■杉本武之プロフィール

1939年 碧南市に生まれる。

京都大学文学部卒業。

翻訳業を経て、小学校教師になるために愛知教育大学に入学。

25年間、西尾市の小中学校に勤務。

定年退職後、名古屋大学教育学部の大学院で学ぶ。

〈趣味〉読書と競馬

 

【14】夏目漱石『坊っちゃん』

◎大学院で学ぶ

 退職する5年ほど前から、小学校の教師を定年退職したら、どこかの大学の大学院で好きなことをのんびり勉強したいと考えるようになりました。何か資格を取ったり、何か役に立つようなことをするといった前向きで具体的な目標も無く、のんびりと学問の世界に浸っていたら楽しいだろうな、という漠然とした動機からでした。

 初めのうち、何となく信州大学がいいなと思いました。あそこなら、自然に恵まれているし、どこかの古い農家に下宿して、のんびり勉強できそうだ。友人や知人が遊びに来たら、近くの上高地や安曇野をぶらぶら歩くのも楽しいだろうな……。

 ところが、私が退職する年に、離れで一人で暮らしていた90歳の母が、庭で転んで大腿骨を折ってしまいました。退院後は寝たきりの生活です。私も退職したら、妻と協力して母を介護しなくてはならなくなりました。

 しかし、このように家の状況が急変しても、大学院に行きたいという私の気持ちは弱まりませんでした。さすがに、家から遠い松本の信州大学に行くことだけは諦めました。母の介護をしながらでも通える大学を選ぶことにしました。できたら授業料が安そうな国公立大学がいいな。試験が大変かも知れないが、名古屋大学の文学部に挑戦してみようかな。ひょっとしたら、審査する教授たちが、この受験生は京大と愛知教育大学の二つの大学を卒業して小学校の教師になった変わり者だ、面白い人物かも知れないから、合格させてやろうか、と考えるかも知れない。受かるかも知れないぞ……。

 教員としての最後の夏休みに、私は、名古屋大学のキャンパスを訪れました。文学部の事務室に行って必要な書類を貰いました。すぐ裏手が教育学部の建物だったので、ついでにそこにも立ち寄ることにしました。教育学部で学校教育について勉強するのも悪くないな、と考えたのでした。要項を貰おうとしたら、事務員が「来年から、社会人のための大学院の教育課程が新設されるから、そちらを受けてみたら」と教えてくれました。そこで、これも何かの縁だと思い、社会人用の入試要項と願書を貰ってきました。

 最終的に教育学部の社会人用の試験を受けることにしました。運よく合格しました。

 入学金と授業料を郵便局で振り込もうとした時、年配の局員が「お子さんかお孫さんが合格されたんですね。おめでとうございます」と言いました。私が「そうじゃありません。私が合格したんですよ」と言うと、その人はびっくりしていました。

 入学式の案内が送られて来ました。それを読んで、私は驚いてしまいました。「式にはモーニングを着用のこと。式場の舞台の上で式に臨むこと」と書かれていたのです。初めての社会人の院生はそんなに偉いのだろうか。モーニングで壇上に座る。総長じゃあるまいし、どう考えても、おかしい。早速、大学に電話しました。教育学部長に出す文書を間違えて私に送ってしまったことが判明しました。やれやれ。

 定年退職した途端に、教員時代に負けないほどの多忙な生活が始まりました。

 第一に、母の介護。私は母の隣の部屋で寝ることにしました。そして、母が夜中に目が覚めて私に声を掛けると、母を椅子式の便器に座らせて大小便の世話をしました。食事は妻の担当でした。週に数回デイケアーに行ってくれたし、時々は介護施設で寝泊まりしてくれました。そういう時だけ、のんびりすることができました。

 それから、定年退職した年の4月から、町内会長に任命されてしまいました。会合が月に一度か二度開かれます。二つの神社の祭礼、盆踊り、町内の清掃や消毒、通学路の立ち番など様々なことがあって、その準備などで結構忙しく、心身ともに疲れました。

