◎モーツァルト

 先日、吉田秀和・編訳『モーツァルトの手紙』(講談社学術文庫)を読みました。30年ほど前に購入して、いつか読もうと思っていた本です。

 私はモーツァルトが大好きです。モーツァルトの曲を聴いて死んで行きたいと思っています。あの清明な音楽を聴いていれば死ぬのが少しも怖くないと思っています。

 今から、パリで母が死んだ時に彼が書いた手紙について少し詳しく書きます。

 最初にモーツァルトかバッハの作品を聴きます。早朝、まず澄んだ気分になりたいのです。その後は、天才音楽家モーツァルトは、1756年1月27日、オーストリアのザルツブルクで誕生した。父レオポルトは有能な宮廷音楽家で、息子が誕生したこの年に『ヴァイオリン教程』を出版した。母アンナ・マリアは、素朴で楽天的な性格だった。8人の子どもが生まれたが、生き延びたのは、三女のマリア・アンナ(通称ナンネル)と息子だけだった。

 1777年9月23日、モーツァルトは、母と共にザルツブルクを出発した。21歳の時だった。ミュンヘン、アウクスブルク、マンハイム、パリに至る、就職活動の旅であった。どの地でも職は見つからなかった。翌年の7月3日、一緒に旅をしていた母がパリで亡くなった。

 1791年12月5日、偉大な音楽家モーツァルトが死去した。享年35。極度に貧しかったので、葬儀は一般庶民と同じ第三等で行われた。貧相なもので、墓地まで見送る者もなく、遺骸は共同の墓穴に埋葬された。墓標も無く、十字架も立てられなかった。

 

◎母の死を知らせる手紙

 息子と二人だけで異郷への長い旅に出ていた母のアンナ・マリアがパリで重病に倒れ、1778年7月3日に亡くなりました。

 22歳のモーツァルトは、その夜、父に長い手紙を書きましたが、その手紙では死亡したことを伝えず、重病で危篤であると知らせて心の準備をさせました。それと同時に、ザルツブルクの親友・ブリンガー神父には事実を知らせる手紙を書いて、父と姉を慰め励ましてくれるように頼みました。6日後、母の死を知らせる手紙を父に出しました。

[1]父への手紙
 1778年7月3日(パリ) 「親愛なる父へ。非常に不快な、悲しいお知らせをしなければなりません。お母さんの加減が大変悪いのです。どうしても必要だったので、お母さんは、いつものように放血しました。その時はとても良かったのですが、二、三日すると、寒気がしたかと思うと熱が出ました。それから下痢と頭痛が起こりました。だんだん悪くなるばかりで、口はきけず、耳も大声で叫ばなければ聞こえない位になりました。グリム男爵が彼の医者を寄越してくれました。とても弱っていて、まだ熱があり、譫言を言っています。

 ひとはまだ望みがあると言いますが、ぼくはあんまり当てにしていません。万事を最善になるように取り計らってくださる神様は、今度もそうなさるおつもりにちがいないと承知しているので、ぼくは何事が起ころうと、安心して任せ切っています。

 お母さんが死ぬだろうとか、死ぬほかはない、どんなに希望しても無駄だ、というものではありません。また元気で健康になるかも知れません、もし神様がそうお望みなら。ぼくは、力の限りを尽くして、愛するお母さんの健康と生命を神様にお祈りしてしまった後は、好んでそう考えて、自分を慰めています。そうすると、心がずっと落ち着いて、安心と慰めが得られるものですから。今のぼくにどんなに安心と慰めが必要か!これはそちらでもお分かりでしょう。

 さぁ、何かほかの話!こんな悲しい考えは捨てましょう。希望を持ちましょう。でも多く持ち過ぎてはいけません。神様を信頼し、万能の主の御意にかなうなら、万事うまくいくと考えて、自分を慰めましょう。(省略しますが、この後、手紙の中で、彼は交響曲のこと、有名な思想家ヴォルテールが死んだこと、オペラのことなどを長々と書きます)

 それでは、ご機嫌よろしゅう。愛するお母さんは万能の主の御手の中にあります。もし御心に添うなら、彼女をぼくらにお返しになりましょうし、ぼくらは神の御恵みに感謝しましょう。けれども、たとえ彼女を神の御手にお引き取りになったとしても、ぼくらの心配や憂いや絶望は、何の役にも立ちません。神の御業に理由のないものはないのですから、これも何事かに役立つのだと堅く信じ切って、神の御旨の中に毅然としていましょう。それでは、ご機嫌よう、愛するパパ、どうかご健康に気をつけてください」

