◎加藤秀俊先生

 昨年(2021)の6月、社会学者・加藤秀俊先生の『九十歳のラブレター』(新潮社)が刊行されました。すぐに読みました。心が激しく動揺しました。鎮静するのに長い時間が必要でした。この本は、3年前の秋に虚血性心不全のために89歳で亡くなった妻の隆江さんとの長い家庭生活を回想したものです。

 本書に記載されている社会学者の加藤先生の略歴。

 「1930年、東京・渋谷生まれ。社会学博士。一橋大学卒業。京都大学、スタンフォード大学、ハワイ大学、学習院大学などで教鞭をとる。その後、国際交流基金日本語国際センター所長、日本育英会会長などをつとめる。また梅棹忠夫、小松左京らと『未来学研究会』を結成し、大阪万博のブレーンとなった。『加藤秀俊著作集(全12巻)』『アメリカの小さな町から』『暮しの思想』『わが師わが友』など著書多数。訳書にリースマン『孤独な群衆』、ウォルフェンス&ライツ『映画の心理学』(加藤隆江との共訳)などがある」

 私は、京都時代の加藤夫妻と懇意にしていました。

 先生は、昭和35年(1960)、京大教育学部の助教授になった時に太秦に家を新築しました。完成が近づいた時に、搬入し始めたものを盗まれないために、夜間、新しい家で留守番をしてくれる教育学部の学生を探しました。先生は内藤さんに頼みました。彼は私と同じ刈谷高校出身で、共に映画部に所属し、鴨川沿いの同じ家に下宿していました。内藤さんは私に声を掛け、二人で先生の新築の家で寝泊まりすることになりました。

 その家のことは、次のように書かれています。「結婚さいしょの住まいはケンブリッジの屋根裏部屋だったし、京都でのさいしょの太秦の家も間仕切りのないワンルームだった。おなじ太秦で二軒目の家をつくった時には小さいながらも3LDK。だが、まだ満足できるだけの広さを確保することはできなかった」

 すぐに私は、加藤夫妻と長女のまりちゃん(1歳)と親しくなりました。そして、この新しい家に足繁く通って楽しい時間を過ごすようになりました。2年後の1962年に長男のふうちゃん(文俊さん)が生まれた時には、私はまりちゃんと二人で、先生が病院から戻って来るのを待っていました。「男の子が生まれたよ」とうれしそうに知らせた時の先生の顔を今でもはっきりと覚えています。

 本書には「ペット遍歴」という章があり、この章を読んで、私の胸は強く痛みました。

 本の中に具体的には出てきませんが、加藤家にマックという犬がいました。1970年、京大を辞職した先生は、ハワイ大学の「高等研究員」というポストを引き受けて、一家でハワイのホノルルで生活することになりました。飼っていた犬のマックをどうするか。先生たちは、犬の好きな私に預けることに決めました。そして、ある日、先生の運転でみんな揃って京都から自家用車で碧南市の私の家まで犬を連れてやって来ました。

 その当時、大袈裟に言えば、私は人生の岐路に立っていました。2年前に、定職にも就いていなかった私は、結婚しました。やがて長男が誕生。私は、小学校の教師になろうと決意し、愛知教育大学を受験して学生になりました。長女が生まれました。そんな時に、加藤先生から犬の飼育を頼まれたのです。

 加藤家には時々犬が飼われていました。最初の犬は、銭湯からの帰り道に、先生たちの後に付いて来た野良犬でした。隆江さんに懐いていた犬のナガは数年後に死にました。

 「その後もイヌを飼ったことはあったが、いずれも短命だったし、なんべんにもわたる引っ越し、とりわけ海外生活がくりかえされたものだから、結局のところペットとの生活はおわった。なにしろあるじが転々と居場所をかえるのだもの、イヌが定住する余地なんかありはしなかった」

 私の家に来たマックは、半年も経たないうちに死んでしまいました。その時はよく分からなかったのですが、今思えば、蚊に刺されたためにフィラリア症になって死んだのだと思います。庭の納屋で飼っていました。私はフィラリアの恐ろしさを正しく認識しておらず、その対策を取っていませんでした。可哀想なことをしたと今でも悔やんでいます。

 先生は、妻の隆江さんが亡くなってからの5ヶ月間、愛する妻の死を家族以外の誰にも知らせませんでした。そして、2年後に本書を刊行したのでした。

 

◎亀井俊介

 加藤先生の本の他にも、亡き妻を追悼する本がたくさん刊行されています。

 2010年に乳癌で亡くなった有名な歌人の河野裕子さんとの最期の日々を綴った夫・永田和宏の『歌に私は泣くだろう』(新潮文庫)も感動的ですし、2008年に食道癌で亡くなったファッション評論家の川本恵子との数々のエピソードを綴った夫・川本三郎の『いまも、君を想う』(新潮社)も実に素敵な本です。

