姪の就職2
原三郎は毎日、会社に出向いていった。社内の特別応接室を顧問室として使っている。社長の伝次郎を除く役員、部長、支店長を次々と顧問室に呼びつけてはなだめたりすかしたりしながら話を聞く。労働組合の役員ともほぼ毎日、会っている。不思議なことに行内にある種の緊張感のようなものが漂い始めていた。ストライキもストップして平常の勤務体制に戻っている。ただ、業績の方は一向に回復の兆しはない。
社長の植田伝次郎一人が、焦りのようなものを感じ取っていた。このまま放置しておくと原に銀行を乗っ取られる。伝次郎は自分の独断で原を連れてきただけに、いまさら出て行ってくれとは言えない。ほかの役員に相談もできない。実際は榊原が融資部長から聞き出した得意先の社長から原会計事務所を伝次郎にそれとなく紹介するように仕組んだものだった。
伝次郎の頭に身売りの考えがチラッと浮かんだ。親に強制的に引き継がされたとはいえ、自分の代で潰したくないと思うのだった。それで日に日に身売りの思いが強まってくる。幸い、全国相互銀行協会傘下で近畿地方の相互銀行十三行の社長とは親しく付き合っている。月に一回か二ケ月に一回程度のペースで親睦の酒席の宴があった。近畿以外の相互銀行の社長とはほとんど付き合いもないし、顔も知らない。また都銀、地銀など大手金融機関との付き合いもない。身売りするなら近畿の相互銀行しかないと決め込んでいた。
当時、近畿地方には神戸の兵庫相互銀行、大阪の近畿相互銀行などが有力相手であった。両行の社長もよく知っていたので、この両行のどちらかに頼もうかと考えていた。
(いやー、規模はそう大きくなくても急激な伸びを見せている浪華相銀の方がいいかも知れない。弱っている銀行を助けるには、ほとばしるエネルギーがあるところがいい)と、たえず呻吟している。
一週間ほど考え、迷った末に決心を固めていた。そこで伝次郎は大阪の浪華相銀の藤田万吉を訪ねることにした。
その日、藤田は植田伝次郎が玄関に現れたので、明るい声で座敷に向かい入れた。
「どうか、よろしくお願いします」
伝次郎は藤田万吉に深々と頭を下げた。
万吉は手伝いが運んできたお茶をすすめた。
「お忙しいところすみません。お電話でお話ししましたように、困ったことになりました」
「確かに、面倒なことですな。しかし、近畿内の相銀で一行でもフラフラしたら、相銀全体のイメージも悪くなりますなぁ」
「藤田社長はんなら、きっとうまくやってくれはると信じています」
「植田社長さん。結局、人は自分の一番嫌なことを避けようとしますが、それを他人にやってもらうと一番高くつくということですなぁ。一番しんどいことを率先してやらんと、下もついて来ないということです」
「その通りだす。そのことがようわかりました」
「当行も決して楽ではないが、植田社長を見捨てることもできまへん。しんどいが、引き受けましょう。正式な手続きは後日、当行からご連絡しますので、ご安心下さい」
藤田万吉は剛毅な男である。ワンマン社長だから誰に相談することもなく、安請け合いをした。藤田家は江戸時代から長崎―大阪間の廻船問屋をしていた。家風はだいたいが豪放磊落である。植田社長もそんな社長が好きだし、頼りになると考え相談を決めていた。きっちり計算すると、山城相銀の買収は危険で損な買い物であろう。しかし、計算で割り切れないものがある。時にはそれが情けであったり、思いやりであったりする。また心意気もある。情けに溺れると命取りになる可能性もある。逆に目先の計算にとらわれて、あとで後悔することだってある。要は自分の決断に納得できるかどうかであろう。少なくも藤田はそう思っている。
藤田家の廻船問屋は明治に入っても盛況で一時は、いまの大阪商船の前身の船会社と肩を並べるほどまでに成長した。しかし、日清戦争の反動で拡張策が裏目に出て倒産は回避したものの、大幅に合理化、縮小を強いられた。当時の海運会社は大変深刻な状況にあった。瀬戸内の船主は住友財閥の実力者、広瀬宰平のもとに集まり、大同団結して明治十七年、大阪商船として誕生。万吉が藤田家に養子に迎えられた大正末期には家業の廻船問屋を細々ながら続けていた。
