姪の就職2
真三は椅子の背にもたれながら、「この先、日本は大丈夫なのか」と自問自答した。
ある友人から先日、電話で「コロナ後の日本、どうなると思う?」と聞かれたことが、甦ってきた。―日本の財政は相当厳しい。コロナ対策やオリンピック支出、一方景気の悪化で税収入は減退している。政府は当然、財政の立て直しを図るだろう。手っ取り早いのが、増税そして緊縮予算、それも切りやすいところから実施するだろう。
「それでもどうにもならないと、どうすると思う」―インフレ、それもハイパーインフレを誘導して、円の切り下げ、つまり戦後実施したように、新円の発行に踏み切ると思う。そうなると高齢者が貯め込んでいる預金は価値を失う。現役のサラリーマンは新円で給料をもらうので、痛みはさほどでもない。年金受給者は、いっぺんに貧民に陥る。「そういうことだよな。だから賢い人はいまからドル預金をしているそうだ。真三さんも長生きしたいなら円預金をドル預金に切り替えたら、どうですか」
―そういうことも十分、考えられるな。
真三はそう答えるしかアイデイアが浮かばなかった。いずれにせよ、ポスト・コロナの時代は相当、変化するだろうと考えた。
しばらくして小説に目を転じた。
片桐齊造が千早尋常小学校尋常科(現在の千早小学校)へ入学したのは大正十四年四月。(学校の正門まで片桐家の私有地が続いている)のが自慢だった。村でも三、四位を競う地主であった。村一番になったことはない。どうしても人に負けたくないという思いが強く、自分自身をたえず励ますという家風であった。
千早小学校の校訓は「楠公に学べ」と、楠木正成一色だった。いまだに楠公の銅像も他所に移されていない。皇居前の銅像も同じである。これは明治三十年、住友家第十三代吉左エ門友忠と広瀬宰平が別子銅山の二百年祭にあたって国恩に報いるため、別子産の純紫銅で造ったものを献上したと『住友百年史』にある。楠木正成が隠岐島から還年せられた後醍醐天皇を迎える像を東京美術学校の高村光雲が制作したもの。
「馬の尻尾のところだけ空洞で鳩の高級ホテルなっているのです」
ハトバス観光のお客にガイド嬢が説明している。
片桐の家は千早村の中心にあった。小学校、役場、農協、森林組合が続きにあった。千早と赤阪は合併するとき、どちらの村名が上にくるのかで問題になったこともある。どちらの村が中心だったのか。
「人口は千早の方が少し多く、財政、山林も千早が優位だった。富田林市、河南町との合併話も出たが、千早はあくまで村で残ると主張しました」 片桐はそう記憶している。そんな理由かどうかわからないが、千早赤阪村となった。当時の人口5,500人が、昭和六十一年には7,800人に増えている。
父の藤太郎は息子たちに勉学を奨励した。藤太郎自身、千早の家から富田林中学校に通ったので、山道通学のしんどさを厭というほど知っていた。息子らには富田林市内に一軒家を借りて、賄い婦をつけてそこから通わせた。長男から四男まで木材を切り売りしながら続けさせた。
「山、売ったらどうねん」
村人がやってきては藤太郎を促した。
「みんな売ってしまったら裸同然になるではないか」
そう言いながらも、藤太郎は金策に困り、ついには山まで手放すことになる。大方のところ村人か村の出身者に売却した。製材で儲けた人に売るケースが多い。ブローカーがいて、「山、買わんか」「山、売らんか」と、めぼしい家を回っていた。きちんとしたルートがあって、すぐに買い手を探してくるのである。
千早村を歩くと、元片桐の山だったという場によく出くわした。山を売るのは博打のようなもので、相場が上向くと儲かる。それでも先祖が育てた山林が他人の手に渡っているのを見るのは辛い。
息子たちには勉学と山の仕事、両方を求めた。毎日曜日には千早の家に戻ってくると、宿題や試験があろうがなかろうが、必ず山での仕事をさせた。勤倹力行型のスパルタ教育である。
齊造はいまも毎日、日記(大学ノートに)をつけている。自動車の中、会社、自宅とどこにいても思うままに綴る。二十五年間続けている。溜まった日記帳は齊造の背丈を超える。(死人に口なしというが、齊造の場合は日記ありである)という。片桐の前では言った、言わないという水掛け論は皆無である。こうした気違いじみた性癖がいまも続いている。「どんなささいなこと、例えば1日三度食べるご飯をよく噛むことでもよい。とにかく続けることだ」
