◎太宰治(その1)
太宰治が美容師の山崎富栄と玉川上水で投身自殺してから75年が経ちました。
この天才作家は、明治42年(1909)6月19日に青森県北津軽郡金木村で生まれました。本名は津島修治。当時、津島家は県下有数の大地主で、銀行も経営し、父の源右衛門は有力な県会議員でした。広大な家屋敷に住んでいました。
なお、私の母も、同じ年の12月に知多半島の亀崎(現・半田市)で生まれました。
最近、久し振りに太宰治の主要な作品を読みました。60年以上も前、大学生だった私は、京都の下宿で彼の作品を夢中になって読みました。それ以来の再会でした。
「久しぶりですね」という感じで、私は太宰治に対しました。「大学を卒業してからは、何となく文学的な世界から離れていて、長い間小学校の教師なんかもしていたので、あなたの作品を読む機会が無かったんですが、84歳になって、また読み始めましたよ。本当に懐かしいな。あなたは39歳で死んでしまいましたね。あなたと同じ年に生まれた私の母は百歳まで生きましたよ。あなたにはもう10年は生きていてほしかった。あなたは、間違いなく、本物の天才でした。私は、文学の道に進まなくてよかったと思っています。あなたのように光り輝く天分に恵まれていなかったのですから…」
◎昭和14年の太宰治
昭和14年(1939)という年は、太宰治にとって極めて重要な年でした。
この年の1月8日、30歳の太宰治は、東京の井伏鱒二の家で、井伏鱒二夫妻の媒酌のもとに、石原美知子と結婚式を挙げました。
なお、同じ年の5月に私は生まれました。
この時期までの太宰治の生き方は陰惨なもので、すでに4回も自殺を企てていました。
1回目は、弘前高校時代の昭和4年12月、地主階級に生まれたという思想的苦悩からカルモチンを多量に飲んだ。2回目は、東大文学部に入学した昭和5年の11月、銀座の女給・田辺あつみと鎌倉の海岸で心中を図ったが、相手の女性だけ死亡した。3回目は、昭和10年3月、大学を卒業できないことが決定し、鎌倉山の中腹で縊死を図ったが未遂に終わった。4回目は、昭和12年3月、内縁の妻・初代の過失を知って衝撃を受け、群馬県の谷川温泉でカルモチンによる心中を図ったが今度も未遂に終わった。そして、6月に初代と離別した。
昭和14年前後の彼の略年譜は次のようです。
・昭和13年9月、師の井伏鱒二の招きで、山梨県河口村御坂峠の天下茶屋に行き滞在した。井伏鱒二を介して、甲府市の石原美知子と見合いをした。11月6日、彼女と婚約。
・昭和14年1月8日、東京の井伏家で、井伏鱒二夫婦の媒酌で結婚式を挙げ、甲府市の御崎町に新居を構えた。9月、甲府を引き払い、東京の三鷹下連雀に転居した。この年、「富嶽百景」「女生徒」「黄金風景」などを発表した。
・昭和15年2月、「駆け込み訴え」を『中央公論』に発表した。5月、「走れメロス」を『新潮』に発表。6月、『思い出』を人文書院より刊行した。
今から、名作「富嶽百景」を中心にして、太宰治が再生する契機となった石原美知子との結婚について書いていきます。
石原美知子は、山梨県立甲府高等女学校から東京女子高等師範学校(現・お茶の水女子大学)に進学し、卒業後、山梨県立都留高等女子学校の教師として、地理と歴史を教えていました。彼女の父親は東大地質学科の出身で、幾つかの県で中学校長を歴任しました。
兄も東大医学部で学んでおり、彼女は秀才ぞろいの家庭環境で育ちました。太宰治との縁談の話があった時には、父親も兄もすでに亡くなっていました。
なお、私の妻の母親は、甲府の生まれで、甲府高等女学校に在学していた時、同級生だった石原美知子と非常に親しくしていました。
◎「富嶽百景」
「富嶽百景」は、昭和14年に『文体』の2月号、3月号に掲載されました。こんな内容の小説です。
昭和十三年の初秋、思いをあらたにする覚悟で、私は、かばん一つだけ下げて旅に出た。甲府市からバスに揺られて1時間。御坂峠へたどり着く。海抜千三百メートル。この峠の頂上に、天下茶屋という茶店があって、井伏鱒二氏が初夏の頃から、ここの二階に籠もって仕事をしていた。私は、それを知ってここへ来た。井伏氏の仕事の邪魔にならないようなら、隣室でも借りて、しばらく滞在しようと思っていた。
数日後、井伏氏は御坂峠を引き上げることになって、私も甲府までお供した。甲府で、ある娘さんと見合いをすることになっていた。井伏氏に連れられて娘さんの家へ行った。井伏氏は無雑作な登山服である。私は、角帯に、夏羽織を着ていた。
