◎北杜夫(その2)

 北杜夫については書きたいことがいっぱいあります。

 彼は平成23年(2011)10月24日、腸閉塞で死去しました。84歳でした。

 死ぬ10年前に出版された『マンボウ遺言状』(新潮社)に、湯川秀樹博士と同じ講演会に出席したことが書かれています。北杜夫は威張った人間が嫌いでした。権威を振りかざす人間に対して激しい嫌悪感を抱いていました。相手が偉大な理論物理学者の湯川秀樹博士であろうと、容赦しません。なかなか面白いエピソードなので紹介します。

 講演が嫌いな北杜夫が初めて講演に引っ張り出されたのが中央公論社の『世界の歴史』全集出版記念会であった。そして「次に引っ張り出されたのが岩波書店で、ノーベル賞の湯川先生と僕の二人。とにかく岩波というと、やっぱり何かを学ぼうという人がいっぱいで、外まで聴衆がぎっしり。マイクで話しても聞こえない人がいるくらい」

 講演会の後の食事の会で、湯川博士は人間の生き方について話し出した。「専門は物理学と言っても、もちろん立派な人だから、人生論だって他の人よりは立派。だけど、僕も作家であるから、あるところで、『そこはちょっと違いませんか』と一言言ったら、『それはどういう意味だ』と何だか気色ばんだ顔をする。もともと謙虚な人だって、初めてのノーベル賞受賞だから、周りからちやほやされる、どうしてもそうなる。人は、〇〇天皇なんて呼ばれちゃうと、しかも自分までそれを信じ込んじゃうと、どうしても駄目になっちゃう。駄目になっちゃうって、北杜夫に言われたかねえよと、みんな言うだろうけど。とにかく、人間についていい勉強になった」

◎『どくとるマンボウ航海記』

 昭和35年(1960)の春に『どくとるマンボウ航海記』が刊行されました。その当時、私は大学2年生でした。夢中で読みました。面白くて大笑いしました。

 『どくとるマンボウ航海記』は愉快な読み物です。まだ読んでいない人は、本屋で文庫本を買うか、古本屋で安い文庫本を買うか、図書館に行って借りて下さい。そんなに長いものではないので、すぐに読み終えます。

 本を手に取ったら、まず初めに「あとがき」を読んで下さい。私はこれほど優れた「あとがき」を読んだことがありません。「あとがき」の傑作です。見習うべき見本です。簡潔にして、しかも要を得ています。全文を引用します。

 「私は一九五八年の十一月半ばから、翌年の四月末にかけて、六百トンばかりの水産庁漁業調査船『照洋丸』の船医となり、およそ半年の航海をしてきた。それがどんな航海であるかはこの本を読めば分かるはずだが、私は日本に帰ってきて間もなく、なんのタタリか十二指腸潰瘍と診断され、酒タバコを禁じられ、カユなど食べねばならぬ身になってしまった。しかし、私はなにぶん医学者であるから、そんなものは夏の末までに治してしまうつもりであったところ、これがけしからぬ病気で、秋になっても治らぬ、冬となってもまだ治らぬ、私は痩せおとろえ、くたばり、その間なにひとつまともなことはできぬので、ついにカンシャクを起こし、とうとうかような本を書く気になった。

 私はこの本の中で、大切なこと、カンジンなことはすべて省略し、くだらぬこと、取るに足らぬこと、書いても書かなくても変わりがないが書かない方がいくらかマシなことだけを書くことにした。そのほうがわが潰瘍は機嫌がいいからでる。従って、私はこの本を『十二指腸航海記』と名付けたいと思ったが、それでは何のことやら分からぬと言われたので、致し方なく表記の題名にした、もっとも、これまた何のことやらあまりよくは分からぬ。

 去年の冬のはじめ、私は次の航海に出てゆく照洋丸を見送るため、リンゴ箱一杯マンガ本を詰めて東京湾へ出掛けた。ところが私が出港の日を聞き違えたのか、それとも船の予定が繰り上がったのか、そんな船はすでに影も形も見えぬのである。波止場に立っていた警官に尋ねると、その船なら確か昨日出港したという話であった。私は薄汚れた海が広がる岸壁に佇んで、何ということなくひとりごちた。『なるほど、船だ』

 今ごろは照洋丸はとうにパナマ運河を通りカリブ海あたりの緑の海を遊弋していることであろう。こうして遥か隔たってみると、さすがに私には、この船とそれに乗り組んでいた人たちに対する懐かしみが湧く。つつしんで彼女と彼らの幸運を祈る」

 