齊造は自宅に若い行員を招いてはそう教える。初めから大上段にふりかぶって大きな目標を立てても長続きしない。長続きしないと役に立たない。“継続は力なり”というのが片桐の口癖であり、信条でもある。人は誰しも、(眠たい、怠けたい、飲みたい)と思うものだが、これを(いかん)と思いつつ、やるかやらないかで一つのことを継続できるかどうか決まる。
昭和六年、府立富田林中学校(現、富田林高校)に入学、兄の忠信は常に学業成績はトップだった。学力の差が開きすぎていたため、兄に対してコンプレックスも競争心、反抗心もなかった。忠信は大阪・浪高から東京帝大工学部へ進んだ。(国鉄=現JRに就職してほしい)という親の希望を聞かず、中堅企業の「大阪電気」(電気溶接機械等の製造会社)に入った。(自分の意思が十分通じるのに適正規模の企業がいい)というのが、入社の動機だった。
しかし、まもなく徴兵令状がきて徴兵検査を受ける。甲種合格の通知がきた。すぐに入隊、幹部候補生の試験を受けた。当時、入隊するまで一年以上の期間があくこともあったが、忠信の場合はすぐ入隊となった。大学卒業生はほとんど幹部候補生試験を受け、甲幹(甲種合格の幹部を略してこう呼んだ)なら約半年の見習い士官を経て少尉に任官された。三年~四年で大尉までなれたが、乙幹の方は大尉になるまで十年ほどかかった。甲幹は予備士官学校にも入れ、順当にいけば少佐まで昇れる。
一方、海軍兵学校か陸軍士官学校を出ると、海軍大学校か陸軍大学を受験でき、ここを卒業する者だけに大将、元帥の道が開かれている。昭和十七年(1942)の学徒動員令が出ると、学生は卒業と同時に全員、甲幹候補生となり戦地に赴いた。甲幹の数が不足してきたので、そうしたやり方を採ったのである。忠信は技術将校として満州に渡った。
次男の齊造は中学校三年の時、風邪をこじらせて聴力を悪化させ、ほとんど聞こえなくなった。勉強の方もそう好きでなかった上に、耳が聞こえなくなると授業についてさえいけない。十五歳の時である。両親も勉強は兄の忠信一人で十分だと半ばあきらめている。退学してミカンづくりを手伝うことになった。
真夏の太陽を浴び、汗だくになってミカンの手入れをする。段々畑を石灰の入ったバケツを持って上がったり下がったりする。この仕事が一番辛いのである。
ミカンの生木の期間が害虫に弱い。散布する石灰が風にあおられて汗の顔にかかる。こんなことで一生終わるのかと思うと無性に悲しくなる。
ふと、かがんだ腰を伸ばすと、富田林中の学生が数人、楽しそうに語らいながら帰宅する光景が目に入った。(俺はこんなつらい仕事を一生、ようしない。このままではダメになる。だが、ここを出ても、いまなら奉公人になるしかない。それはもっと辛いかもしれない)とミカンづくりを手伝いながら、世の中には誰にも知られないでこんな辛い仕事をしている人たちがいるのだということを知った。いまでも齊造はミカンを手にするとき、感傷的になる。
耳の方は一ケ月も経つと自然に治っていたが、すでに退学していたので、再入学にはもう一度試験を受け直さなければならない。耳が元に戻ったなら何とかなるだろう。挫折から立ち直ると、本気で勉学に励んだ。親から言われるのではなく、自らの意思でやるのだから成績の方もぐんぐん良くなる。翌年、四年生に編入される。
この時の経験は生き方を考える上で貴重だった。(後で苦労するより、いま苦労することだ)ということを学んだ。富田林中から彦根高等商業学校(現・滋賀大経済学部)に進み、昭和十五年、神戸商業大学(現・神戸大経済学部)に入学した。
■岡田 清治プロフィール
1942年生まれ ジャーナリスト
(編集プロダクション・NET108代表)
著書に『高野山開創千二百年 いっぱんさん行状記』『心の遺言』『あなたは社員の全能力を引き出せますか!』『リヨンで見た虹』など多数
※この物語に対する読者の方々のコメント、体験談を左記のFAXかメールでお寄せください。
今回は「就職」「日本のゆくえ」「結婚」「夫婦」「インド」「愛知県」についてです。物語が進行する中で織り込むことを試み、一緒に考えます。
FAX‥0569―34―7971
メール‥takamitsu@akai-shinbunten.net
・『新・現代家庭考』 就職128 ・私の出会った作品66 ・この指とまれ309 ・長澤晶子のSPEED★COOKING!
