◎ベートーヴェン
私はクラシック音楽を聴くのが好きです。一日に5時間以上聴いています。
若い頃から、モーツァルト、ベートーヴェン、シューベルト、ブラームスがとても好きでした。10年ほど前にブルックナーの魅力に取り付かれ、彼の交響曲を聴かない日はないほどの熱狂的なファンになりました。また5年前からバッハが大好きになりました。
84歳になった今、私は、朝食を終えると、自分の部屋に行き、半分壊れたマッサージ機に着席し、中古のラジカセにCDを入れます。
最初にモーツァルトかバッハの作品を聴きます。早朝、まず澄んだ気分になりたいのです。その後は、ベートーヴェンかブルックナーを選びます。気分を高揚させたいのです。昼食後は、その時の気分で、聴く曲を決めています。
ベートーヴェンには、ピアノ・ソナタと交響曲と弦楽四重奏曲という三つの大きな世界があります。ピアノ・ソナタは32曲、交響曲は9曲、弦楽四重奏曲は16曲あります。
10年ほど前までは体力も気力もあったので、「ベートーヴェンのピアノ・ソナタをみんな聴こう」と決意して、数日かけて1番から32番まで連続して聴くことも時々ありました。完全に老衰してしまう前に、また一度挑戦してみたいと思っています。
◎「不滅の恋人」への手紙
先日、ベートーヴェンに関する本を読みました。メイナード・ソロモン著、徳丸吉彦・勝村仁子訳『ベートーヴェン(上)(下)』。30年前に岩波書店から出版された分厚い本で、ベートーヴェンの「不滅の恋人」が誰かを解明した有名な本です。この本から私は色々のことを学びました。
今から、「不滅の恋人」に関する部分を簡単に紹介します。
ベートーヴェンの死後、彼の遺品の中から宛名不明の3通の恋文が発見されました。
「7月6日、朝。私の天使、私のすべて。今はほんの少しだけ、そして鉛筆で(あなたの鉛筆で)。どうしてこんなに悲しいのだろうか。私たちの恋は、我慢をし、または全てを求めたりしないようにしなければ成立しないのではないか。あなたが完全に私のものではなく、私も完全にあなたのものではないという状態を、あなたは変えられますか。どうぞ美しい自然に目を向け、あなたの気持ちを静めて下さい。愛は全てを要求します。私はあなたを必要とし、あなたは私を必要とします。あなたは、私が私のためとあなたのために生きなければならないということをすぐに忘れてしまいます。もし私たちが完全に結ばれていたのならば、あなたも私もこんな悲しみを味わわずにすむのに。
私の旅はひどいもので、昨日の朝4時にやっとここに到着しました。
私たちはまたすぐに会えるでしょう。元気を出して下さい。私のすべてでいて下さい」
「7月6日、月曜日の夕方。あなたは悩んでいますね。私があなたと一緒に暮らせるようにして下さい。どんなに楽しい生活になるでしょう。あなたがどんなに私を愛していても、それよりも強く私はあなたを愛しています。どうぞ私から隠れないで下さい。おやすみなさい。湯治客として私はもう寝なければなりません。ああ、本当に近い。しかし、本当に離れている。私たちの愛は本当の天の建物のようではないでしょうか。そして、天の砦と同じように強いのです」
「おはよう、7月7日。床の中にいる時から、考えはあなたのことへ、私の不滅の恋人のことへ向かいます。私はあなたと完全に一緒になるか、あるいは全く別れてでなければ暮らせません。そうです、私は遠いところを長い間さまよい歩く決心をしました。おお、なぜ、これほど愛している人から離れていなければならないのでしょう。私ぐらいの年になると、ある程度生活が毎日変化なく繰り返されていくことが必要になります。私たちの関係で、こうしたことが成立するでしょうか。落ち着いて下さい。落ち着いて考えることによってしか、私たちは一緒に暮らすという二人の目的に到達することができないのです。今日も、昨日も、あなたに対する憧れは涙にあふれる。私の生命、私のすべて、さようなら。私を愛し続けて下さい。永遠にあなたのもの」
この手紙には、書かれた年、場所そして相手の名前が抜けていました。
弟子のシンドラーは、1840年にこの手紙を公にしました。その時に、手紙の受け取り手はジュリエッタ・グイッチャイルディであり、ベートーヴェンがハンガリーのある温泉場で1806年の夏に手紙を書いたと主張しました。読んだ者は誰一人として疑いを持ちませんでした。しかし、ベートーヴェンに関する研究が進んで、ジュリエッタ・グイッチャイルディが1803年にガレンベルク伯爵と結婚して、その後すぐにナポリに赴き、そこで新しい家庭を持ったことが判明しました。
