね」。受験に失敗した後、念願の松竹キネマ蒲田撮影所にカメラ助手として入社します。叔父が松竹の重役と親しく、その手づるで入ったのです。

 小津安二郎の魅力は、実生活においても、作品においても見られる端正な男らしさにあります。どこまでも自分を信じて、時の流れに押し流されない強靭な精神です。彼はこう述べています。「ぼくの生活信条として、何でもないことは流行に従う。重要なことは道徳に従う。芸術のことは自分に従う」

 彼は、昭和38年(1963年)12月12日、首にできたガンのために東京の病院で死去しました。還暦を迎えた日、誕生日と全く同じ日に60歳で死んだのです。生き方だけでなく、死に方まで小津の端正な男らしさが表れています。

 晩年の小津が『お早よう』や『秋刀魚の味』などを作っていた時、私は大学の映画部に所属していました。その頃、新人監督・大島渚が『愛と希望の街』『青春残酷物語』などを次々と作り、新しい映画の旗手と持て囃されました。彼が京大出身だったこともあり、映画部の学生たちは彼の映画を熱狂的に歓迎しました。しかし、私は相変わらず小津の映画を高く評価していました。当然、議論好きな映画部員たちからは軽蔑されていました。 小津の代表作は、一般的に『晩春』『麦秋』『東京物語』の紀子3部作(原節子の演じた役名がいずれも紀子だったため)と言われています。私も異議はありません。しかし、私は、重苦しい『晩春』よりも、陽気な『秋刀魚の味』の方が好きです。

 

◎『秋刀魚の味』

 小津安二郎の遺作は『秋刀魚の味』(昭和37年)です。その前の作品は『小早川家の秋』(昭和36年)で、その前の作品は『秋日和』(昭和35年)です。小津は最晩年の3本の作品名に、それぞれ「秋」の一字を入れました。『秋刀魚の味』には秋刀魚が出てくる場面はありません。また、作品から感じ取る味も、秋刀魚の味と正反対です。生臭さの無い、すっきりとした白身の魚の味がする作品です。

 『秋刀魚の味』は、初老の父親(笠智衆)と、結婚して家を出て行く娘(岩下志麻)との別離を描いています。父と娘だけに焦点を当てずに、独立した長男夫婦(佐田啓二・岡田茉莉子)と大学生の次男(三上真一郎)、バー「かおる」の亡妻に似たマダム(岸田今日子)、ラーメン店を開いている恩師(東野英治郎)とその未婚の娘(杉村春子)などが次々に登場して来て、この作品の幅を豊かに広げています。

 『晩春』は、父と娘の心理的葛藤の描き方が執拗すぎて、観ていると、だんだん息苦しくなってきます。一方、『秋刀魚の味』は、深刻さがあまり無く、物語全体があっさりと描かれています。笑いに溢れており、画面の色彩も鮮やかで、深みという点では『晩春』に劣りますが、生きる喜びと悲しみ、人生の明るい面と暗い面が、ユーモアを交えて巧みに描かれています。また、表面的な笑いの裏には「人間は結局ひとりぼっち」という孤独感や寂寥感が色濃く漂っていて、時には胸が締め付けられる思いがします。

 野田高梧と共作のシナリオを読んでみましょう。淡々とした文章が続きます。

〈冒頭の場面〉

1・川崎の工場地帯

  その風景二、三──。

2・或る工場の事務所

  その外景──。

3・その一室

  デスクが二つ──

    その一つで監査役の平山周平(57)が老眼鏡をかけて書類を点検しているが、そう忙しそうでもない。

  ノックの音──。

        (後略)

〈最後の場面〉

96 ・中の間──茶の間

 幸一(長男)と和夫(次男)が迎える。

 和夫「どうしたんだい──お父さん──」

 平山(幸一に)「やァ、来てたのか……」

 幸一「ええ──お疲れでしょう」(中略)

97・二階の廊下

  暗い……。

98・二階の部屋

ここも暗く、その暗い中に姿見の鈍い光が浮かんでいる。(終)

 シナリオはここで終わっていますが、完成した映画では、その後、父親の周平が台所に行き、冷たい水を飲み、椅子に腰掛けます。

 寂しげな周平の姿を映した後に「終」。

 

Copyright©2003-2017 Akai Newspaper dealer

プライバシーポリシー

あかい新聞店・常滑店

新聞■折込広告取扱■求人情報■ちたろまん■中部国際空港配送業務

電話:0569-35-2861

 

あかい新聞店・武豊店

電話:0569-72-0356

あかい新聞店・常滑店

新聞■折込広告取扱■求人情報■ちたろまん■中部国際空港配送業務

電話:0569-35-2861

あかい新聞店・武豊店

電話:0569-72-0356

 

Copyright©2003-2017 Akai Newspaper dealer

プライバシーポリシー

【21】小津安二郎『秋刀魚の味』

◎小津監督の映画との出会い

 初めて観た小津安二郎の映画は何だったのか。──思い出そうとしても、はっきりしません。『麦秋』(昭和26年)だったような気がします。そうだとすると、12歳の小学6年生の時のことになります。私は、中学生になり、少し物心がつくと、映画に熱中し始めました。『東京物語』(昭和28年)は2年生の時に観ました。

 私の中学時代は日本映画の黄金時代と重なっていました。映画少年だった私は、黒澤明の『生きる』『七人の侍』、溝口健二の『雨月物語』『近松物語』、今井正の『山びこ学校』『にごりえ』、木下恵介の『日本の悲劇』 『二十四の瞳』、新藤兼人の『原爆の子』、成瀬巳喜男の『おかあさん』などを夢中で観ました。そして、将来は映画監督になることを夢見ていました。何と幸せな中学時代だったことでしょう!