母堂に迎えられて客間に通され、挨拶して、そのうちに娘さんも出て来て、私は、娘さんの顔を見なかった。井伏氏と母堂とは、おとな同士の、よもやまの話をして、ふと、井伏氏が「おや、富士」とつぶやいて、私の背後の長押を見上げた。富士山頂大噴火口の鳥瞰写真が、額縁に入れられて、掛けられていた。私は、それを見届け、また、ゆっくり体をねじ戻す時、娘さんを、ちらと見た。決めた。多少の困難があっても、このひとと結婚したいものだと思った。
井伏氏は、その日に帰京し、私は、ふたたび御坂に引き返した。それから、茶屋の二階で、少しずつ、少しずつ、仕事を進めた。
御坂峠のその茶店には、郵便物は配達されなかった。バスで三十分ほどの河口村の郵便局に、私宛の郵便物が留め置かれて、私は時々、その郵便物を取りに出掛けた。
ある日、郵便局からバスに乗っていた時、隣に座っていた老婆が、「おや、月見草」と言って、路傍の一カ所を指さした。富士山と立派に向き合って、みじんも揺るがず、けなげにすっくり立っていたあの月見草は、よかった。富士には、月見草がよく似合う。
結婚しても私の家からの助力が期待できないことがはっきりしたので、相手の家に行って説明しようと決心した。私は客間に通され、娘さんと母堂の前で事情を説明した。
母堂は言った。「あなたが愛情と、職業に対する熱意さえお持ちならば、それで私たちは結構でございます」。私は、お辞儀するのも忘れて、しばらく呆然と庭を眺めていた。目の熱いのを意識した、この母に、孝行しようと思った。
結婚の話が好転して行った。結婚式も、井伏氏の家でしてもらえるようになり、私は人の情けに、少年のごとく感奮していた。
寒くなってきたので、私は山を下りた。甲府の安宿に泊まった。安宿の廊下から富士山を見た。山々の後ろから、三分の一ほど顔を出していた。酸漿に似ていた。
■杉本武之プロフィール
1939年 碧南市に生まれる。
京都大学文学部卒業。
翻訳業を経て、小学校教師になるために愛知教育大学に入学。
25年間、西尾市の小中学校に勤務。
定年退職後、名古屋大学教育学部の大学院で学ぶ。
〈趣味〉読書と競馬
・老春の戯言 No.006王様の耳は、ロバの耳 ・私の出会った作品85 ・この指とまれ328 ・長澤晶子のSPEED★COOKING!
・日々是好日 ・美の回廊Vol.62 ・若竹俳壇 ・わが家のニューフェイス ・愛とMy Family ・「Rと妹の楽しみ」
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◎太宰治(その1)
太宰治が美容師の山崎富栄と玉川上水で投身自殺してから75年が経ちました。
この天才作家は、明治42年(1909)6月19日に青森県北津軽郡金木村で生まれました。本名は津島修治。当時、津島家は県下有数の大地主で、銀行も経営し、父の源右衛門は有力な県会議員でした。広大な家屋敷に住んでいました。
なお、私の母も、同じ年の12月に知多半島の亀崎(現・半田市)で生まれました。
最近、久し振りに太宰治の主要な作品を読みました。60年以上も前、大学生だった私は、京都の下宿で彼の作品を夢中になって読みました。それ以来の再会でした。
「久しぶりですね」という感じで、私は太宰治に対しました。「大学を卒業してからは、何となく文学的な世界から離れていて、長い間小学校の教師なんかもしていたので、あなたの作品を読む機会が無かったんですが、84歳になって、また読み始めましたよ。本当に懐かしいな。あなたは39歳で死んでしまいましたね。あなたと同じ年に生まれた私の母は百歳まで生きましたよ。あなたにはもう10年は生きていてほしかった。あなたは、間違いなく、本物の天才でした。私は、文学の道に進まなくてよかったと思っています。あなたのように光り輝く天分に恵まれていなかったのですから…」
◎昭和14年の太宰治
昭和14年(1939)という年は、太宰治にとって極めて重要な年でした。
この年の1月8日、30歳の太宰治は、東京の井伏鱒二の家で、井伏鱒二夫妻の媒酌のもとに、石原美知子と結婚式を挙げました。
なお、同じ年の5月に私は生まれました。
この時期までの太宰治の生き方は陰惨なもので、すでに4回も自殺を企てていました。
