◎中島敦(その1)

 今年の1月上旬、私は本棚から中島敦の全集を取り出して読み始めました。漫然と本棚を見ていて、急に読んでみたくなったのです。それは、かなり分厚い、ちくま文庫の『中島敦全集』全3巻で、30年ほど前に買ったものです。

 私は中島敦の作品を本格的に読んだことがありませんでした。高校時代、国語の教科書で『山月記』を読みました。難しい漢字がたくさん出てくる、人が虎になる不思議な小説だなあと思いました。大学時代に『名人伝』と『弟子』と『李陵』を読みました。多少気になる作家でしたが、強いて他の作品を読んでみたいとは思いませんでした。

 全集を読み始めて2カ月経ちました。私はこの偶然の出会いをとても感謝しています。82歳に近づき、すっかり老人になった私は、33歳の若さで亡くなった作家の作品を読み、さらにその生涯を知り、本当に良かったなあという喜びで一杯です。

 この作家の生涯を2回に分けて詳しく紹介します。〈中島敦の略年譜〉(誕生から一高入学まで)

 明治42年(1909)5月5日、東京市四谷区箪笥町(母の実家。現・東京都新宿区三栄町)で、父・田た人、母・チヨの長男として生まれた。

 中島家は代々、日本橋新乗物町に一家を構えた「御乗物師」(駕籠などを大名などに納めていた)であった。祖父・慶太郎が漢学者の亀田鵬斎の門下に入って儒者になり、撫山と号した。彼は招かれて埼玉県久喜町に漢学塾「幸魂教舎」を開いた。

 父の田人は明治7年5月5日、撫山の7番目の子として埼玉県久喜町で生まれた。父や兄たちから漢学の教育を受け、文部省教員検定試験に合格した。結婚した時には、千葉県の銚子中学校に勤務していた。母のチヨは明治18年11月23日に東京で生まれた。東京府立女子師範学校を卒業して、小学校教員をしていた。

 ※ 中島敦が生まれた1909年は、私にとって極めて大切な年です。私の母が生まれた年なのです。この年、多くの文学者が生まれています。『復興期の精神』『近代の超克』を書いた花田清輝(3月)、『野火』『レイテ戦記』を書いた大岡昇平(3月)、『斜陽』『人間失格』を書いた太宰治(6月)、女性初の芥川賞作家で『時雨の記』を書いた中里恒子(12月)、『点と線』『砂の器』を書いた松本清張(12月)などです。

 明治43年(1910)2月、両親の離婚により、父と別れ、しばらく母の許で養育された。4月、父・田人は奈良県郡山中学校に転勤。

 明治44年6月、祖父の撫山が死去。享年83 。8月、父の郷里・埼玉県久喜町の祖母や伯母たちの許に引き取られた。

 大正4年(1915)3月、奈良県郡山町の父の家に引き取られた。父は前年に紺家カツと再婚していた。

 大正5年4月、奈良県郡山男子尋常小学校に入学。成績優秀であった。

 大正7年5月、父は静岡県立浜松中学校に転勤。7月、浜松西尋常小学校に転入学。

 大正9年9月、父は朝鮮総督府龍山中学校に転勤。京城市(現・ソウル)龍山公立尋常小学校に転入学。

 大正11年3月、小学校卒業後、朝鮮京城府立公立京城中学校に入学。

 大正12年3月、異母妹の澄子が生まれた。(澄子は後に折原氏と結婚した。推理小説作家の折原一はその子である)。澄子誕生の5日後に継母のカツが死去した。

 大正13年4月、父は飯尾コウと3度目の結婚をした。

 大正14年10月、父は関東庁立大連第二中学校に転勤。

 大正15・昭和元年(1926)1月、三つ子の異母弟妹の敬、敏、睦子が生まれた。4月、京城中学校4年修了で東京の第一高等学校文科甲類に入学。寄宿舎和寮五番に入った。8月、異母弟の敬が死去。10月、異母弟の敏が死去。

◎『マリヤン』

 この愛すべき短綱小説は、中島敦が南洋庁に勤務していた時にパラオで出会った島の女の話です。彼が亡くなる昭和17年8月に書かれ、11月に出版された『南島譚』の中に収録されました。『南島譚』の刊行3週間後の12月4日、彼は33歳で逝去しました。