万吉は大阪・泉州の狭山町にあった小池家の長男である。小池家は代々、代官の職にあった名門である。豊臣秀吉によって小田原城を攻め落とされたために、小田原から狭山に移り住んだ。経済に明るい武士ということで狭山でも代官に起用される。代官というのは、百姓から年貢を直接、徴収したり諸役を命じたりする役目である。明治の廃藩置県で藩札が不渡りになり、小池家の万吉の先代がその責任をとって滅んだ。姉のしずが片桐家の斎三の父、藤田太郎に嫁ぎ万吉が藤田家の養子となったことで、小池家は消えた。藤田万吉は苦学して山口高商を卒業、しばらく家業の廻船問屋を手伝った。このままでは将来の展望がない。事業欲旺盛な藤田は新規事業を画策した。「これからは金融の時代だ」と読んだ藤田万吉は、和歌山市内に「紀伊無尽」をつくり金融業に乗り出した。戦争中の統制令で、県下の無尽会社が一社に統合された。吸収合併された形だったが、経営手腕を発揮、頭角を現しついには社長の座についていた。しかし、応召で一時、社長を辞したが、昭和二十年に復員、二十三年に社長に復帰。営業区域が近畿一円に広がった二十六年一月本店を和歌山から大阪に移転。全国で十指に入る相互銀行にのし上げていた。
役員会の席上、議長役の藤田は唐突に提案したのである。
「山城相銀の株式の5割強を譲り受けた。これから先、当行の責任において山城相銀を経営することにした」
役員会の案件というより事後報告である。
「森山淳常務を将来の社長含みで山城相銀に派遣します」
一斉に拍手が起こり、すんなり了承された。森山常務は藤田万吉と無尽時代から苦楽を共にした仲で、いわば万吉の片腕的な存在であった。この頃はまだ、山城相銀に対して悲観的な見方はなかった。今回の人事は森山常務に対するいわば論功行賞としての色彩があった。
一方、京都の山城相銀である。植田伝次郎は役員会で大株主に浪華相銀がなったことを報告するとともに、社長を辞任、相談役に退いた。弟で専務の竜太郎も辞任。一瞬、どよめきが起こったが、すぐに静まり返り了解のうちに散会した。
浪華相銀では森山淳をすぐ社長に据えると具合が悪いだろうと、京都人で有力な人を迎えることにした。京の染織の名門会社の会長で衆議院議員でもあるM氏に白羽の矢を立てた。M氏は銀行の経営については全くの素人である上に八十歳の高齢であった。浪華相銀としてはむしろ名前だけの社長で良いと考えていた。当時、地方の相互銀行にはこうした名前だけの社長が割合、多かった。
真三は喉が渇いたのでるり子にお茶を持ってきてほしいと頼んだ。絶えず、のど飴を口に入れて喉をすっきりさせていた。コンビニとかスーパーに行くと何種類もののど飴が並んでいた。真三はハチミッツ入りのものを頼んでいた。
るり子がお茶と飴を数個お盆に載せて書斎に入ってきた。
「相変わらず、飴をなめるのですね」
「仕方がないだろう。いがらっぽいのだから…」
「そうですね」
るり子は黙って聞き流しながら「いよいよワクチンが日本に入ってきましたね」
「そうだね」
「高齢者は四月ごろには接種できるのでしょう」
「どうも混乱しているのか、取り合いになっているのか、確かな情報がないようだな」
「私はアナフィラキシーショックの心配があるので、接種しないつもりです」
「そうだな。ただ、接種は国民の努力義務だから役所に連絡しないと、あとで文句言われるかもしれないな」
「そうですか」
「おそらく掛かりつけの医師に相談して回避の証明書のようなものを求めるかも知れない」
「いやですね。以前、ハチに刺された時に全身に蕁麻疹のようなものが出て、高熱になり、近くのクリニックに駆け込んで注射を打っていただき難を逃れました。次にかかったときは命の危険があると言われたのですよ。だれが保証してくれるのですか」
「医師が判断するだろうが、最後は自分自身の判断に委ねるだろう。ただ、接種した者との差別を受ける心配があるかも…」
「どんな差別ですか」
「わからんが、例えば飲食店をはじめ多くの人が集まる場所への入場拒否に使われる心配はあるわな」
るり子は不機嫌な顔して部屋を出ていった。
■岡田 清治プロフィール
1942年生まれ ジャーナリスト
(編集プロダクション・NET108代表)
著書に『高野山開創千二百年 いっぱんさん行状記』『心の遺言』『あなたは社員の全能力を引き出せますか!』『リヨンで見た虹』など多数
※この物語に対する読者の方々のコメント、体験談を左記のFAXかメールでお寄せください。
