◎中島敦(その3)

  33歳の若さで亡くなった小説家・中島敦は、和歌を7 0 0 首以上作りました。28歳の時、「何となく和歌が作りたく」なり、昭和12年11月3日から約1カ月、連日のように作り続けました。最初の日、「作り出すと、20首ほど、たちどころに」出来上がりました。翌日からも20~30首ほどずつ作りました。

 それらは喘息に苦しめられて眠れない夜に作られました。アダリンなどの鎮静剤を飲んでも眠れない夜、気分転換のために作られたものです。

「わが歌は/アダリン効かず/いねられぬ/ 小さ夜更床に/詠みにける歌」

「わが歌は/ 呼吸迫りきて/起きいでし/暁の光に/書きにける歌」

「わが歌は/わが胸の辺への/喘鳴を/われと聞きつつ/詠みにける歌」

 このように眠られぬ夜の苦しみを和らげるために作られた作品を少し紹介します。

「ある時は/ヘーゲルが如/万有を/わが体系に/ 統すべなむとせし」

「ある時は/ゴッホならねど/人の耳を/食いてちぎりて/狂わむとせし」

「ある時は/フロイドに行き/もろ人の/怪しき心理/探らんとする」

「ある時は/ゲーテ仰ぎて/吐息しぬ/亭々として/余りに高し」

「ある時は/バッハの如く/安らけく/ただ芸術に/向かわむ心」

「ある時は/年老い耳も/聾/ベートーベンを/聞きて泣きけり」

「ゴッホの眼/モーツァルトの耳/プラトンの/心兼かてむ/人はあらぬか」

「人間の/夢も愛情も/亡/この地球の運命/かなしと思う」

「石となれ/石は怖れも/苦しみも/憤りも無けぬ/はや石となれ」

「わが性質を/ 吾子に見出て/心暗し/心暗けど/愛しかりけれ」

「わが生命/短しと思い/街行けば/ものことごとに/美しきかな」

「ほのぼのと/人恋そめし/心もちて/初薄雪の/朝を行かばや」

◎『光と風と夢』

 中島敦の長編小説『光と風と夢』は、イギリスの有名な小説家・詩人・随筆家のスチーブンソン(1850~94)のサモアにおける晩年の生活を描いたものです。

 スチーブンソンは若くして肺を病み、転地のため旅を重ねました。1890年以後は南太平洋のサモアに定住し、そこで亡くなりました。代表作は、誰でも知っている『宝島』や『新アラビアン・ナイト』『ジキル博士とハイド氏』などです。

 中島敦は、昭和15年末から翌年の春にかけてこの長編小説に取り組みました。最初の題名は『ツシタラの死―五河荘日記抄』でした。『光と風と夢』と改題して『文学界』昭和17年5月号に掲載されました。掲載されると注目され、芥川賞の候補作となりましたが、惜しくも受賞しませんでした。その年は「該当作ナシ」でした。

 書き出しは次のようです。

 「1884年5月のある夜遅く、35歳のロバァト・ルゥイス・スチィヴンスンは、南仏イエールの客舎で、突然、ひどい喀血に襲われた。駆けつけた妻に向かって、彼は紙切れに鉛筆でこう書いて見せた。『恐れることはない。これが死なら、楽なものだ』。血が口中を塞いで、口がきけなかったのである。

 爾来、彼は健康地を求めて転々としなければならなくなった。南英の保養地ボーンマスでの3年後、コロラドを試みては、という医者の言葉にしたがって、大西洋を渡った。米国も思わしくなく、今度は南洋行が試みられた。70トンの縦帆船(スクーナー)は、マルケサス、パウモツ、タヒチ、ハワイ、ギルバァトを経て1年半に亙る巡航の後、1889年の終わりにサモアのアピア港に着いた。海上の生活は快適で、島々の気候は申し分なかった。自ら『咳と骨に過ぎない』というスチィヴンスンの身体も、先ず小康を保つことが出来た。彼は此処で住んでみる気になり、アピア市外に4百エーカーばかりの土地を買い入れた。勿論、まだ此処で一生を終えようなどと考えていた訳ではない。現に、翌年の2月、買い入れた土地の開墾や建築をしばらく人手に委ねて、自分はシドニーまで出掛けて行った。そこで便船を待ち合わせて、一旦英国に帰るつもりだったのである」

 ところが、シドニーで喀血し、英国へ行くことを断念せざるを得なくなった。11月、健康を取り戻した彼はサモアに帰った。仮小屋が出来ていた。本建築は白人の大工でなければ出来ないので、彼と妻のファニィは仮小屋で寝起きし、現地人を監督して開墾に当たった。そこはかなり高い台地で、ヴァイリマ(5つの川の意)と呼ばれていた。広大な土地に、自分の力で一つ一つ生活の礎石を築いて行くのは、純粋な喜びであった。