 書き出しは、彼の作品には珍しく、極めてのんびりしたものです。

 「マリヤンというのは、私のよく知っている一人の島民女の名前である。

 マリヤンとはマリヤのことだ。聖母マリヤのマリヤである。パラオ地方の島民は、すべて発音が鼻にかかるので、マリヤンと聞こえるのだ。

 マリヤンの年が幾つだか、私は知らない。別に遠慮した訳ではなかったが、つい、聞いたことがないのである。とにかく三十に間があることだけは確かだ」

 私が初めてマリヤンを見たのは土俗学者のH氏の部屋に於いてであった。H氏と話していると、窓の外で口笛の音が聞こえ、若い女の声が「入ってもいい?」と聞いた。扉を開けて入って来たのは、日本人ではなくて、堂々たる体つきの島民女だった。H氏はパラオ地方の古譚詩を採集して、それを日本語に訳していた。マリヤンは、週に3日、日を決めてその手伝いに来ていた。パラオには文字が無い。H氏は、島々の古老から話を聞いて、それをアルファベットで筆記していた。マリヤンは、筆記されたパラオ語の間違いを直したり、H氏の質問に答えていたのである。マリヤンは、何年間か東京の女学校で勉強したこともあり、日本語も英語もよく出来た。

 私は、偏屈な性格から、パラオの役所の同僚とは親しくなれず、友人としてはH氏しかいなかった。彼の部屋に頻繁に出入りしているうちに、マリヤンとも親しくなった。

 ある時、私はマリヤンの家に立ち寄った。板の間のテーブルの上に本があった。取り上げて見ると、厨川白村の『英詩選釈』とピエール・ロティの『ロティの結婚』(岩波文庫)であった。部屋の隅にある蜜柑箱にも色々な書物や雑誌が入っていた。書物とは縁遠いコロールの町で、マリヤンは、日本人をも含めて第一の読書家であった。

 マリヤンには5歳になる女の子がいた。夫は無かった。H氏によると、マリヤンが追い出したのだそうだ。頭脳の程度が違い過ぎていたらしい。マリヤンが開化し過ぎているために、大抵の島民の男では相手にならず、マリヤンはもう結婚できないのでないかとH氏は言っていた。

 大晦日の晩、少し酔っていたH氏が大きな声でマリヤンに言った。「マリヤンが今度お婿さんを貰うんだったら、日本の人でなきゃ駄目だなあ。そうだろう、マリヤン?」

 しばらくして、マリヤンが言った。「でもねえ、日本の人はねえ、やっぱりねえ」

 私とH氏が一時帰国することになった。マリヤンはパラオ料理の御馳走をしてくれた。彼女がしみじみと言った。「日本の人とは友達になっても、内地へ帰ったら二度と戻って来ないんだものねえ」

 

■杉本武之プロフィール

1939年 碧南市に生まれる。

京都大学文学部卒業。

翻訳業を経て、小学校教師になるために愛知教育大学に入学。

25年間、西尾市の小中学校に勤務。

定年退職後、名古屋大学教育学部の大学院で学ぶ。

〈趣味〉読書と競馬

 

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◎中島敦(その1)

 

 今年の1月上旬、私は本棚から中島敦の全集を取り出して読み始めました。漫然と本棚を見ていて、急に読んでみたくなったのです。それは、かなり分厚い、ちくま文庫の『中島敦全集』全3巻で、30年ほど前に買ったものです。

 私は中島敦の作品を本格的に読んだことがありませんでした。高校時代、国語の教科書で『山月記』を読みました。難しい漢字がたくさん出てくる、人が虎になる不思議な小説だなあと思いました。大学時代に『名人伝』と『弟子』と『李陵』を読みました。多少気になる作家でしたが、強いて他の作品を読んでみたいとは思いませんでした。

 全集を読み始めて2カ月経ちました。私はこの偶然の出会いをとても感謝しています。82歳に近づき、すっかり老人になった私は、33歳の若さで亡くなった作家の作品を読み、さらにその生涯を知り、本当に良かったなあという喜びで一杯です。

 この作家の生涯を2回に分けて詳しく紹介します。〈中島敦の略年譜〉(誕生から一高入学まで)

 明治42年(1909)5月5日、東京市四谷区箪笥町(母の実家。現・東京都新宿区三栄町)で、父・田た人、母・チヨの長男として生まれた。

 中島家は代々、日本橋新乗物町に一家を構えた「御乗物師」(駕籠などを大名などに納めていた)であった。祖父・慶太郎が漢学者の亀田鵬斎の門下に入って儒者になり、撫山と号した。彼は招かれて埼玉県久喜町に漢学塾「幸魂教舎」を開いた。

 父の田人は明治7年5月5日、撫山の7番目の子として埼玉県久喜町で生まれた。父や兄たちから漢学の教育を受け、文部省教員検定試験に合格した。結婚した時には、千葉県の銚子中学校に勤務していた。母のチヨは明治18年11月23日に東京で生まれた。東京府立女子師範学校を卒業して、小学校教員をしていた。

 ※ 中島敦が生まれた1909年は、私にとって極めて大切な年です。私の母が生まれた年なのです。この年、多くの文学者が生まれています。『復興期の精神』『近代の超克』を書いた花田清輝(3月)、『野火』『レイテ戦記』を書いた大岡昇平(3月)、『斜陽』『人間失格』を書いた太宰治(6月)、女性初の芥川賞作家で『時雨の記』を書いた中里恒子(12月)、『点と線』『砂の器』を書いた松本清張(12月)などです。