シンドラーの説が崩れた後、権威ある研究者のセイヤーが、手紙は1807年にテレーゼ・フォン・ブルンスヴィクに宛てて書かれたと主張しました。しかし、1807年の7月6日が、手紙には「月曜」と書かれているのに、月曜でないことが判明しました。そこで、困ったセイヤーは強引にも「ベートーヴェンの日付には1日の間違いがある」と主張しました。
1972年に、この本の著者メイナード・ソロモンは、精密な調査の結果、恋文は1812年にアントニエ・ブレンターノに出されたものであると結論づけました。
アントニエ・ブレンターノは1780年にウィーンで生まれた。(ベートーヴェンより10歳年下)。父のビルケンシュトックは、オーストリアの著名な政治家で、学者としても芸術愛好家としても知られていた。8歳の時に母が亡くなり、幼いアントニエは修道院に預けられ、そこで7年間厳しいしつけを受けた。1798年7月、15歳年上のフランクフルトの商人フランツ・ブレンターノと結婚した。彼女はウィーンが好きだったので、見知らぬフランクフルトでの生活は辛かった。
1809年、一家はウィーンに引っ越し、翌年5 月、ベートーヴェンと知り合った。彼女はベートーヴェンを敬愛するようになり、やがて、敬愛の気持ちは激しい愛に変わった。1812年7月、偶然にもベートーヴェンとアントニエ(夫と子供と一緒)は別の温泉場に行くことになった。出発の前に二人は会って愛を確かめ合っていた。彼女は全てを捨てて結婚したいと思い、その決意をベートーヴェンに伝えていた。42歳の彼は、どう決断すべきか思い悩み、到着した温泉場から手紙を書き送った。
この手紙を読んだアントニエは、相手の気持ちの動揺を知り、自分の方から別れようと決意し、手紙をベートーヴェンに送り返した。
ベートーヴェンは、送り返された手紙を破り捨てませんでした。この偉大な音楽家は、たびたび恋をしましたが、相手の女性の愛を得ることはできませんでした。唯一の例外が「不滅の恋人」でした。
彼女との愛の思い出は、大切に保存すべき貴重な宝だったのです。
■杉本武之プロフィール
1939年 碧南市に生まれる。
京都大学文学部卒業。
翻訳業を経て、小学校教師になるために愛知教育大学に入学。
25年間、西尾市の小中学校に勤務。
定年退職後、名古屋大学教育学部の大学院で学ぶ。
〈趣味〉読書と競馬
・老春の戯言 No.009 ・私の出会った作品88 ・この指とまれ331 ・長澤晶子のSPEED★COOKING!
・日々是好日 ・知多の哲学散歩道Vol.40 ・若竹俳壇 ・わが家のニューフェイス ・愛とMy Family ・始まったよ
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◎ベートーヴェン
私はクラシック音楽を聴くのが好きです。一日に5時間以上聴いています。
若い頃から、モーツァルト、ベートーヴェン、シューベルト、ブラームスがとても好きでした。10年ほど前にブルックナーの魅力に取り付かれ、彼の交響曲を聴かない日はないほどの熱狂的なファンになりました。また5年前からバッハが大好きになりました。
84歳になった今、私は、朝食を終えると、自分の部屋に行き、半分壊れたマッサージ機に着席し、中古のラジカセにCDを入れます。
最初にモーツァルトかバッハの作品を聴きます。早朝、まず澄んだ気分になりたいのです。その後は、ベートーヴェンかブルックナーを選びます。気分を高揚させたいのです。昼食後は、その時の気分で、聴く曲を決めています。
ベートーヴェンには、ピアノ・ソナタと交響曲と弦楽四重奏曲という三つの大きな世界があります。ピアノ・ソナタは32曲、交響曲は9曲、弦楽四重奏曲は16曲あります。
10年ほど前までは体力も気力もあったので、「ベートーヴェンのピアノ・ソナタをみんな聴こう」と決意して、数日かけて1番から32番まで連続して聴くことも時々ありました。完全に老衰してしまう前に、また一度挑戦してみたいと思っています。
◎「不滅の恋人」への手紙
先日、ベートーヴェンに関する本を読みました。メイナード・ソロモン著、徳丸吉彦・勝村仁子訳『ベートーヴェン(上)(下)』。30年前に岩波書店から出版された分厚い本で、ベートーヴェンの「不滅の恋人」が誰かを解明した有名な本です。この本から私は色々のことを学びました。
今から、「不滅の恋人」に関する部分を簡単に紹介します。
ベートーヴェンの死後、彼の遺品の中から宛名不明の3通の恋文が発見されました。