[2]親友のブリンガー神父への手紙
 1778年7月3日(パリ)
「最良の友よ!他言無用。友よ、ぼくと一緒に悲しんでくれたまえ!今日は一生で最も悲しい日だった。聞いてくれたまえ、ぼくの母が、ぼくの愛する母はもういない!神がお召しになったんだ。神が彼女を望まれたこと、それははっきりぼくに分かる。主がぼくに与えてくださった以上、彼女をお召しになることもできる。どうか、この2週間の間、ぼくが耐え忍び通した数々の不安と憂慮と心配を想像してみてくれたまえ。母は自分では何にも知らずに、まるで光が消えて行くように、死んで行った。3日間というもの、いつも譫言をいい続けていたが、今日の5時21分、最後の苦しみがやってくると同時に、あらゆる感覚と意識が無くなった。ぼくは手を握ったり、話しかけたりしたけれども母はぼくを見もしなければ聞きもせず、何も感じなかった。そんな様子で5時間いたが、夜の10時21分にこときれた。

 友人のよしみで一つだけお願いがある。ぼくの可哀想な父によく気を付けて、この悲しい知らせを聞く心構えをさせてくれないか。ぼくは同じ郵便で父にも書いたけれども、それはただ母が重態だということだけを書いた。父の返事を待って、その先のことを知らせるつもりだ。

 最上の友よ、どうか父の杖となり力となってください。この最悪のことを初めて耳にする時に、余りにも重く苛酷に感じすぎないように。姉の方にも、ぼくからくれぐれもよろしくと伝えてくれたまえ。どうか今すぐ彼らを訪問してやってください」

[3]父への手紙
1778年7月9日(パリ)

「最も悲しい、最もいたましいお知らせの一つを、毅然としてお聞きくださる心構えがおできになっていると存じます。7月3日付の前便で、到底よい知らせをお聞きになれない状態に立ち至ったことを、お覚悟のことと思います。同じ3日の夜10時21分、お母様は神の御許に安らかに休憩なさいました。ぼくが手紙を書いていた頃は、もう天上の喜びにひたっておいででした。あなたもお姉さんも、どうかぼくが小さな、けれども、どうしても必要な嘘を申し上げたことを許してくださることと思います。(後略)」

 

■杉本武之プロフィール

1939年 碧南市に生まれる。

京都大学文学部卒業。

翻訳業を経て、小学校教師になるために愛知教育大学に入学。

25年間、西尾市の小中学校に勤務。

定年退職後、名古屋大学教育学部の大学院で学ぶ。

〈趣味〉読書と競馬

 

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◎モーツァルト

 先日、吉田秀和・編訳『モーツァルトの手紙』(講談社学術文庫)を読みました。30年ほど前に購入して、いつか読もうと思っていた本です。

 私はモーツァルトが大好きです。モーツァルトの曲を聴いて死んで行きたいと思っています。あの清明な音楽を聴いていれば死ぬのが少しも怖くないと思っています。

 今から、パリで母が死んだ時に彼が書いた手紙について少し詳しく書きます。

 天才音楽家モーツァルトは、1756年1月27日、オーストリアのザルツブルクで誕生した。父レオポルトは有能な宮廷音楽家で、息子が誕生したこの年に『ヴァイオリン教程』を出版した。母アンナ・マリアは、素朴で楽天的な性格だった。8人の子どもが生まれたが、生き延びたのは、三女のマリア・アンナ(通称ナンネル)と息子だけだった。

 1777年9月23日、モーツァルトは、母と共にザルツブルクを出発した。21歳の時だった。ミュンヘン、アウクスブルク、マンハイム、パリに至る、就職活動の旅であった。どの地でも職は見つからなかった。翌年の7月3日、一緒に旅をしていた母がパリで亡くなった。

 1791年12月5日、偉大な音楽家モーツァルトが死去した。享年35。極度に貧しかったので、葬儀は一般庶民と同じ第三等で行われた。貧相なもので、墓地まで見送る者もなく、遺骸は共同の墓穴に埋葬された。墓標も無く、十字架も立てられなかった。

 

 

◎母の死を知らせる手紙

 息子と二人だけで異郷への長い旅に出ていた母のアンナ・マリアがパリで重病に倒れ、1778年7月3日に亡くなりました。

 22歳のモーツァルトは、その夜、父に長い手紙を書きましたが、その手紙では死亡したことを伝えず、重病で危篤であると知らせて心の準備をさせました。それと同時に、ザルツブルクの親友・ブリンガー神父には事実を知らせる手紙を書いて、父と姉を慰め励ましてくれるように頼みました。6日後、母の死を知らせる手紙を父に出しました。

