(先月号の続き)
彼の行動を伝える地元発行の『森田悟由禅師小伝』(大正5年版)を読んでも、実家の旦那寺の小鈴谷の玉泉寺に残されている、彼の「賛」や「香語」を読んでも、和合の精神に溢れています。誉め、ともに頑張ろうとなっています。仏の道で、みんなで幸せになろうという精神に溢れています。
とすると、先の「軍人禅話」は何だとなります。自国の戦争を聖戦と決め込み、敵を撃つ重さから考えれば、死など鴻毛よりも軽いと言う戦争推進論、肯定論の思想は。和合の思想とどう関連するのか。全く関連しません。
では、この「軍人禅話」の突然の出現をどう説明すべきか。私は悟由が功を焦った結果と思います。悟由は本当は「ナンバー2」の位置を自認していました。先の大内青巒もそうですが、瀧谷琢宗も優秀で、宗門近代化の要は宗義の統一にあるとして、修証義は彼らによってつくられていきます。悟由は瀧谷や大内の下で支えながら勉強したかったのだと思います。しかし、大内は老齢、瀧谷は病気の発生で退き、突然に貫首の地位が回ってきます。勉強ができなくなり、貫首の働きもしなければならなくなります。
悟由は曹洞宗近代化で大きな働きをしています。実践という面で。後日、重興と評されるほどに。間違いを犯してもだれも注意できなくなり、「軍人禅話」を書かせてしまった。私はこう考えます。
最後に、私はこの推論の正しさのために、修証義の「愛語」の部分を紹介します。悟由の「軍人禅話」とは真逆のことが書かれています。
[修証義の原語]
愛語といふは、衆生を見るに、先づ慈愛の心を発し、顧愛の言語を施すなり、慈念衆生猶如赤子の懐ひを貯へて言語するは愛語なり、徳あるは讃むべし、徳なきは憐むべし、怨敵を降伏し、君子を和睦ならしむること愛語を根本とするなり、面ひて愛語を聞くは面を喜ばしめ心を楽しくす、面はずして愛語を聞くは肝に銘じ魂に銘ず、愛語能く廻天の力あることを学すべきなり。
[久田の現代語訳]
愛語というのは、衆生を見ては、慈愛の心を起こし顧愛の言語をかけてやることです。衆生を慈しみ思い、自分の赤ちゃんへのように思いをこめて言葉がけをするのが愛語です。徳のある人は褒めたたえ、徳のない人には憐れみの心で接し、敵愾心を持つ人にはそれを鎮めさせ、権力者には和睦させることこそ、愛語の根本です。対面して愛語を聞けば思わず顔がほころぶもので楽しくなります。また対面でなく人づてに愛語を聞けば、その語を肝に刻み魂に刻みたくなります。それゆえ、愛語には天下社会の重大な情勢を変える力があることを知るべきです。「愛語、よく廻天の力あるを学ぶべし」。
「愛語、よく廻天の力あるを学ぶべし」。これこそが日本仏教の教えであり、曹洞宗の教えです。戦争をさせてはいけないのです。悟由の逸脱は明らかでしょう。
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彼の行動を伝える地元発行の『森田悟由禅師小伝』(大正5年版)を読んでも、実家の旦那寺の小鈴谷の玉泉寺に残されている、彼の「賛」や「香語」を読んでも、和合の精神に溢れています。誉め、ともに頑張ろうとなっています。仏の道で、みんなで幸せになろうという精神に溢れています。
とすると、先の「軍人禅話」は何だとなります。自国の戦争を聖戦と決め込み、敵を撃つ重さから考えれば、死など鴻毛よりも軽いと言う戦争推進論、肯定論の思想は。和合の思想とどう関連するのか。全く関連しません。
では、この「軍人禅話」の突然の出現をどう説明すべきか。私は悟由が功を焦った結果と思います。悟由は本当は「ナンバー2」の位置を自認していました。先の大内青巒もそうですが、瀧谷琢宗も優秀で、宗門近代化の要は宗義の統一にあるとして、修証義は彼らによってつくられていきます。悟由は瀧谷や大内の下で支えながら勉強したかったのだと思います。しかし、大内は老齢、瀧谷は病気の発生で退き、突然に貫首の地位が回ってきます。勉強ができなくなり、貫首の働きもしなければならなくなります。
悟由は曹洞宗近代化で大きな働きをしています。実践という面で。後日、重興と評されるほどに。間違いを犯してもだれも注意できなくなり、「軍人禅話」を書かせてしまった。私はこう考えます。
最後に、私はこの推論の正しさのために、修証義の「愛語」の部分を紹介します。悟由の「軍人禅話」とは真逆のことが書かれています。
[修証義の原語]
愛語といふは、衆生を見るに、先づ慈愛の心を発し、顧愛の言語を施すなり、慈念衆生猶如赤子の懐ひを貯へて言語するは愛語なり、徳あるは讃むべし、徳なきは憐むべし、怨敵を降伏し、君子を和睦ならしむること愛語を根本とするなり、面ひて愛語を聞くは面を喜ばしめ心を楽しくす、面はずして愛語を聞くは肝に銘じ魂に銘ず、愛語能く廻天の力あることを学すべきなり。
[久田の現代語訳]
愛語というのは、衆生を見ては、慈愛の心を起こし顧愛の言語をかけてやることです。衆生を慈しみ思い、自分の赤ちゃんへのように思いをこめて言葉がけをするのが愛語です。徳のある人は褒めたたえ、徳のない人には憐れみの心で接し、敵愾心を持つ人にはそれを鎮めさせ、権力者には和睦させることこそ、愛語の根本です。対面して愛語を聞けば思わず顔がほころぶもので楽しくなります。また対面でなく人づてに愛語を聞けば、その語を肝に刻み魂に刻みたくなります。それゆえ、愛語には天下社会の重大な情勢を変える力があることを知るべきです。「愛語、よく廻天の力あるを学ぶべし」。
「愛語、よく廻天の力あるを学ぶべし」。これこそが日本仏教の教えであり、曹洞宗の教えです。戦争をさせてはいけないのです。悟由の逸脱は明らかでしょう。