・日々是好日 ・知多の哲学散歩道Vol.30 ・若竹俳壇 ・愛とMy Family ・わが家のニューフェイス ・フォワード、僕!!
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姪の就職2
真三は椅子の背にもたれながら、「この先、日本は大丈夫なのか」と自問自答した。
ある友人から先日、電話で「コロナ後の日本、どうなると思う?」と聞かれたことが、甦ってきた。―日本の財政は相当厳しい。コロナ対策やオリンピック支出、一方景気の悪化で税収入は減退している。政府は当然、財政の立て直しを図るだろう。手っ取り早いのが、増税そして緊縮予算、それも切りやすいところから実施するだろう。
「それでもどうにもならないと、どうすると思う」―インフレ、それもハイパーインフレを誘導して、円の切り下げ、つまり戦後実施したように、新円の発行に踏み切ると思う。そうなると高齢者が貯め込んでいる預金は価値を失う。現役のサラリーマンは新円で給料をもらうので、痛みはさほどでもない。年金受給者は、いっぺんに貧民に陥る。「そういうことだよな。だから賢い人はいまからドル預金をしているそうだ。真三さんも長生きしたいなら円預金をドル預金に切り替えたら、どうですか」
―そういうことも十分、考えられるな。
真三はそう答えるしかアイデイアが浮かばなかった。いずれにせよ、ポスト・コロナの時代は相当、変化するだろうと考えた。
しばらくして小説に目を転じた。
片桐齊造が千早尋常小学校尋常科(現在の千早小学校)へ入学したのは大正十四年四月。(学校の正門まで片桐家の私有地が続いている)のが自慢だった。村でも三、四位を競う地主であった。村一番になったことはない。どうしても人に負けたくないという思いが強く、自分自身をたえず励ますという家風であった。
千早小学校の校訓は「楠公に学べ」と、楠木正成一色だった。いまだに楠公の銅像も他所に移されていない。皇居前の銅像も同じである。これは明治三十年、住友家第十三代吉左エ門友忠と広瀬宰平が別子銅山の二百年祭にあたって国恩に報いるため、別子産の純紫銅で造ったものを献上したと『住友百年史』にある。楠木正成が隠岐島から還年せられた後醍醐天皇を迎える像を東京美術学校の高村光雲が制作したもの。
「馬の尻尾のところだけ空洞で鳩の高級ホテルなっているのです」
ハトバス観光のお客にガイド嬢が説明している。
片桐の家は千早村の中心にあった。小学校、役場、農協、森林組合が続きにあった。千早と赤阪は合併するとき、どちらの村名が上にくるのかで問題になったこともある。どちらの村が中心だったのか。
「人口は千早の方が少し多く、財政、山林も千早が優位だった。富田林市、河南町との合併話も出たが、千早はあくまで村で残ると主張しました」 片桐はそう記憶している。そんな理由かどうかわからないが、千早赤阪村となった。当時の人口5,500人が、昭和六十一年には7,800人に増えている。
父の藤太郎は息子たちに勉学を奨励した。藤太郎自身、千早の家から富田林中学校に通ったので、山道通学のしんどさを厭というほど知っていた。息子らには富田林市内に一軒家を借りて、賄い婦をつけてそこから通わせた。長男から四男まで木材を切り売りしながら続けさせた。
「山、売ったらどうねん」
村人がやってきては藤太郎を促した。
「みんな売ってしまったら裸同然になるではないか」
そう言いながらも、藤太郎は金策に困り、ついには山まで手放すことになる。大方のところ村人か村の出身者に売却した。製材で儲けた人に売るケースが多い。ブローカーがいて、「山、買わんか」「山、売らんか」と、めぼしい家を回っていた。きちんとしたルートがあって、すぐに買い手を探してくるのである。
千早村を歩くと、元片桐の山だったという場によく出くわした。山を売るのは博打のようなもので、相場が上向くと儲かる。それでも先祖が育てた山林が他人の手に渡っているのを見るのは辛い。
息子たちには勉学と山の仕事、両方を求めた。毎日曜日には千早の家に戻ってくると、宿題や試験があろうがなかろうが、必ず山での仕事をさせた。勤倹力行型のスパルタ教育である。