[1]父への手紙

1778年7月3日(パリ)

「親愛なる父へ。非常に不快な、悲しいお知らせをしなければなりません。お母さんの加減が大変悪いのです。どうしても必要だったので、お母さんは、いつものように放血しました。その時はとても良かったのですが、二、三日すると、寒気がしたかと思うと熱が出ました。それから下痢と頭痛が起こりました。だんだん悪くなるばかりで、口はきけず、耳も大声で叫ばなければ聞こえない位になりました。グリム男爵が彼の医者を寄越してくれました。とても弱っていて、まだ熱があり、譫言を言っています。

 ひとはまだ望みがあると言いますが、ぼくはあんまり当てにしていません。万事を最善になるように取り計らってくださる神様は、今度もそうなさるおつもりにちがいないと承知しているので、ぼくは何事が起ころうと、安心して任せ切っています。

 お母さんが死ぬだろうとか、死ぬほかはない、どんなに希望しても無駄だ、というものではありません。また元気で健康になるかも知れません、もし神様がそうお望みなら。ぼくは、力の限りを尽くして、愛するお母さんの健康と生命を神様にお祈りしてしまった後は、好んでそう考えて、自分を慰めています。そうすると、心がずっと落ち着いて、安心と慰めが得られるものですから。今のぼくにどんなに安心と慰めが必要か!これはそちらでもお分かりでしょう。

 さぁ、何かほかの話!こんな悲しい考えは捨てましょう。希望を持ちましょう。でも多く持ち過ぎてはいけません。神様を信頼し、万能の主の御意にかなうなら、万事うまくいくと考えて、自分を慰めましょう。(省略しますが、この後、手紙の中で、彼は交響曲のこと、有名な思想家ヴォルテールが死んだこと、オペラのことなどを長々と書きます)

 それでは、ご機嫌よろしゅう。愛するお母さんは万能の主の御手の中にあります。もし御心に添うなら、彼女をぼくらにお返しになりましょうし、ぼくらは神の御恵みに感謝しましょう。けれども、たとえ彼女を神の御手にお引き取りになったとしても、ぼくらの心配や憂いや絶望は、何の役にも立ちません。神の御業に理由のないものはないのですから、これも何事かに役立つのだと堅く信じ切って、神の御旨の中に毅然としていましょう。それでは、ご機嫌よう、愛するパパ、どうかご健康に気をつけてください」

[2]親友のブリンガー神父への手紙

 1778年7月3日(パリ)

 「最良の友よ!他言無用。友よ、ぼくと一緒に悲しんでくれたまえ!今日は一生で最も悲しい日だった。聞いてくれたまえ、ぼくの母が、ぼくの愛する母はもういない!神がお召しになったんだ。神が彼女を望まれたこと、それははっきりぼくに分かる。主がぼくに与えてくださった以上、彼女をお召しになることもできる。どうか、この2週間の間、ぼくが耐え忍び通した数々の不安と憂慮と心配を想像してみてくれたまえ。母は自分では何にも知らずに、まるで光が消えて行くように、死んで行った。3日間というもの、いつも譫言をいい続けていたが、今日の5時21分、最後の苦しみがやってくると同時に、あらゆる感覚と意識が無くなった。ぼくは手を握ったり、話しかけたりしたけれども母はぼくを見もしなければ聞きもせず、何も感じなかった。そんな様子で5時間いたが、夜の10時21分にこときれた。

 友人のよしみで一つだけお願いがある。ぼくの可哀想な父によく気を付けて、この悲しい知らせを聞く心構えをさせてくれないか。ぼくは同じ郵便で父にも書いたけれども、それはただ母が重態だということだけを書いた。父の返事を待って、その先のことを知らせるつもりだ。

 最上の友よ、どうか父の杖となり力となってください。この最悪のことを初めて耳にする時に、余りにも重く苛酷に感じすぎないように。姉の方にも、ぼくからくれぐれもよろしくと伝えてくれたまえ。どうか今すぐ彼らを訪問してやってください」

[3]父への手紙

1778年7月9日(パリ)

 「最も悲しい、最もいたましいお知らせの一つを、毅然としてお聞きくださる心構えがおできになっていると存じます。7月3日付の前便で、到底よい知らせをお聞きになれない状態に立ち至ったことを、お覚悟のことと思います。同じ3日の夜10時21分、お母様は神の御許に安らかに休憩なさいました。ぼくが手紙を書いていた頃は、もう天上の喜びにひたっておいででした。あなたもお姉さんも、どうかぼくが小さな、けれども、どうしても必要な嘘を申し上げたことを許してくださることと思います。(後略)」