今回は「就職」「日本のゆくえ」「結婚」「夫婦」「インド」「愛知県」についてです。物語が進行する中で織り込むことを試み、一緒に考えます。
FAX‥0569―34―7971
メール‥takamitsu@akai-shinbunten.net
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姪の就職2
原三郎は毎日、会社に出向いていった。社内の特別応接室を顧問室として使っている。社長の伝次郎を除く役員、部長、支店長を次々と顧問室に呼びつけてはなだめたりすかしたりしながら話を聞く。労働組合の役員ともほぼ毎日、会っている。不思議なことに行内にある種の緊張感のようなものが漂い始めていた。ストライキもストップして平常の勤務体制に戻っている。ただ、業績の方は一向に回復の兆しはない。
社長の植田伝次郎一人が、焦りのようなものを感じ取っていた。このまま放置しておくと原に銀行を乗っ取られる。伝次郎は自分の独断で原を連れてきただけに、いまさら出て行ってくれとは言えない。ほかの役員に相談もできない。実際は榊原が融資部長から聞き出した得意先の社長から原会計事務所を伝次郎にそれとなく紹介するように仕組んだものだった。
伝次郎の頭に身売りの考えがチラッと浮かんだ。親に強制的に引き継がされたとはいえ、自分の代で潰したくないと思うのだった。それで日に日に身売りの思いが強まってくる。幸い、全国相互銀行協会傘下で近畿地方の相互銀行十三行の社長とは親しく付き合っている。月に一回か二ケ月に一回程度のペースで親睦の酒席の宴があった。近畿以外の相互銀行の社長とはほとんど付き合いもないし、顔も知らない。また都銀、地銀など大手金融機関との付き合いもない。身売りするなら近畿の相互銀行しかないと決め込んでいた。
当時、近畿地方には神戸の兵庫相互銀行、大阪の近畿相互銀行などが有力相手であった。両行の社長もよく知っていたので、この両行のどちらかに頼もうかと考えていた。
(いやー、規模はそう大きくなくても急激な伸びを見せている浪華相銀の方がいいかも知れない。弱っている銀行を助けるには、ほとばしるエネルギーがあるところがいい)と、たえず呻吟している。
一週間ほど考え、迷った末に決心を固めていた。そこで伝次郎は大阪の浪華相銀の藤田万吉を訪ねることにした。
その日、藤田は植田伝次郎が玄関に現れたので、明るい声で座敷に向かい入れた。
「どうか、よろしくお願いします」
伝次郎は藤田万吉に深々と頭を下げた。
万吉は手伝いが運んできたお茶をすすめた。
「お忙しいところすみません。お電話でお話ししましたように、困ったことになりました」
「確かに、面倒なことですな。しかし、近畿内の相銀で一行でもフラフラしたら、相銀全体のイメージも悪くなりますなぁ」
「藤田社長はんなら、きっとうまくやってくれはると信じています」
「植田社長さん。結局、人は自分の一番嫌なことを避けようとしますが、それを他人にやってもらうと一番高くつくということですなぁ。一番しんどいことを率先してやらんと、下もついて来ないということです」
「その通りだす。そのことがようわかりました」
「当行も決して楽ではないが、植田社長を見捨てることもできまへん。しんどいが、引き受けましょう。正式な手続きは後日、当行からご連絡しますので、ご安心下さい」
藤田万吉は剛毅な男である。ワンマン社長だから誰に相談することもなく、安請け合いをした。藤田家は江戸時代から長崎―大阪間の廻船問屋をしていた。家風はだいたいが豪放磊落である。植田社長もそんな社長が好きだし、頼りになると考え相談を決めていた。きっちり計算すると、山城相銀の買収は危険で損な買い物であろう。しかし、計算で割り切れないものがある。時にはそれが情けであったり、思いやりであったりする。また心意気もある。情けに溺れると命取りになる可能性もある。逆に目先の計算にとらわれて、あとで後悔することだってある。要は自分の決断に納得できるかどうかであろう。少なくも藤田はそう思っている。
藤田家の廻船問屋は明治に入っても盛況で一時は、いまの大阪商船の前身の船会社と肩を並べるほどまでに成長した。しかし、日清戦争の反動で拡張策が裏目に出て倒産は回避したものの、大幅に合理化、縮小を強いられた。当時の海運会社は大変深刻な状況にあった。瀬戸内の船主は住友財閥の実力者、広瀬宰平のもとに集まり、大同団結して明治十七年、大阪商船として誕生。万吉が藤田家に養子に迎えられた大正末期には家業の廻船問屋を細々ながら続けていた。