◎北杜夫からのハガキ

 50年以上も前のことですが、私は北杜夫が私宛に書いたハガキを持っていました。

 私は20代の後半に翻訳家をしていました。友人と一緒に訳していたのですが、早川書房からSFを2冊訳して出版したことがありました。

 最初に『X ・P で幸福を!』を出版した時、私はSFファンの北杜夫に贈呈しました。彼から心の籠もったお礼のハガキが来ました。私は大喜びしました。

 当時、翻訳だけではとても食べて行けなかったので、家で中学生や高校生に英語を教えていました。私は、北杜夫から来たハガキを自慢して生徒たちに見せました。

 生徒の中に私以上に北杜夫を熱愛する男の子がいました。ハガキを見ると、彼の目の色が変わりました。私の手からハガキを奪い取ると、「私はこのハガキが欲しい。これを私に下さい!」と絶叫しました。

 彼は言いました。「先生は、これからも北杜夫からハガキが貰えるかも知れない。中学生の私がファンレターを出したとしても返事が来るとは限らない。このハガキは、今一番欲しいと思っている私が所有すべきです!」

 こんなに欲しがっているんだから、この子にやった方がいいのではなかろうか。こう考えて、大切なハガキを手放してしまいました。その子の喜ぶ顔を見て、私もあきらめがつきました。

 

◎『船乗りクプクプの冒険』

 小学校の教師になり、2年目に、担任の6年生を相手に、北杜夫の『船乗りクプクプの冒険』を使って国語の授業をしました。クラスの生徒全員に角川文庫(180円)を購入させました。校長から「教科書を教えた方がいいよ」と何度も言われましたが、こうした授業を一度してみたかったのです。

 授業計画は次のように立てました。―最初の「クプクプとは何者か?」は私が読んで説明する。「クプクプ海へ乗り出す」から普通の国語の授業のように生徒に読ませたり、質問をしたりする。そして、次の「この船はどこへ行く?」は校内研究授業で、先生たちに見てもらう。その後は、各目、自分で読み、夏休みの読書感想文の対象図書にする。

 生徒たちも私も、とても楽しい読書を経験しました。多くの生徒たちは、中学に進んだ後、夏休みの課題の読書感想文に『船乗りクプクプの冒険』を取り上げて提出したそうです。46年後の今もあの文庫本を大切に持っているだろうか……。

 

■杉本武之プロフィール

1939年 碧南市に生まれる。

京都大学文学部卒業。

翻訳業を経て、小学校教師になるために愛知教育大学に入学。

25年間、西尾市の小中学校に勤務。

定年退職後、名古屋大学教育学部の大学院で学ぶ。

〈趣味〉読書と競馬

 

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◎北杜夫(その2)

 北杜夫については書きたいことがいっぱいあります。

 彼は平成23年(2011)10月24日、腸閉塞で死去しました。84歳でした。

 死ぬ10年前に出版された『マンボウ遺言状』(新潮社)に、湯川秀樹博士と同じ講演会に出席したことが書かれています。北杜夫は威張った人間が嫌いでした。権威を振りかざす人間に対して激しい嫌悪感を抱いていました。相手が偉大な理論物理学者の湯川秀樹博士であろうと、容赦しません。なかなか面白いエピソードなので紹介します。

 講演が嫌いな北杜夫が初めて講演に引っ張り出されたのが中央公論社の『世界の歴史』全集出版記念会であった。そして「次に引っ張り出されたのが岩波書店で、ノーベル賞の湯川先生と僕の二人。とにかく岩波というと、やっぱり何かを学ぼうという人がいっぱいで、外まで聴衆がぎっしり。マイクで話しても聞こえない人がいるくらい」

 講演会の後の食事の会で、湯川博士は人間の生き方について話し出した。「専門は物理学と言っても、もちろん立派な人だから、人生論だって他の人よりは立派。だけど、僕も作家であるから、あるところで、『そこはちょっと違いませんか』と一言言ったら、『それはどういう意味だ』と何だか気色ばんだ顔をする。もともと謙虚な人だって、初めてのノーベル賞受賞だから、周りからちやほやされる、どうしてもそうなる。人は、〇〇天皇なんて呼ばれちゃうと、しかも自分までそれを信じ込んじゃうと、どうしても駄目になっちゃう。駄目になっちゃうって、北杜夫に言われたかねえよと、みんな言うだろうけど。とにかく、人間についていい勉強になった」

 

◎『どくとるマンボウ航海記』

 昭和35年(1960)の春に『どくとるマンボウ航海記』が刊行されました。その当時、私は大学2年生でした。夢中で読みました。面白くて大笑いしました。

 『どくとるマンボウ航海記』は愉快な読み物です。まだ読んでいない人は、本屋で文庫本を買うか、古本屋で安い文庫本を買うか、図書館に行って借りて下さい。そんなに長いものではないので、すぐに読み終えます。