 また、近所の中学生と高校生たちが英語を教えてほしいと言うので、土曜日と日曜日の夜、2時間ほど教えることにしました。二人の社会人にも教えました。

 

◎『坊っちゃん』

 いよいよ大学院での授業が始まりました。私は安彦忠彦教授の指導を受けました。

 興味が有ったので、幾つかの心理学の授業にも出席しました。青年心理学の授業で「何でもいいから本を読んで感想を書いて提出せよ」という課題が出ました。私は、夏目漱石の『三四郎』を取り上げることにしました。異性に対する青年の心理が興味深く描かれているからです。レポートを提出した後で、『坊っちゃん』を読んでみたくなりました。

 『三四郎』は青年特有の薄暗く淀んだ心の動きが描かれており、読後の感想は決して明るいものではありません。それに反して、『坊っちゃん』は青春時代特有の溌剌とした精神や行動が明快簡潔な文体で描かれており、読後の感想はすこぶる爽快です。

 周知のように、『坊っちゃん』は漱石自身の松山中学教員時代の経験を背景にしています。漱石は、明治26年に東大の英文科を卒業後、東京高等師範学校と東京専門学校(早稲田大学)で教えていましたが、明治28年4月、この二つの教職を辞して、遥か遠い辺鄙な松山中学校の教員になりました。その時の体験が色濃く投影されているのです。

 この痛快無比の作品から、有名な箇所を引用します。

(冒頭の部分)

 親譲りの無鉄砲で、子供の時から損ばかりしている。小学校にいる時分、学校の二階から飛び降りて一週間ほど腰を抜かしたことがある。何故そんな無闇をしたと聞く人があるかも知れぬ。べつだん深い理由でもない。新築の二階から首を出していたら、同級生の一人が冗談に、いくら威張っても、そこから飛び降りることはできまい。弱虫やーい。と囃したからである。小使いに負ぶさって帰ってきた時、おやじが大きな目をして、二階ぐらいから飛び降りて腰を抜かす奴があるかと言ったから、この次は抜かさずに飛んでみせますと答えた。

(最後の部分)

 清の事を話すのを忘れていた。──おれが東京へ着いて下宿へも行かず、鞄を提げたまま、清や、帰ったよ、と飛び込んだら、あら、坊っちゃん、よくまあ、早く帰って来て下さった、と涙をぽたぽたと落とした。おれもあまり嬉しかったから、もう田舎へは行かない、東京で清と家を持つんだと言った。

 その後、ある人の周旋で街鉄の技手になった。月給は25円で、家賃は6円だ。清は玄関付きの家でなくっても至極満足の様子であったが、気の毒なことに今年の二月、肺炎に罹って死んでしまった。死ぬ前日、おれを呼んで、坊っちゃん、後生だから清が死んだら、坊っちゃんのお寺へ埋めて下さい。お墓の中で坊っちゃんが来るのを楽しみに待っておりますと言った。だから清の墓は小日向の養源寺にある。

 

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【14】夏目漱石『坊っちゃん』

◎大学院で学ぶ

 退職する5年ほど前から、小学校の教師を定年退職したら、どこかの大学の大学院で好きなことをのんびり勉強したいと考えるようになりました。何か資格を取ったり、何か役に立つようなことをするといった前向きで具体的な目標も無く、のんびりと学問の世界に浸っていたら楽しいだろうな、という漠然とした動機からでした。

 初めのうち、何となく信州大学がいいなと思いました。あそこなら、自然に恵まれているし、どこかの古い農家に下宿して、のんびり勉強できそうだ。友人や知人が遊びに来たら、近くの上高地や安曇野をぶらぶら歩くのも楽しいだろうな……。

 ところが、私が退職する年に、離れで一人で暮らしていた90歳の母が、庭で転んで大腿骨を折ってしまいました。退院後は寝たきりの生活です。私も退職したら、妻と協力して母を介護しなくてはならなくなりました。