 明治43年(1910)2月、両親の離婚により、父と別れ、しばらく母の許で養育された。4月、父・田人は奈良県郡山中学校に転勤。

 明治44年6月、祖父の撫山が死去。享年83 。8月、父の郷里・埼玉県久喜町の祖母や伯母たちの許に引き取られた。

 大正4年(1915)3月、奈良県郡山町の父の家に引き取られた。父は前年に紺家カツと再婚していた。

 大正5年4月、奈良県郡山男子尋常小学校に入学。成績優秀であった。

 大正7年5月、父は静岡県立浜松中学校に転勤。7月、浜松西尋常小学校に転入学。

 大正9年9月、父は朝鮮総督府龍山中学校に転勤。京城市(現・ソウル)龍山公立尋常小学校に転入学。

 大正11年3月、小学校卒業後、朝鮮京城府立公立京城中学校に入学。

 大正12年3月、異母妹の澄子が生まれた。(澄子は後に折原氏と結婚した。推理小説作家の折原一はその子である)。澄子誕生の5日後に継母のカツが死去した。

 大正13年4月、父は飯尾コウと3度目の結婚をした。

 大正14年10月、父は関東庁立大連第二中学校に転勤。

 大正15・昭和元年(1926)1月、三つ子の異母弟妹の敬、敏、睦子が生まれた。4月、京城中学校4年修了で東京の第一高等学校文科甲類に入学。寄宿舎和寮五番に入った。8月、異母弟の敬が死去。10月、異母弟の敏が死去。

 

 

◎『マリヤン』

 この愛すべき短綱小説は、中島敦が南洋庁に勤務していた時にパラオで出会った島の女の話です。彼が亡くなる昭和17年8月に書かれ、11月に出版された『南島譚』の中に収録されました。『南島譚』の刊行3週間後の12月4日、彼は33歳で逝去しました。

 書き出しは、彼の作品には珍しく、極めてのんびりしたものです。

 「マリヤンというのは、私のよく知っている一人の島民女の名前である。

 マリヤンとはマリヤのことだ。聖母マリヤのマリヤである。パラオ地方の島民は、すべて発音が鼻にかかるので、マリヤンと聞こえるのだ。

 マリヤンの年が幾つだか、私は知らない。別に遠慮した訳ではなかったが、つい、聞いたことがないのである。とにかく三十に間があることだけは確かだ」

 私が初めてマリヤンを見たのは土俗学者のH氏の部屋に於いてであった。H氏と話していると、窓の外で口笛の音が聞こえ、若い女の声が「入ってもいい?」と聞いた。扉を開けて入って来たのは、日本人ではなくて、堂々たる体つきの島民女だった。H氏はパラオ地方の古譚詩を採集して、それを日本語に訳していた。マリヤンは、週に3日、日を決めてその手伝いに来ていた。パラオには文字が無い。H氏は、島々の古老から話を聞いて、それをアルファベットで筆記していた。マリヤンは、筆記されたパラオ語の間違いを直したり、H氏の質問に答えていたのである。マリヤンは、何年間か東京の女学校で勉強したこともあり、日本語も英語もよく出来た。

 私は、偏屈な性格から、パラオの役所の同僚とは親しくなれず、友人としてはH氏しかいなかった。彼の部屋に頻繁に出入りしているうちに、マリヤンとも親しくなった。

 ある時、私はマリヤンの家に立ち寄った。板の間のテーブルの上に本があった。取り上げて見ると、厨川白村の『英詩選釈』とピエール・ロティの『ロティの結婚』(岩波文庫)であった。部屋の隅にある蜜柑箱にも色々な書物や雑誌が入っていた。書物とは縁遠いコロールの町で、マリヤンは、日本人をも含めて第一の読書家であった。

 マリヤンには5歳になる女の子がいた。夫は無かった。H氏によると、マリヤンが追い出したのだそうだ。頭脳の程度が違い過ぎていたらしい。マリヤンが開化し過ぎているために、大抵の島民の男では相手にならず、マリヤンはもう結婚できないのでないかとH氏は言っていた。

 大晦日の晩、少し酔っていたH氏が大きな声でマリヤンに言った。「マリヤンが今度お婿さんを貰うんだったら、日本の人でなきゃ駄目だなあ。そうだろう、マリヤン?」

 しばらくして、マリヤンが言った。「でもねえ、日本の人はねえ、やっぱりねえ」

 私とH氏が一時帰国することになった。マリヤンはパラオ料理の御馳走をしてくれた。彼女がしみじみと言った。「日本の人とは友達になっても、内地へ帰ったら二度と戻って来ないんだものねえ」