 本を手に取ったら、まず初めに「あとがき」を読んで下さい。私はこれほど優れた「あとがき」を読んだことがありません。「あとがき」の傑作です。見習うべき見本です。簡潔にして、しかも要を得ています。全文を引用します。

 「私は一九五八年の十一月半ばから、翌年の四月末にかけて、六百トンばかりの水産庁漁業調査船『照洋丸』の船医となり、およそ半年の航海をしてきた。それがどんな航海であるかはこの本を読めば分かるはずだが、私は日本に帰ってきて間もなく、なんのタタリか十二指腸潰瘍と診断され、酒タバコを禁じられ、カユなど食べねばならぬ身になってしまった。しかし、私はなにぶん医学者であるから、そんなものは夏の末までに治してしまうつもりであったところ、これがけしからぬ病気で、秋になっても治らぬ、冬となってもまだ治らぬ、私は痩せおとろえ、くたばり、その間なにひとつまともなことはできぬので、ついにカンシャクを起こし、とうとうかような本を書く気になった。

 私はこの本の中で、大切なこと、カンジンなことはすべて省略し、くだらぬこと、取るに足らぬこと、書いても書かなくても変わりがないが書かない方がいくらかマシなことだけを書くことにした。そのほうがわが潰瘍は機嫌がいいからでる。従って、私はこの本を『十二指腸航海記』と名付けたいと思ったが、それでは何のことやら分からぬと言われたので、致し方なく表記の題名にした、もっとも、これまた何のことやらあまりよくは分からぬ。

 去年の冬のはじめ、私は次の航海に出てゆく照洋丸を見送るため、リンゴ箱一杯マンガ本を詰めて東京湾へ出掛けた。ところが私が出港の日を聞き違えたのか、それとも船の予定が繰り上がったのか、そんな船はすでに影も形も見えぬのである。波止場に立っていた警官に尋ねると、その船なら確か昨日出港したという話であった。私は薄汚れた海が広がる岸壁に佇んで、何ということなくひとりごちた。『なるほど、船だ』

 今ごろは照洋丸はとうにパナマ運河を通りカリブ海あたりの緑の海を遊弋していることであろう。こうして遥か隔たってみると、さすがに私には、この船とそれに乗り組んでいた人たちに対する懐かしみが湧く。つつしんで彼女と彼らの幸運を祈る」

 

◎北杜夫からのハガキ

 50年以上も前のことですが、私は北杜夫が私宛に書いたハガキを持っていました。

 私は20代の後半に翻訳家をしていました。友人と一緒に訳していたのですが、早川書房からSFを2冊訳して出版したことがありました。

 最初に『X ・P で幸福を!』を出版した時、私はSFファンの北杜夫に贈呈しました。彼から心の籠もったお礼のハガキが来ました。私は大喜びしました。

 当時、翻訳だけではとても食べて行けなかったので、家で中学生や高校生に英語を教えていました。私は、北杜夫から来たハガキを自慢して生徒たちに見せました。

 生徒の中に私以上に北杜夫を熱愛する男の子がいました。ハガキを見ると、彼の目の色が変わりました。私の手からハガキを奪い取ると、「私はこのハガキが欲しい。これを私に下さい!」と絶叫しました。

 彼は言いました。「先生は、これからも北杜夫からハガキが貰えるかも知れない。中学生の私がファンレターを出したとしても返事が来るとは限らない。このハガキは、今一番欲しいと思っている私が所有すべきです!」

 こんなに欲しがっているんだから、この子にやった方がいいのではなかろうか。こう考えて、大切なハガキを手放してしまいました。その子の喜ぶ顔を見て、私もあきらめがつきました。

 

◎『船乗りクプクプの冒険』

 小学校の教師になり、2年目に、担任の6年生を相手に、北杜夫の『船乗りクプクプの冒険』を使って国語の授業をしました。クラスの生徒全員に角川文庫(180円)を購入させました。校長から「教科書を教えた方がいいよ」と何度も言われましたが、こうした授業を一度してみたかったのです。

 授業計画は次のように立てました。―最初の「クプクプとは何者か?」は私が読んで説明する。「クプクプ海へ乗り出す」から普通の国語の授業のように生徒に読ませたり、質問をしたりする。そして、次の「この船はどこへ行く?」は校内研究授業で、先生たちに見てもらう。その後は、各目、自分で読み、夏休みの読書感想文の対象図書にする。

 生徒たちも私も、とても楽しい読書を経験しました。多くの生徒たちは、中学に進んだ後、夏休みの課題の読書感想文に『船乗りクプクプの冒険』を取り上げて提出したそうです。46年後の今もあの文庫本を大切に持っているだろうか……。