 しかし、このように家の状況が急変しても、大学院に行きたいという私の気持ちは弱まりませんでした。さすがに、家から遠い松本の信州大学に行くことだけは諦めました。母の介護をしながらでも通える大学を選ぶことにしました。できたら授業料が安そうな国公立大学がいいな。試験が大変かも知れないが、名古屋大学の文学部に挑戦してみようかな。ひょっとしたら、審査する教授たちが、この受験生は京大と愛知教育大学の二つの大学を卒業して小学校の教師になった変わり者だ、面白い人物かも知れないから、合格させてやろうか、と考えるかも知れない。受かるかも知れないぞ……。

 教員としての最後の夏休みに、私は、名古屋大学のキャンパスを訪れました。文学部の事務室に行って必要な書類を貰いました。すぐ裏手が教育学部の建物だったので、ついでにそこにも立ち寄ることにしました。教育学部で学校教育について勉強するのも悪くないな、と考えたのでした。要項を貰おうとしたら、事務員が「来年から、社会人のための大学院の教育課程が新設されるから、そちらを受けてみたら」と教えてくれました。そこで、これも何かの縁だと思い、社会人用の入試要項と願書を貰ってきました。

 最終的に教育学部の社会人用の試験を受けることにしました。運よく合格しました。

 入学金と授業料を郵便局で振り込もうとした時、年配の局員が「お子さんかお孫さんが合格されたんですね。おめでとうございます」と言いました。私が「そうじゃありません。私が合格したんですよ」と言うと、その人はびっくりしていました。

 入学式の案内が送られて来ました。それを読んで、私は驚いてしまいました。「式にはモーニングを着用のこと。式場の舞台の上で式に臨むこと」と書かれていたのです。初めての社会人の院生はそんなに偉いのだろうか。モーニングで壇上に座る。総長じゃあるまいし、どう考えても、おかしい。早速、大学に電話しました。教育学部長に出す文書を間違えて私に送ってしまったことが判明しました。やれやれ。

 定年退職した途端に、教員時代に負けないほどの多忙な生活が始まりました。

 第一に、母の介護。私は母の隣の部屋で寝ることにしました。そして、母が夜中に目が覚めて私に声を掛けると、母を椅子式の便器に座らせて大小便の世話をしました。食事は妻の担当でした。週に数回デイケアーに行ってくれたし、時々は介護施設で寝泊まりしてくれました。そういう時だけ、のんびりすることができました。

 それから、定年退職した年の4月から、町内会長に任命されてしまいました。会合が月に一度か二度開かれます。二つの神社の祭礼、盆踊り、町内の清掃や消毒、通学路の立ち番など様々なことがあって、その準備などで結構忙しく、心身ともに疲れました。

 また、近所の中学生と高校生たちが英語を教えてほしいと言うので、土曜日と日曜日の夜、2時間ほど教えることにしました。二人の社会人にも教えました。

 

◎『坊っちゃん』

 いよいよ大学院での授業が始まりました。私は安彦忠彦教授の指導を受けました。

 興味が有ったので、幾つかの心理学の授業にも出席しました。青年心理学の授業で「何でもいいから本を読んで感想を書いて提出せよ」という課題が出ました。私は、夏目漱石の『三四郎』を取り上げることにしました。異性に対する青年の心理が興味深く描かれているからです。レポートを提出した後で、『坊っちゃん』を読んでみたくなりました。

 『三四郎』は青年特有の薄暗く淀んだ心の動きが描かれており、読後の感想は決して明るいものではありません。それに反して、『坊っちゃん』は青春時代特有の溌剌とした精神や行動が明快簡潔な文体で描かれており、読後の感想はすこぶる爽快です。

 周知のように、『坊っちゃん』は漱石自身の松山中学教員時代の経験を背景にしています。漱石は、明治26年に東大の英文科を卒業後、東京高等師範学校と東京専門学校(早稲田大学)で教えていましたが、明治28年4月、この二つの教職を辞して、遥か遠い辺鄙な松山中学校の教員になりました。その時の体験が色濃く投影されているのです。

 この痛快無比の作品から、有名な箇所を引用します。

(冒頭の部分)

