少しヨハネ伝の紹介が長くなりましたが、しかしこの理解がないと「ギュツラフの聖書和訳に協力する中で生まれた音吉の思想的陶冶」の真相は見えて来ないと思い、こうした次第です。

 では、音吉はどこに共存の心(菩薩道)を見つけ、挫折を克服する契機としたのでしょうか。ヨハネ伝第9章の場面で、音吉は突然に「如来」(ニヨヲラ)という訳語を提出します。ここで見つけたのでした。詳しく検討することにしましょう。

 音吉は、目の不自由な人がそれを治してくれたイエスに対して発したことばを、「私はあなた様を如来と認め信じます」と表記したのでした。この当時、目の不自由な人は、親か本人の罪のゆえにこうなったと考えられ、一段低い扱いをされていましたが、イエスはそんなことはせず、ひたすらその人の幸せを願って不思議を起こしますが、音吉はこのイエスに、寺子屋で勉強した仏教の如来の姿を見て、こう言ったのだと思います。

 ヨハネ伝のイエスは、神の息子として神の教えを実践し、人間が極楽世界に生きられるように努力しますが、仏教の如来も人間の救済を願って努力する仏です。普通には日本では、こういう仏のことを如来ではなく菩薩と言いますが、如来は菩薩の完成体で、菩薩の願いを自由自在にこなせる仏が如来ですので、音吉は、イエスに最高の菩薩像を見て、如来と言ったのでしょう。

 この感動は大きかったと思います。聖書にも仏教の菩薩道はある。つまり菩薩道は人の道なのだ! この感動です。ヨハネ伝は隣人愛と言うだけですが、中味は菩薩道と同じですので。

 この感動は、理不尽な境遇に落胆してばかりしていてはいけない、人間だから、人間の正しい道を歩まねば人間でなくなってしまう、この地で頑張るのでなければ、音吉をしてこう考えさせる契機となったと思います。

 良参寺の坊さんは寺子たちに「人間にとって一番大切なものは菩薩道だ。みんなの幸せを願って行動するのでないといけないぞ。自分の欲得だけを考えて行動していたら、人間世界はけんかといじめで不幸になるばかりだ。協力しあって、みんなが幸せになれるいい世界をつくっていこうな」と説いていたことでしょう。そしてこの菩薩道は音吉の生活信条にもなっていたはずです。この感動が、この生活信条を蘇らせてくれたと思います。

 音吉はこの出会い以降、イエスに学び、聖書に学んで、人間としてしっかり生きていこうと思い直したと思います。思想陶冶の新たな土台を獲得したことになります。これこそが前々回に示した③④の評価を受ける根拠となる実践を可能にしたと思います。

 音吉は、ヨハネ伝第13章を、[神の子とは、神の位を受け取り、人間を極楽に導く神の知恵を実践する人のことである]と訳していますが、この自分の決意とダブらせているように見えます。

 

少し余白ができました。以上で書けなかった大事なことを箇条書きしておきます。

①音吉聖書は、仏教理解による仏教的聖書と言うべきか、もしくは日常用語による日常用語的聖書と言うべきか、含蓄の深い聖書になっています。

②「神の栄光」という語は出て来ません。神の位に生きる人の実践という意味です。

③「隣人愛」は「かわいがり合う」関係、「聖霊」は「聖」とされています。

 

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【訂正とお詫び】

「ちたろまん11月号 知多の哲学散歩道Vol.29」にて、本文に誤りがございました。

つきましては、下記の通り訂正をさせていただきます。

ご迷惑をおかけいたしましたことを深くお詫び申し上げます。

(誤)地物の研究者佐藤宏一氏 ⇒( 正)地元の研究者斉藤宏一氏

(誤)形場 ⇒( 正)刑場

 

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 少しヨハネ伝の紹介が長くなりましたが、しかしこの理解がないと「ギュツラフの聖書和訳に協力する中で生まれた音吉の思想的陶冶」の真相は見えて来ないと思い、こうした次第です。

 では、音吉はどこに共存の心(菩薩道)を見つけ、挫折を克服する契機としたのでしょうか。ヨハネ伝第9章の場面で、音吉は突然に「如来」(ニヨヲラ)という訳語を提出します。ここで見つけたのでした。詳しく検討することにしましょう。

 音吉は、目の不自由な人がそれを治してくれたイエスに対して発したことばを、「私はあなた様を如来と認め信じます」と表記したのでした。この当時、目の不自由な人は、親か本人の罪のゆえにこうなったと考えられ、一段低い扱いをされていましたが、イエスはそんなことはせず、ひたすらその人の幸せを願って不思議を起こしますが、音吉はこのイエスに、寺子屋で勉強した仏教の如来の姿を見て、こう言ったのだと思います。

 ヨハネ伝のイエスは、神の息子として神の教えを実践し、人間が極楽世界に生きられるように努力しますが、仏教の如来も人間の救済を願って努力する仏です。普通には日本では、こういう仏のことを如来ではなく菩薩と言いますが、如来は菩薩の完成体で、菩薩の願いを自由自在にこなせる仏が如来ですので、音吉は、イエスに最高の菩薩像を見て、如来と言ったのでしょう。

 この感動は大きかったと思います。聖書にも仏教の菩薩道はある。つまり菩薩道は人の道なのだ! この感動です。ヨハネ伝は隣人愛と言うだけですが、中味は菩薩道と同じですので。

 この感動は、理不尽な境遇に落胆してばかりしていてはいけない、人間だから、人間の正しい道を歩まねば人間でなくなってしまう、この地で頑張るのでなければ、音吉をしてこう考えさせる契機となったと思います。

 良参寺の坊さんは寺子たちに「人間にとって一番大切なものは菩薩道だ。みんなの幸せを願って行動するのでないといけないぞ。自分の欲得だけを考えて行動していたら、人間世界はけんかといじめで不幸になるばかりだ。協力しあって、みんなが幸せになれるいい世界をつくっていこうな」と説いていたことでしょう。そしてこの菩薩道は音吉の生活信条にもなっていたはずです。この感動が、この生活信条を蘇らせてくれたと思います。

 音吉はこの出会い以降、イエスに学び、聖書に学んで、人間としてしっかり生きていこうと思い直したと思います。思想陶冶の新たな土台を獲得したことになります。これこそが前々回に示した③④の評価を受ける根拠となる実践を可能にしたと思います。

 音吉は、ヨハネ伝第13章を、[神の子とは、神の位を受け取り、人間を極楽に導く神の知恵を実践する人のことである]と訳していますが、この自分の決意とダブらせているように見えます。

 

少し余白ができました。以上で書けなかった大事なことを箇条書きしておきます。

①音吉聖書は、仏教理解による仏教的聖書と言うべきか、もしくは日常用語による日常用語的聖書と言うべきか、含蓄の深い聖書になっています。

②「神の栄光」という語は出て来ません。神の位に生きる人の実践という意味です。

③「隣人愛」は「かわいがり合う」関係、「聖霊」は「聖」とされています。

 

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【訂正とお詫び】

「ちたろまん11月号 知多の哲学散歩道Vol.29」にて、本文に誤りがございました。

つきましては、下記の通り訂正をさせていただきます。

ご迷惑をおかけいたしましたことを深くお詫び申し上げます。

(誤)地物の研究者佐藤宏一氏 ⇒( 正)地元の研究者斉藤宏一氏

(誤)形場 ⇒( 正)刑場