 彼は、ロビンソン・クルーソーの生活を実験しているのだった。

 「太陽と大地と生物を愛し、富を軽蔑し、乞う者には与え、白人文明を大いなる偏見と見なし、教育なき、力あふるる人々と共に闊歩し、明るい風と光との中で、労働に汗ばんだ皮膚の下に血液の循環を快く感じ、人に笑われまいとの懸念を忘れて、真に思う事のみを言い、真に欲する事のみを行う」。これが彼の新しい生活であった。

 1890年12月× 日。―5時起床。6時少し前に朝食。オレンジ1こ、卵2こ。食べながらベランダの下を見ると、直ぐ下の畑のトウモロコシが揺れている。降りて行って畑に入ると、子豚が2匹、慌てて逃げ出す。6時から9時まで仕事。「南洋だより」の1章を書き上げる。その後、草刈りに出る。10時半、昼食。冷肉、アボカド、ビスケット、赤葡萄酒。食後、詩をまとめようとしたが、うまく行かない。1時から、海岸への道を拓く作業。5時、夕食。ビーフシチュー、焼バナナ、パイナップル入り赤葡萄酒。

 1893年11月××日。―誕生日祝いが、下痢のため1週間遅れて今日行われた。15頭の子豚の蒸し焼き。100ポンドの牛肉。同量の豚肉。果物。レモネード。コーヒー。赤葡萄酒。1階も2階も、花、花、花。3時頃から150人ほどの客が来て、7時に帰った。津波の襲来のようだった。大酋長セウマスが自分の称号の一つを贈ってくれた。

 1894年12月3日の朝、スチィヴンスンは3時間ほど小説に取り組んだ。午後、手紙を数通書き、夕方近く、台所に出て来て、晩餐の支度をしている妻の側で話をしながら、サラダを掻き混ぜていた。それから、葡萄酒を取り出しに地階へ降りて行った。葡萄酒の瓶を持って戻って来た時、突然、彼は瓶を手から落とし、「頭が!頭が!」と言いながらその場に昏倒した。3人の医者が呼ばれた。「肺臓麻痺を伴う脳溢血」だった。

 翌日。風の死んだ午後2時、棺が出た。逞しいサモアの青年達のリレーによって、棺は山頂の空き地に運ばれた。4時、60人のサモア人と19人のヨーロッパ人の前で、スチィヴンスンの遺体は埋められた。

 老酋長の一人が低く呟いた。「トファ(眠れ)!ツシタラ(語り手)」

 

■杉本武之プロフィール

1939年 碧南市に生まれる。

京都大学文学部卒業。

翻訳業を経て、小学校教師になるために愛知教育大学に入学。

25年間、西尾市の小中学校に勤務。

定年退職後、名古屋大学教育学部の大学院で学ぶ。

〈趣味〉読書と競馬

 

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◎中島敦(その3)

 

 33歳の若さで亡くなった小説家・中島敦は、和歌を7 0 0 首以上作りました。28歳の時、「何となく和歌が作りたく」なり、昭和12年11月3日から約1カ月、連日のように作り続けました。最初の日、「作り出すと、20首ほど、たちどころに」出来上がりました。翌日からも20~30首ほどずつ作りました。

 それらは喘息に苦しめられて眠れない夜に作られました。アダリンなどの鎮静剤を飲んでも眠れない夜、気分転換のために作られたものです。

「わが歌は/アダリン効かず/いねられぬ/ 小さ夜更床に/詠みにける歌」

「わが歌は/ 呼吸迫りきて/起きいでし/暁の光に/書きにける歌」

「わが歌は/わが胸の辺への/喘鳴を/われと聞きつつ/詠みにける歌」

 このように眠られぬ夜の苦しみを和らげるために作られた作品を少し紹介します。

「ある時は/ヘーゲルが如/万有を/わが体系に/ 統すべなむとせし」

「ある時は/ゴッホならねど/人の耳を/食いてちぎりて/狂わむとせし」

「ある時は/フロイドに行き/もろ人の/怪しき心理/探らんとする」

「ある時は/ゲーテ仰ぎて/吐息しぬ/亭々として/余りに高し」

「ある時は/バッハの如く/安らけく/ただ芸術に/向かわむ心」

「ある時は/年老い耳も/聾/ベートーベンを/聞きて泣きけり」

「ゴッホの眼/モーツァルトの耳/プラトンの/心兼かてむ/人はあらぬか」

「人間の/夢も愛情も/亡/この地球の運命/かなしと思う」

「石となれ/石は怖れも/苦しみも/憤りも無けぬ/はや石となれ」

「わが性質を/ 吾子に見出て/心暗し/心暗けど/愛しかりけれ」

「わが生命/短しと思い/街行けば/ものことごとに/美しきかな」

「ほのぼのと/人恋そめし/心もちて/初薄雪の/朝を行かばや」

 

 

◎『光と風と夢』

 

 中島敦の長編小説『光と風と夢』は、イギリスの有名な小説家・詩人・随筆家のスチーブンソン(1850~94)のサモアにおける晩年の生活を描いたものです。

 スチーブンソンは若くして肺を病み、転地のため旅を重ねました。1890年以後は南太平洋のサモアに定住し、そこで亡くなりました。代表作は、誰でも知っている『宝島』や『新アラビアン・ナイト』『ジキル博士とハイド氏』などです。