 ここでは、1990年の夏に肝臓癌で亡くなった日本女子大学・英文科教授の亀井規子のシンプルな生き方(死に方)を愛情深く綴った夫・亀井俊介の『わが妻の「死の美学」』(リバティ書房)を取り上げてみたいと思います。

 亀井規子は、昭和7年(1932)、東京に生まれた。彼女の父・山名寿三は法律学者で日本大学の教授をしていた。日本女子大学英文科で学び、卒業後、東京大学大学院に入って、比較文学を専攻した。彼女より半年遅く岐阜県で生まれた亀井俊介は、東大の英文科を卒業し、大学院では比較文学の専攻課程に進んだ。二人は知り合い、やがて結婚した。

 夫の俊介は東大教授になり、妻の規子は日本女子大学教授になった。そして、1990年の夏、規子はほぼ1年間の闘病生活の後、肝臓癌で亡くなった。享年58歳。

 告別式で夫・亀井俊介は、次のように挨拶しました。

 「規子は昨年(1989)の初め頃から疲労を覚えることが多くなり、3月29日に大量の下血を見、次第に体の衰弱を来たした。7月18日、東京都立駒込病院に入院した。

 その時、肝臓癌で、それも手術不可能な末期症状であることを告げられた。規子に真実を知らせなかったが、11月17日、とうとう思い切って、ありのままを告げた。

 規子は今までの人生の整理をし、死の準備を進めた。いたずらな延命策はとってくれるな、最大限自然なままに死なせてほしい、死んだら無宗派(無宗教ではない)の告別式だけはしてほしい、それもシンプル主義でいきたい、形式的なことはいっさい止めてほしい、お墓も、山の中に埋めて自然の石でも置いてくれるのが一番いい、といったことを少しずつ相談し、準備してきた。

 気が優しくて、素直で、正直で、嘘がつけず、忍耐強く、大らかで、素晴らしい女性だったと思います。そして今、あのお棺の中で、私にはこの上なく美しいと思える顔で眠っています」

 

■杉本武之プロフィール

1939年 碧南市に生まれる。

京都大学文学部卒業。

翻訳業を経て、小学校教師になるために愛知教育大学に入学。

25年間、西尾市の小中学校に勤務。

定年退職後、名古屋大学教育学部の大学院で学ぶ。

〈趣味〉読書と競馬

 

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◎加藤秀俊先生

 昨年(2021)の6月、社会学者・加藤秀俊先生の『九十歳のラブレター』(新潮社)が刊行されました。すぐに読みました。心が激しく動揺しました。鎮静するのに長い時間が必要でした。この本は、3年前の秋に虚血性心不全のために89歳で亡くなった妻の隆江さんとの長い家庭生活を回想したものです。

 本書に記載されている社会学者の加藤先生の略歴。

 「1930年、東京・渋谷生まれ。社会学博士。一橋大学卒業。京都大学、スタンフォード大学、ハワイ大学、学習院大学などで教鞭をとる。その後、国際交流基金日本語国際センター所長、日本育英会会長などをつとめる。また梅棹忠夫、小松左京らと『未来学研究会』を結成し、大阪万博のブレーンとなった。『加藤秀俊著作集(全12巻)』『アメリカの小さな町から』『暮しの思想』『わが師わが友』など著書多数。訳書にリースマン『孤独な群衆』、ウォルフェンス&ライツ『映画の心理学』(加藤隆江との共訳)などがある」

 私は、京都時代の加藤夫妻と懇意にしていました。

 先生は、昭和35年(1960)、京大教育学部の助教授になった時に太秦に家を新築しました。完成が近づいた時に、搬入し始めたものを盗まれないために、夜間、新しい家で留守番をしてくれる教育学部の学生を探しました。先生は内藤さんに頼みました。彼は私と同じ刈谷高校出身で、共に映画部に所属し、鴨川沿いの同じ家に下宿していました。内藤さんは私に声を掛け、二人で先生の新築の家で寝泊まりすることになりました。

 その家のことは、次のように書かれています。「結婚さいしょの住まいはケンブリッジの屋根裏部屋だったし、京都でのさいしょの太秦の家も間仕切りのないワンルームだった。おなじ太秦で二軒目の家をつくった時には小さいながらも3LDK。だが、まだ満足できるだけの広さを確保することはできなかった」