「7月6日、朝。私の天使、私のすべて。今はほんの少しだけ、そして鉛筆で(あなたの鉛筆で)。どうしてこんなに悲しいのだろうか。私たちの恋は、我慢をし、または全てを求めたりしないようにしなければ成立しないのではないか。あなたが完全に私のものではなく、私も完全にあなたのものではないという状態を、あなたは変えられますか。どうぞ美しい自然に目を向け、あなたの気持ちを静めて下さい。愛は全てを要求します。私はあなたを必要とし、あなたは私を必要とします。あなたは、私が私のためとあなたのために生きなければならないということをすぐに忘れてしまいます。もし私たちが完全に結ばれていたのならば、あなたも私もこんな悲しみを味わわずにすむのに。
私の旅はひどいもので、昨日の朝4時にやっとここに到着しました。
私たちはまたすぐに会えるでしょう。元気を出して下さい。私のすべてでいて下さい」
「7月6日、月曜日の夕方。あなたは悩んでいますね。私があなたと一緒に暮らせるようにして下さい。どんなに楽しい生活になるでしょう。あなたがどんなに私を愛していても、それよりも強く私はあなたを愛しています。どうぞ私から隠れないで下さい。おやすみなさい。湯治客として私はもう寝なければなりません。ああ、本当に近い。しかし、本当に離れている。私たちの愛は本当の天の建物のようではないでしょうか。そして、天の砦と同じように強いのです」
「おはよう、7月7日。床の中にいる時から、考えはあなたのことへ、私の不滅の恋人のことへ向かいます。私はあなたと完全に一緒になるか、あるいは全く別れてでなければ暮らせません。そうです、私は遠いところを長い間さまよい歩く決心をしました。おお、なぜ、これほど愛している人から離れていなければならないのでしょう。私ぐらいの年になると、ある程度生活が毎日変化なく繰り返されていくことが必要になります。私たちの関係で、こうしたことが成立するでしょうか。落ち着いて下さい。落ち着いて考えることによってしか、私たちは一緒に暮らすという二人の目的に到達することができないのです。今日も、昨日も、あなたに対する憧れは涙にあふれる。私の生命、私のすべて、さようなら。私を愛し続けて下さい。永遠にあなたのもの」
この手紙には、書かれた年、場所そして相手の名前が抜けていました。
弟子のシンドラーは、1840年にこの手紙を公にしました。その時に、手紙の受け取り手はジュリエッタ・グイッチャイルディであり、ベートーヴェンがハンガリーのある温泉場で1806年の夏に手紙を書いたと主張しました。読んだ者は誰一人として疑いを持ちませんでした。しかし、ベートーヴェンに関する研究が進んで、ジュリエッタ・グイッチャイルディが1803年にガレンベルク伯爵と結婚して、その後すぐにナポリに赴き、そこで新しい家庭を持ったことが判明しました。
シンドラーの説が崩れた後、権威ある研究者のセイヤーが、手紙は1807年にテレーゼ・フォン・ブルンスヴィクに宛てて書かれたと主張しました。しかし、1807年の7月6日が、手紙には「月曜」と書かれているのに、月曜でないことが判明しました。そこで、困ったセイヤーは強引にも「ベートーヴェンの日付には1日の間違いがある」と主張しました。
1972年に、この本の著者メイナード・ソロモンは、精密な調査の結果、恋文は1812年にアントニエ・ブレンターノに出されたものであると結論づけました。
アントニエ・ブレンターノは1780年にウィーンで生まれた。(ベートーヴェンより10歳年下)。父のビルケンシュトックは、オーストリアの著名な政治家で、学者としても芸術愛好家としても知られていた。8歳の時に母が亡くなり、幼いアントニエは修道院に預けられ、そこで7年間厳しいしつけを受けた。1798年7月、15歳年上のフランクフルトの商人フランツ・ブレンターノと結婚した。彼女はウィーンが好きだったので、見知らぬフランクフルトでの生活は辛かった。
1809年、一家はウィーンに引っ越し、翌年5 月、ベートーヴェンと知り合った。彼女はベートーヴェンを敬愛するようになり、やがて、敬愛の気持ちは激しい愛に変わった。1812年7月、偶然にもベートーヴェンとアントニエ(夫と子供と一緒)は別の温泉場に行くことになった。出発の前に二人は会って愛を確かめ合っていた。彼女は全てを捨てて結婚したいと思い、その決意をベートーヴェンに伝えていた。42歳の彼は、どう決断すべきか思い悩み、到着した温泉場から手紙を書き送った。
この手紙を読んだアントニエは、相手の気持ちの動揺を知り、自分の方から別れようと決意し、手紙をベートーヴェンに送り返した。
ベートーヴェンは、送り返された手紙を破り捨てませんでした。この偉大な音楽家は、たびたび恋をしましたが、相手の女性の愛を得ることはできませんでした。唯一の例外が「不滅の恋人」でした。
彼女との愛の思い出は、大切に保存すべき貴重な宝だったのです。