 中島敦は、昭和15年末から翌年の春にかけてこの長編小説に取り組みました。最初の題名は『ツシタラの死―五河荘日記抄』でした。『光と風と夢』と改題して『文学界』昭和17年5月号に掲載されました。掲載されると注目され、芥川賞の候補作となりましたが、惜しくも受賞しませんでした。その年は「該当作ナシ」でした。

 書き出しは次のようです。

 「1884年5月のある夜遅く、35歳のロバァト・ルゥイス・スチィヴンスンは、南仏イエールの客舎で、突然、ひどい喀血に襲われた。駆けつけた妻に向かって、彼は紙切れに鉛筆でこう書いて見せた。『恐れることはない。これが死なら、楽なものだ』。血が口中を塞いで、口がきけなかったのである。

 爾来、彼は健康地を求めて転々としなければならなくなった。南英の保養地ボーンマスでの3年後、コロラドを試みては、という医者の言葉にしたがって、大西洋を渡った。米国も思わしくなく、今度は南洋行が試みられた。70トンの縦帆船(スクーナー)は、マルケサス、パウモツ、タヒチ、ハワイ、ギルバァトを経て1年半に亙る巡航の後、1889年の終わりにサモアのアピア港に着いた。海上の生活は快適で、島々の気候は申し分なかった。自ら『咳と骨に過ぎない』というスチィヴンスンの身体も、先ず小康を保つことが出来た。彼は此処で住んでみる気になり、アピア市外に4百エーカーばかりの土地を買い入れた。勿論、まだ此処で一生を終えようなどと考えていた訳ではない。現に、翌年の2月、買い入れた土地の開墾や建築をしばらく人手に委ねて、自分はシドニーまで出掛けて行った。そこで便船を待ち合わせて、一旦英国に帰るつもりだったのである」

 ところが、シドニーで喀血し、英国へ行くことを断念せざるを得なくなった。11月、健康を取り戻した彼はサモアに帰った。仮小屋が出来ていた。本建築は白人の大工でなければ出来ないので、彼と妻のファニィは仮小屋で寝起きし、現地人を監督して開墾に当たった。そこはかなり高い台地で、ヴァイリマ(5つの川の意)と呼ばれていた。広大な土地に、自分の力で一つ一つ生活の礎石を築いて行くのは、純粋な喜びであった。

 彼は、ロビンソン・クルーソーの生活を実験しているのだった。

 「太陽と大地と生物を愛し、富を軽蔑し、乞う者には与え、白人文明を大いなる偏見と見なし、教育なき、力あふるる人々と共に闊歩し、明るい風と光との中で、労働に汗ばんだ皮膚の下に血液の循環を快く感じ、人に笑われまいとの懸念を忘れて、真に思う事のみを言い、真に欲する事のみを行う」。これが彼の新しい生活であった。

 1890年12月× 日。―5時起床。6時少し前に朝食。オレンジ1こ、卵2こ。食べながらベランダの下を見ると、直ぐ下の畑のトウモロコシが揺れている。降りて行って畑に入ると、子豚が2匹、慌てて逃げ出す。6時から9時まで仕事。「南洋だより」の1章を書き上げる。その後、草刈りに出る。10時半、昼食。冷肉、アボカド、ビスケット、赤葡萄酒。食後、詩をまとめようとしたが、うまく行かない。1時から、海岸への道を拓く作業。5時、夕食。ビーフシチュー、焼バナナ、パイナップル入り赤葡萄酒。

 1893年11月××日。―誕生日祝いが、下痢のため1週間遅れて今日行われた。15頭の子豚の蒸し焼き。100ポンドの牛肉。同量の豚肉。果物。レモネード。コーヒー。赤葡萄酒。1階も2階も、花、花、花。3時頃から150人ほどの客が来て、7時に帰った。津波の襲来のようだった。大酋長セウマスが自分の称号の一つを贈ってくれた。

 1894年12月3日の朝、スチィヴンスンは3時間ほど小説に取り組んだ。午後、手紙を数通書き、夕方近く、台所に出て来て、晩餐の支度をしている妻の側で話をしながら、サラダを掻き混ぜていた。それから、葡萄酒を取り出しに地階へ降りて行った。葡萄酒の瓶を持って戻って来た時、突然、彼は瓶を手から落とし、「頭が!頭が!」と言いながらその場に昏倒した。3人の医者が呼ばれた。「肺臓麻痺を伴う脳溢血」だった。

 翌日。風の死んだ午後2時、棺が出た。逞しいサモアの青年達のリレーによって、棺は山頂の空き地に運ばれた。4時、60人のサモア人と19人のヨーロッパ人の前で、スチィヴンスンの遺体は埋められた。

 老酋長の一人が低く呟いた。「トファ(眠れ)!ツシタラ(語り手)」