1回目は、弘前高校時代の昭和4年12月、地主階級に生まれたという思想的苦悩からカルモチンを多量に飲んだ。2回目は、東大文学部に入学した昭和5年の11月、銀座の女給・田辺あつみと鎌倉の海岸で心中を図ったが、相手の女性だけ死亡した。3回目は、昭和10年3月、大学を卒業できないことが決定し、鎌倉山の中腹で縊死を図ったが未遂に終わった。4回目は、昭和12年3月、内縁の妻・初代の過失を知って衝撃を受け、群馬県の谷川温泉でカルモチンによる心中を図ったが今度も未遂に終わった。そして、6月に初代と離別した。
昭和14年前後の彼の略年譜は次のようです。
・昭和13年9月、師の井伏鱒二の招きで、山梨県河口村御坂峠の天下茶屋に行き滞在した。井伏鱒二を介して、甲府市の石原美知子と見合いをした。11月6日、彼女と婚約。
・昭和14年1月8日、東京の井伏家で、井伏鱒二夫婦の媒酌で結婚式を挙げ、甲府市の御崎町に新居を構えた。9月、甲府を引き払い、東京の三鷹下連雀に転居した。この年、「富嶽百景」「女生徒」「黄金風景」などを発表した。
・昭和15年2月、「駆け込み訴え」を『中央公論』に発表した。5月、「走れメロス」を『新潮』に発表。6月、『思い出』を人文書院より刊行した。
今から、名作「富嶽百景」を中心にして、太宰治が再生する契機となった石原美知子との結婚について書いていきます。
石原美知子は、山梨県立甲府高等女学校から東京女子高等師範学校(現・お茶の水女子大学)に進学し、卒業後、山梨県立都留高等女子学校の教師として、地理と歴史を教えていました。彼女の父親は東大地質学科の出身で、幾つかの県で中学校長を歴任しました。
兄も東大医学部で学んでおり、彼女は秀才ぞろいの家庭環境で育ちました。太宰治との縁談の話があった時には、父親も兄もすでに亡くなっていました。
なお、私の妻の母親は、甲府の生まれで、甲府高等女学校に在学していた時、同級生だった石原美知子と非常に親しくしていました。
◎「富嶽百景」
「富嶽百景」は、昭和14年に『文体』の2月号、3月号に掲載されました。こんな内容の小説です。
昭和十三年の初秋、思いをあらたにする覚悟で、私は、かばん一つだけ下げて旅に出た。甲府市からバスに揺られて1時間。御坂峠へたどり着く。海抜千三百メートル。この峠の頂上に、天下茶屋という茶店があって、井伏鱒二氏が初夏の頃から、ここの二階に籠もって仕事をしていた。私は、それを知ってここへ来た。井伏氏の仕事の邪魔にならないようなら、隣室でも借りて、しばらく滞在しようと思っていた。
数日後、井伏氏は御坂峠を引き上げることになって、私も甲府までお供した。甲府で、ある娘さんと見合いをすることになっていた。井伏氏に連れられて娘さんの家へ行った。井伏氏は無雑作な登山服である。私は、角帯に、夏羽織を着ていた。
母堂に迎えられて客間に通され、挨拶して、そのうちに娘さんも出て来て、私は、娘さんの顔を見なかった。井伏氏と母堂とは、おとな同士の、よもやまの話をして、ふと、井伏氏が「おや、富士」とつぶやいて、私の背後の長押を見上げた。富士山頂大噴火口の鳥瞰写真が、額縁に入れられて、掛けられていた。私は、それを見届け、また、ゆっくり体をねじ戻す時、娘さんを、ちらと見た。決めた。多少の困難があっても、このひとと結婚したいものだと思った。
井伏氏は、その日に帰京し、私は、ふたたび御坂に引き返した。それから、茶屋の二階で、少しずつ、少しずつ、仕事を進めた。
御坂峠のその茶店には、郵便物は配達されなかった。バスで三十分ほどの河口村の郵便局に、私宛の郵便物が留め置かれて、私は時々、その郵便物を取りに出掛けた。
ある日、郵便局からバスに乗っていた時、隣に座っていた老婆が、「おや、月見草」と言って、路傍の一カ所を指さした。富士山と立派に向き合って、みじんも揺るがず、けなげにすっくり立っていたあの月見草は、よかった。富士には、月見草がよく似合う。
結婚しても私の家からの助力が期待できないことがはっきりしたので、相手の家に行って説明しようと決心した。私は客間に通され、娘さんと母堂の前で事情を説明した。
母堂は言った。「あなたが愛情と、職業に対する熱意さえお持ちならば、それで私たちは結構でございます」。私は、お辞儀するのも忘れて、しばらく呆然と庭を眺めていた。目の熱いのを意識した、この母に、孝行しようと思った。
結婚の話が好転して行った。結婚式も、井伏氏の家でしてもらえるようになり、私は人の情けに、少年のごとく感奮していた。
寒くなってきたので、私は山を下りた。甲府の安宿に泊まった。安宿の廊下から富士山を見た。山々の後ろから、三分の一ほど顔を出していた。酸漿に似ていた。