齊造はいまも毎日、日記(大学ノートに)をつけている。自動車の中、会社、自宅とどこにいても思うままに綴る。二十五年間続けている。溜まった日記帳は齊造の背丈を超える。(死人に口なしというが、齊造の場合は日記ありである)という。片桐の前では言った、言わないという水掛け論は皆無である。こうした気違いじみた性癖がいまも続いている。「どんなささいなこと、例えば1日三度食べるご飯をよく噛むことでもよい。とにかく続けることだ」
齊造は自宅に若い行員を招いてはそう教える。初めから大上段にふりかぶって大きな目標を立てても長続きしない。長続きしないと役に立たない。“継続は力なり”というのが片桐の口癖であり、信条でもある。人は誰しも、(眠たい、怠けたい、飲みたい)と思うものだが、これを(いかん)と思いつつ、やるかやらないかで一つのことを継続できるかどうか決まる。
昭和六年、府立富田林中学校(現、富田林高校)に入学、兄の忠信は常に学業成績はトップだった。学力の差が開きすぎていたため、兄に対してコンプレックスも競争心、反抗心もなかった。忠信は大阪・浪高から東京帝大工学部へ進んだ。(国鉄=現JRに就職してほしい)という親の希望を聞かず、中堅企業の「大阪電気」(電気溶接機械等の製造会社)に入った。(自分の意思が十分通じるのに適正規模の企業がいい)というのが、入社の動機だった。
しかし、まもなく徴兵令状がきて徴兵検査を受ける。甲種合格の通知がきた。すぐに入隊、幹部候補生の試験を受けた。当時、入隊するまで一年以上の期間があくこともあったが、忠信の場合はすぐ入隊となった。大学卒業生はほとんど幹部候補生試験を受け、甲幹(甲種合格の幹部を略してこう呼んだ)なら約半年の見習い士官を経て少尉に任官された。三年~四年で大尉までなれたが、乙幹の方は大尉になるまで十年ほどかかった。甲幹は予備士官学校にも入れ、順当にいけば少佐まで昇れる。
一方、海軍兵学校か陸軍士官学校を出ると、海軍大学校か陸軍大学を受験でき、ここを卒業する者だけに大将、元帥の道が開かれている。昭和十七年(1942)の学徒動員令が出ると、学生は卒業と同時に全員、甲幹候補生となり戦地に赴いた。甲幹の数が不足してきたので、そうしたやり方を採ったのである。忠信は技術将校として満州に渡った。
次男の齊造は中学校三年の時、風邪をこじらせて聴力を悪化させ、ほとんど聞こえなくなった。勉強の方もそう好きでなかった上に、耳が聞こえなくなると授業についてさえいけない。十五歳の時である。両親も勉強は兄の忠信一人で十分だと半ばあきらめている。退学してミカンづくりを手伝うことになった。
真夏の太陽を浴び、汗だくになってミカンの手入れをする。段々畑を石灰の入ったバケツを持って上がったり下がったりする。この仕事が一番辛いのである。
ミカンの生木の期間が害虫に弱い。散布する石灰が風にあおられて汗の顔にかかる。こんなことで一生終わるのかと思うと無性に悲しくなる。
ふと、かがんだ腰を伸ばすと、富田林中の学生が数人、楽しそうに語らいながら帰宅する光景が目に入った。(俺はこんなつらい仕事を一生、ようしない。このままではダメになる。だが、ここを出ても、いまなら奉公人になるしかない。それはもっと辛いかもしれない)とミカンづくりを手伝いながら、世の中には誰にも知られないでこんな辛い仕事をしている人たちがいるのだということを知った。いまでも齊造はミカンを手にするとき、感傷的になる。
耳の方は一ケ月も経つと自然に治っていたが、すでに退学していたので、再入学にはもう一度試験を受け直さなければならない。耳が元に戻ったなら何とかなるだろう。挫折から立ち直ると、本気で勉学に励んだ。親から言われるのではなく、自らの意思でやるのだから成績の方もぐんぐん良くなる。翌年、四年生に編入される。
この時の経験は生き方を考える上で貴重だった。(後で苦労するより、いま苦労することだ)ということを学んだ。富田林中から彦根高等商業学校(現・滋賀大経済学部)に進み、昭和十五年、神戸商業大学(現・神戸大経済学部)に入学した。