 親譲りの無鉄砲で、子供の時から損ばかりしている。小学校にいる時分、学校の二階から飛び降りて一週間ほど腰を抜かしたことがある。何故そんな無闇をしたと聞く人があるかも知れぬ。べつだん深い理由でもない。新築の二階から首を出していたら、同級生の一人が冗談に、いくら威張っても、そこから飛び降りることはできまい。弱虫やーい。と囃したからである。小使いに負ぶさって帰ってきた時、おやじが大きな目をして、二階ぐらいから飛び降りて腰を抜かす奴があるかと言ったから、この次は抜かさずに飛んでみせますと答えた。

(最後の部分)

 清の事を話すのを忘れていた。──おれが東京へ着いて下宿へも行かず、鞄を提げたまま、清や、帰ったよ、と飛び込んだら、あら、坊っちゃん、よくまあ、早く帰って来て下さった、と涙をぽたぽたと落とした。おれもあまり嬉しかったから、もう田舎へは行かない、東京で清と家を持つんだと言った。

 その後、ある人の周旋で街鉄の技手になった。月給は25円で、家賃は6円だ。清は玄関付きの家でなくっても至極満足の様子であったが、気の毒なことに今年の二月、肺炎に罹って死んでしまった。死ぬ前日、おれを呼んで、坊っちゃん、後生だから清が死んだら、坊っちゃんのお寺へ埋めて下さい。お墓の中で坊っちゃんが来るのを楽しみに待っておりますと言った。だから清の墓は小日向の養源寺にある。

 

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◎大学院で学ぶ

 退職する5年ほど前から、小学校の教師を定年退職したら、どこかの大学の大学院で好きなことをのんびり勉強したいと考えるようになりました。何か資格を取ったり、何か役に立つようなことをするといった前向きで具体的な目標も無く、のんびりと学問の世界に浸っていたら楽しいだろうな、という漠然とした動機からでした。

 初めのうち、何となく信州大学がいいなと思いました。あそこなら、自然に恵まれているし、どこかの古い農家に下宿して、のんびり勉強できそうだ。友人や知人が遊びに来たら、近くの上高地や安曇野をぶらぶら歩くのも楽しいだろうな……。

 ところが、私が退職する年に、離れで一人で暮らしていた90歳の母が、庭で転んで大腿骨を折ってしまいました。退院後は寝たきりの生活です。私も退職したら、妻と協力して母を介護しなくてはならなくなりました。

 しかし、このように家の状況が急変しても、大学院に行きたいという私の気持ちは弱まりませんでした。さすがに、家から遠い松本の信州大学に行くことだけは諦めました。母の介護をしながらでも通える大学を選ぶことにしました。できたら授業料が安そうな国公立大学がいいな。試験が大変かも知れないが、名古屋大学の文学部に挑戦してみようかな。ひょっとしたら、審査する教授たちが、この受験生は京大と愛知教育大学の二つの大学を卒業して小学校の教師になった変わり者だ、面白い人物かも知れないから、合格させてやろうか、と考えるかも知れない。受かるかも知れないぞ……。

 教員としての最後の夏休みに、私は、名古屋大学のキャンパスを訪れました。文学部の事務室に行って必要な書類を貰いました。すぐ裏手が教育学部の建物だったので、ついでにそこにも立ち寄ることにしました。教育学部で学校教育について勉強するのも悪くないな、と考えたのでした。要項を貰おうとしたら、事務員が「来年から、社会人のための大学院の教育課程が新設されるから、そちらを受けてみたら」と教えてくれました。そこで、これも何かの縁だと思い、社会人用の入試要項と願書を貰ってきました。

 最終的に教育学部の社会人用の試験を受けることにしました。運よく合格しました。

 入学金と授業料を郵便局で振り込もうとした時、年配の局員が「お子さんかお孫さんが合格されたんですね。おめでとうございます」と言いました。私が「そうじゃありません。私が合格したんですよ」と言うと、その人はびっくりしていました。