 小津安二郎は、明治36年(1903年)12月12日、東京の深川に父・寅之助、母・あさえの次男として生まれました。父は、日本橋にある「湯浅屋」という海産物問屋と、深川にある海産物の肥料問屋「小津商店」を取り仕切る番頭でした。本店は三重県の松阪にありました。小津少年は、小学校4年生の時、松阪の小学校に転校します。子どもの教育には自然の環境に恵まれた田舎の方がいいという父の考えで、一家は本家のある松阪に移り住んだのでした。それから19歳で東京に戻るまでの10年間、小津は松阪を中心に暮らしました。大正5年、県立第四中学校に入学すると、彼は映画にのめり込みます。

 「伊勢の松阪で少年時代を送り、活動(映画)を見ることが病みつきになっていた。しまいには学校から禁止されている映画に行くことが、映画そのものを見ること以上にスリルを感じさせて、よけい楽しみになってしまった」

 中学の卒業が近づき、彼は、兄が進学した神戸高等商業学校( 現・神戸大学)を受験しますが、意図的に落第。「そんな所へ入っちゃったら、映画やれなくなっちゃうし、初めっから落ちるつもりでね」。受験に失敗した後、念願の松竹キネマ蒲田撮影所にカメラ助手として入社します。叔父が松竹の重役と親しく、その手づるで入ったのです。

 小津安二郎の魅力は、実生活においても、作品においても見られる端正な男らしさにあります。どこまでも自分を信じて、時の流れに押し流されない強靭な精神です。彼はこう述べています。「ぼくの生活信条として、何でもないことは流行に従う。重要なことは道徳に従う。芸術のことは自分に従う」

 彼は、昭和38年(1963年)12月12日、首にできたガンのために東京の病院で死去しました。還暦を迎えた日、誕生日と全く同じ日に60歳で死んだのです。生き方だけでなく、死に方まで小津の端正な男らしさが表れています。

 晩年の小津が『お早よう』や『秋刀魚の味』などを作っていた時、私は大学の映画部に所属していました。その頃、新人監督・大島渚が『愛と希望の街』『青春残酷物語』などを次々と作り、新しい映画の旗手と持て囃されました。彼が京大出身だったこともあり、映画部の学生たちは彼の映画を熱狂的に歓迎しました。しかし、私は相変わらず小津の映画を高く評価していました。当然、議論好きな映画部員たちからは軽蔑されていました。 小津の代表作は、一般的に『晩春』『麦秋』『東京物語』の紀子3部作(原節子の演じた役名がいずれも紀子だったため)と言われています。私も異議はありません。しかし、私は、重苦しい『晩春』よりも、陽気な『秋刀魚の味』の方が好きです。

 

◎『秋刀魚の味』

 小津安二郎の遺作は『秋刀魚の味』(昭和37年)です。その前の作品は『小早川家の秋』(昭和36年)で、その前の作品は『秋日和』(昭和35年)です。小津は最晩年の3本の作品名に、それぞれ「秋」の一字を入れました。『秋刀魚の味』には秋刀魚が出てくる場面はありません。また、作品から感じ取る味も、秋刀魚の味と正反対です。生臭さの無い、すっきりとした白身の魚の味がする作品です。

 『秋刀魚の味』は、初老の父親(笠智衆)と、結婚して家を出て行く娘(岩下志麻)との別離を描いています。父と娘だけに焦点を当てずに、独立した長男夫婦(佐田啓二・岡田茉莉子)と大学生の次男(三上真一郎)、バー「かおる」の亡妻に似たマダム(岸田今日子)、ラーメン店を開いている恩師(東野英治郎)とその未婚の娘(杉村春子)などが次々に登場して来て、この作品の幅を豊かに広げています。

 『晩春』は、父と娘の心理的葛藤の描き方が執拗すぎて、観ていると、だんだん息苦しくなってきます。一方、『秋刀魚の味』は、深刻さがあまり無く、物語全体があっさりと描かれています。笑いに溢れており、画面の色彩も鮮やかで、深みという点では『晩春』に劣りますが、生きる喜びと悲しみ、人生の明るい面と暗い面が、ユーモアを交えて巧みに描かれています。また、表面的な笑いの裏には「人間は結局ひとりぼっち」という孤独感や寂寥感が色濃く漂っていて、時には胸が締め付けられる思いがします。

 野田高梧と共作のシナリオを読んでみましょう。淡々とした文章が続きます。

〈冒頭の場面〉

1・川崎の工場地帯

  その風景二、三──。

2・或る工場の事務所

  その外景──。

3・その一室

  デスクが二つ──

    その一つで監査役の平山周平(57)が老眼鏡をかけて書類を点検しているが、そう忙しそうでもない。

  ノックの音──。

        (後略)

〈最後の場面〉

96 ・中の間──茶の間

 幸一(長男)と和夫(次男)が迎える。

 和夫「どうしたんだい──お父さん──」

 平山(幸一に)「やァ、来てたのか……」

 幸一「ええ──お疲れでしょう」(中略)

97・二階の廊下

  暗い……。

98・二階の部屋

ここも暗く、その暗い中に姿見の鈍い光が浮かんでいる。(終)

 シナリオはここで終わっていますが、完成した映画では、その後、父親の周平が台所に行き、冷たい水を飲み、椅子に腰掛けます。

 寂しげな周平の姿を映した後に「終」。