万吉は大阪・泉州の狭山町にあった小池家の長男である。小池家は代々、代官の職にあった名門である。豊臣秀吉によって小田原城を攻め落とされたために、小田原から狭山に移り住んだ。経済に明るい武士ということで狭山でも代官に起用される。代官というのは、百姓から年貢を直接、徴収したり諸役を命じたりする役目である。明治の廃藩置県で藩札が不渡りになり、小池家の万吉の先代がその責任をとって滅んだ。姉のしずが片桐家の斎三の父、藤田太郎に嫁ぎ万吉が藤田家の養子となったことで、小池家は消えた。藤田万吉は苦学して山口高商を卒業、しばらく家業の廻船問屋を手伝った。このままでは将来の展望がない。事業欲旺盛な藤田は新規事業を画策した。「これからは金融の時代だ」と読んだ藤田万吉は、和歌山市内に「紀伊無尽」をつくり金融業に乗り出した。戦争中の統制令で、県下の無尽会社が一社に統合された。吸収合併された形だったが、経営手腕を発揮、頭角を現しついには社長の座についていた。しかし、応召で一時、社長を辞したが、昭和二十年に復員、二十三年に社長に復帰。営業区域が近畿一円に広がった二十六年一月本店を和歌山から大阪に移転。全国で十指に入る相互銀行にのし上げていた。
役員会の席上、議長役の藤田は唐突に提案したのである。
「山城相銀の株式の5割強を譲り受けた。これから先、当行の責任において山城相銀を経営することにした」
役員会の案件というより事後報告である。
「森山淳常務を将来の社長含みで山城相銀に派遣します」
一斉に拍手が起こり、すんなり了承された。森山常務は藤田万吉と無尽時代から苦楽を共にした仲で、いわば万吉の片腕的な存在であった。この頃はまだ、山城相銀に対して悲観的な見方はなかった。今回の人事は森山常務に対するいわば論功行賞としての色彩があった。
一方、京都の山城相銀である。植田伝次郎は役員会で大株主に浪華相銀がなったことを報告するとともに、社長を辞任、相談役に退いた。弟で専務の竜太郎も辞任。一瞬、どよめきが起こったが、すぐに静まり返り了解のうちに散会した。
浪華相銀では森山淳をすぐ社長に据えると具合が悪いだろうと、京都人で有力な人を迎えることにした。京の染織の名門会社の会長で衆議院議員でもあるM氏に白羽の矢を立てた。M氏は銀行の経営については全くの素人である上に八十歳の高齢であった。浪華相銀としてはむしろ名前だけの社長で良いと考えていた。当時、地方の相互銀行にはこうした名前だけの社長が割合、多かった。
真三は喉が渇いたのでるり子にお茶を持ってきてほしいと頼んだ。絶えず、のど飴を口に入れて喉をすっきりさせていた。コンビニとかスーパーに行くと何種類もののど飴が並んでいた。真三はハチミッツ入りのものを頼んでいた。
るり子がお茶と飴を数個お盆に載せて書斎に入ってきた。
「相変わらず、飴をなめるのですね」
「仕方がないだろう。いがらっぽいのだから…」
「そうですね」
るり子は黙って聞き流しながら「いよいよワクチンが日本に入ってきましたね」
「そうだね」
「高齢者は四月ごろには接種できるのでしょう」
「どうも混乱しているのか、取り合いになっているのか、確かな情報がないようだな」
「私はアナフィラキシーショックの心配があるので、接種しないつもりです」
「そうだな。ただ、接種は国民の努力義務だから役所に連絡しないと、あとで文句言われるかもしれないな」
「そうですか」
「おそらく掛かりつけの医師に相談して回避の証明書のようなものを求めるかも知れない」
「いやですね。以前、ハチに刺された時に全身に蕁麻疹のようなものが出て、高熱になり、近くのクリニックに駆け込んで注射を打っていただき難を逃れました。次にかかったときは命の危険があると言われたのですよ。だれが保証してくれるのですか」
「医師が判断するだろうが、最後は自分自身の判断に委ねるだろう。ただ、接種した者との差別を受ける心配があるかも…」
「どんな差別ですか」
「わからんが、例えば飲食店をはじめ多くの人が集まる場所への入場拒否に使われる心配はあるわな」
るり子は不機嫌な顔して部屋を出ていった。