 入学式の案内が送られて来ました。それを読んで、私は驚いてしまいました。「式にはモーニングを着用のこと。式場の舞台の上で式に臨むこと」と書かれていたのです。初めての社会人の院生はそんなに偉いのだろうか。モーニングで壇上に座る。総長じゃあるまいし、どう考えても、おかしい。早速、大学に電話しました。教育学部長に出す文書を間違えて私に送ってしまったことが判明しました。やれやれ。

 定年退職した途端に、教員時代に負けないほどの多忙な生活が始まりました。

 第一に、母の介護。私は母の隣の部屋で寝ることにしました。そして、母が夜中に目が覚めて私に声を掛けると、母を椅子式の便器に座らせて大小便の世話をしました。食事は妻の担当でした。週に数回デイケアーに行ってくれたし、時々は介護施設で寝泊まりしてくれました。そういう時だけ、のんびりすることができました。

 それから、定年退職した年の4月から、町内会長に任命されてしまいました。会合が月に一度か二度開かれます。二つの神社の祭礼、盆踊り、町内の清掃や消毒、通学路の立ち番など様々なことがあって、その準備などで結構忙しく、心身ともに疲れました。

 また、近所の中学生と高校生たちが英語を教えてほしいと言うので、土曜日と日曜日の夜、2時間ほど教えることにしました。二人の社会人にも教えました。

 

◎『坊っちゃん』

 いよいよ大学院での授業が始まりました。私は安彦忠彦教授の指導を受けました。

 興味が有ったので、幾つかの心理学の授業にも出席しました。青年心理学の授業で「何でもいいから本を読んで感想を書いて提出せよ」という課題が出ました。私は、夏目漱石の『三四郎』を取り上げることにしました。異性に対する青年の心理が興味深く描かれているからです。レポートを提出した後で、『坊っちゃん』を読んでみたくなりました。

 『三四郎』は青年特有の薄暗く淀んだ心の動きが描かれており、読後の感想は決して明るいものではありません。それに反して、『坊っちゃん』は青春時代特有の溌剌とした精神や行動が明快簡潔な文体で描かれており、読後の感想はすこぶる爽快です。

 周知のように、『坊っちゃん』は漱石自身の松山中学教員時代の経験を背景にしています。漱石は、明治26年に東大の英文科を卒業後、東京高等師範学校と東京専門学校(早稲田大学)で教えていましたが、明治28年4月、この二つの教職を辞して、遥か遠い辺鄙な松山中学校の教員になりました。その時の体験が色濃く投影されているのです。

 この痛快無比の作品から、有名な箇所を引用します。

(冒頭の部分)

 親譲りの無鉄砲で、子供の時から損ばかりしている。小学校にいる時分、学校の二階から飛び降りて一週間ほど腰を抜かしたことがある。何故そんな無闇をしたと聞く人があるかも知れぬ。べつだん深い理由でもない。新築の二階から首を出していたら、同級生の一人が冗談に、いくら威張っても、そこから飛び降りることはできまい。弱虫やーい。と囃したからである。小使いに負ぶさって帰ってきた時、おやじが大きな目をして、二階ぐらいから飛び降りて腰を抜かす奴があるかと言ったから、この次は抜かさずに飛んでみせますと答えた。

(最後の部分)

 清の事を話すのを忘れていた。──おれが東京へ着いて下宿へも行かず、鞄を提げたまま、清や、帰ったよ、と飛び込んだら、あら、坊っちゃん、よくまあ、早く帰って来て下さった、と涙をぽたぽたと落とした。おれもあまり嬉しかったから、もう田舎へは行かない、東京で清と家を持つんだと言った。

 その後、ある人の周旋で街鉄の技手になった。月給は25円で、家賃は6円だ。清は玄関付きの家でなくっても至極満足の様子であったが、気の毒なことに今年の二月、肺炎に罹って死んでしまった。死ぬ前日、おれを呼んで、坊っちゃん、後生だから清が死んだら、坊っちゃんのお寺へ埋めて下さい。お墓の中で坊っちゃんが来るのを楽しみに待っておりますと言った。だから清の墓は小日向の養源寺にある。