 すぐに私は、加藤夫妻と長女のまりちゃん(1歳)と親しくなりました。そして、この新しい家に足繁く通って楽しい時間を過ごすようになりました。2年後の1962年に長男のふうちゃん(文俊さん)が生まれた時には、私はまりちゃんと二人で、先生が病院から戻って来るのを待っていました。「男の子が生まれたよ」とうれしそうに知らせた時の先生の顔を今でもはっきりと覚えています。

 本書には「ペット遍歴」という章があり、この章を読んで、私の胸は強く痛みました。

 本の中に具体的には出てきませんが、加藤家にマックという犬がいました。1970年、京大を辞職した先生は、ハワイ大学の「高等研究員」というポストを引き受けて、一家でハワイのホノルルで生活することになりました。飼っていた犬のマックをどうするか。先生たちは、犬の好きな私に預けることに決めました。そして、ある日、先生の運転でみんな揃って京都から自家用車で碧南市の私の家まで犬を連れてやって来ました。

 その当時、大袈裟に言えば、私は人生の岐路に立っていました。2年前に、定職にも就いていなかった私は、結婚しました。やがて長男が誕生。私は、小学校の教師になろうと決意し、愛知教育大学を受験して学生になりました。長女が生まれました。そんな時に、加藤先生から犬の飼育を頼まれたのです。

 加藤家には時々犬が飼われていました。最初の犬は、銭湯からの帰り道に、先生たちの後に付いて来た野良犬でした。隆江さんに懐いていた犬のナガは数年後に死にました。

 「その後もイヌを飼ったことはあったが、いずれも短命だったし、なんべんにもわたる引っ越し、とりわけ海外生活がくりかえされたものだから、結局のところペットとの生活はおわった。なにしろあるじが転々と居場所をかえるのだもの、イヌが定住する余地なんかありはしなかった」

 私の家に来たマックは、半年も経たないうちに死んでしまいました。その時はよく分からなかったのですが、今思えば、蚊に刺されたためにフィラリア症になって死んだのだと思います。庭の納屋で飼っていました。私はフィラリアの恐ろしさを正しく認識しておらず、その対策を取っていませんでした。可哀想なことをしたと今でも悔やんでいます。

 先生は、妻の隆江さんが亡くなってからの5ヶ月間、愛する妻の死を家族以外の誰にも知らせませんでした。そして、2年後に本書を刊行したのでした。

 

 

◎亀井俊介

 加藤先生の本の他にも、亡き妻を追悼する本がたくさん刊行されています。

 2010年に乳癌で亡くなった有名な歌人の河野裕子さんとの最期の日々を綴った夫・永田和宏の『歌に私は泣くだろう』(新潮文庫)も感動的ですし、2008年に食道癌で亡くなったファッション評論家の川本恵子との数々のエピソードを綴った夫・川本三郎の『いまも、君を想う』(新潮社)も実に素敵な本です。

 ここでは、1990年の夏に肝臓癌で亡くなった日本女子大学・英文科教授の亀井規子のシンプルな生き方(死に方)を愛情深く綴った夫・亀井俊介の『わが妻の「死の美学」』(リバティ書房)を取り上げてみたいと思います。

 亀井規子は、昭和7年(1932)、東京に生まれた。彼女の父・山名寿三は法律学者で日本大学の教授をしていた。日本女子大学英文科で学び、卒業後、東京大学大学院に入って、比較文学を専攻した。彼女より半年遅く岐阜県で生まれた亀井俊介は、東大の英文科を卒業し、大学院では比較文学の専攻課程に進んだ。二人は知り合い、やがて結婚した。

 夫の俊介は東大教授になり、妻の規子は日本女子大学教授になった。そして、1990年の夏、規子はほぼ1年間の闘病生活の後、肝臓癌で亡くなった。享年58歳。

 告別式で夫・亀井俊介は、次のように挨拶しました。

 「規子は昨年(1989)の初め頃から疲労を覚えることが多くなり、3月29日に大量の下血を見、次第に体の衰弱を来たした。7月18日、東京都立駒込病院に入院した。

 その時、肝臓癌で、それも手術不可能な末期症状であることを告げられた。規子に真実を知らせなかったが、11月17日、とうとう思い切って、ありのままを告げた。

 規子は今までの人生の整理をし、死の準備を進めた。いたずらな延命策はとってくれるな、最大限自然なままに死なせてほしい、死んだら無宗派(無宗教ではない)の告別式だけはしてほしい、それもシンプル主義でいきたい、形式的なことはいっさい止めてほしい、お墓も、山の中に埋めて自然の石でも置いてくれるのが一番いい、といったことを少しずつ相談し、準備してきた。

 気が優しくて、素直で、正直で、嘘がつけず、忍耐強く、大らかで、素晴らしい女性だったと思います。そして今、あのお棺の中で、私にはこの上なく美しいと思える顔で眠っています」