■杉本武之プロフィール

1939年 碧南市に生まれる。

京都大学文学部卒業。

翻訳業を経て、小学校教師になるために愛知教育大学に入学。

25年間、西尾市の小中学校に勤務。

定年退職後、名古屋大学教育学部の大学院で学ぶ。

〈趣味〉読書と競馬

 

【54】日本文学(その6)

◎森鴎外について

 森鴎外(1862~1922)は稀に見る頭脳明晰な人物でした。

 彼は東京大学の医学部を出て、ドイツに4年間も官費留学して医学の研究に専念しました。帰国後、ドイツ語などの外国語に堪能な彼は、数多くの外国文学を翻訳しました。軍医として勤務しながら、日本文学史を彩る数々の名作を書きました。

 彼は「万能足りて一心足らず」の欠陥人ではなく、心の修養も十分積んだ円満な人格者でもありました。近代日本が生んだ最高の頭脳と心情の持ち主でした。

 彼の生涯を簡単に紹介します。

 江戸末期の文久2年(1862)1月19日、石見国鹿足郡津和野町(現在の島根県津和野町)に生まれた。本名は森林太郎。森家は代々、津和野藩の典医であった。

 1881年、19歳の若さで東京大学医学部を卒業して軍医になった。1884年、陸軍省から衛生学研究のためドイツへの留学を命じられた。4年後に帰国。留学中に傾倒していたハルトマンの美学を日本に紹介した。1889年に訳詩集『於母影』を、その翌年に処女作の『舞姫』を発表した。1892年からはアンデルセンの『即興詩人』を訳し始め、9年後に完訳した。不朽の名訳として今なお高く評価されている。

 日露戦争前後の沈黙を経て『青年』や『雁』などの小説を次々と発表し、夏目漱石と並ぶ反自然主義の巨匠と目された。大正期に入ると『阿部一族』『山椒大夫』『高瀬舟』などの歴史小説に新しい分野を開き、その後『渋江抽斎』などの史伝でその頂点を極めた。大正11年(1922)7月9日午前7時、萎縮腎と肺結核のために死去。享年60。

 森鴎外は、死ぬ3日前に、遺書を作りました。その一部を引用します。

 「死は一切を打ち切る重大事件なり。いかなる官権威力と言えども、これに反抗することを得ずと信ず。余は石見人・森林太郎として死せんと欲す。宮内省、陸軍省、みな縁故あれども、生死、別る瞬間、あらゆる外形的取り扱いを辞す。『森林太郎墓』の外、一字も彫るべからず」

 この簡潔明晰な遺書は、森鴎外という人間の本質を遺憾なく表しています。

 彼の小説には、だらだらした叙述が排除されています。曖昧さがありません。秋空のように澄み切っています。少し物足りないような気もしますが、読んだ後、美酒を飲んだように後味が良いのです。爽やかで、すっきりとした気分になります。

 私は森鴎外の作品が好きです。ここでは余り有名でない小説を紹介します。

◎『安井夫人』

 この作品は、大正3年(1914)4月に「太陽」に発表されました。それ以前に『阿部一族』や『大塩平八郎』が書かれ、その後に有名な『山椒大夫』や『高瀬舟』が書かれました。読んだ人は少ないと思いますが、なかなか面白い小説です。

 題名の安井夫人とは、江戸時代後期の高名な儒学者・安井息軒(1799~1876)の妻・佐代のことです。

 安井息軒(名は衡、別名は仲平)その妻・佐代の物語です。

 日向国宮崎郡の村の人たちが、29歳になる儒学者の安井仲平の噂話をしている。

 「『仲平さんは偉くなりなさるだろう』という評判と同時に、『仲平さんは醜男だ』という陰言が、清武一郷に伝えられている」

 仲平には3歳上の兄・文治がいた。文治は「目鼻立ちの立派な兄」で、仲平は「背の低い、色の黒い、片目の弟」だった。

 「兄弟が同時にした疱瘡が、兄は軽く、弟は重く、弟は大痘痕たになって、あまつさえ右の目がつぶれた」

 仲平は21歳の時に大坂へ学問の修業に出た。2年後に兄の文治が死んだ。仲平は26歳で江戸に出て、江戸幕府の学問所である昌平黌に入った。2年後、藩主の侍読になり、翌年、藩主が帰国した時に供をして帰った。

 父親は、29歳になった息子に嫁を取ってやろうと考えた。父親自身も痘痕があり片目でもあったので、若い頃には「異性に対する苦い経験を嘗めている」。自分と同じ欠陥があり、しかも背の低い息子の嫁を選ぶことの困難さが分かっている父親は、「親戚の中で、未婚の娘をあれかこれかと思い浮かべてみた。(中略)形が地味で、心の気高い、本も少しは読むという娘はいないかと思ってみても、あいにくそういう向きの女子は一人もいない。どれもどれも平凡きわまった女子ばかりである」

 最後に父親は、同じ清武村の大字今泉、小字岡の川添家の二人娘に的を絞った。

 「妹娘の佐代は十六で、三十男の仲平の嫁としては若過ぎる。それに器量よしという評判の子で、若者どもの間では『岡の小町』と呼んでいるそうである。どうも仲平とは不釣り合いなように思われる。姉娘の豊なら、もう二十で、遅く取る嫁としては、年齢の懸隔もはなはだしいというほどではない。豊の器量は十人並みである」

 父親は、長倉家に嫁いだ実の娘(長倉の御新造)に打ち明け、使者の役目を引き受けてもらった。

 「川添の家では雛祭りの支度をしていた。奥の間へいろいろな書き付けをした箱をいっぱい出し散らかして、その中から、お豊さんが、内裏様やら五人囃しやら、一つ一つ取り出して、綿や吉野紙を除けて置き並べていると、妹のお佐代さんがちょいちょい手を出す。『いいから私に任せておき』と、お豊さんは妹を叱っていた」

 長倉の御新造さんがお豊さんに話すと、お豊さんは「私、仲平さんは偉い方だと思っていますが、ご亭主にするのは嫌でございます」と冷然として言い放った。

 御新造さんは、折角来たのだからと思って、二人の娘の母親にも話してみた。川添の門を出て、少し歩いていると、川添の下男が走って来て呼び止めた。戻って行って、娘の母親の話を聞いた。「お豊を呼んで話をいたしてみましたが、やはり参らぬと申します。そうすると、お佐代が『安井さんへは私が参ることは出来ますまいか』と申します」。真意をもう一度聞き質すために、二人の前にお佐代さんが呼び出された。

 「母親は言った。『あの、さっきお前の言ったことだがね、仲平さんがお前のような者でも貰って下さることになったら、お前、きっと行くのだね』。お佐代さんは耳まで赤くして、『はい』と言って、下げていた頭を一層低く下げた」

 結婚すると、お佐代さんは「その控えめな、内気な態度を脱却して、大勢の若い書生たちの出入りする家で、天晴れ地歩を占める夫人になりおおせた」

 お佐代さんは51歳の時に病気で亡くなった。仲平はそれから14年後に亡くなった。78歳であった。

 

Copyright©2003-2017 Akai Newspaper dealer

プライバシーポリシー

あかい新聞店・常滑店

新聞■折込広告取扱■求人情報■ちたろまん■中部国際空港配送業務

電話:0569-35-2861

 

あかい新聞店・武豊店

電話:0569-72-0356

あかい新聞店・常滑店

新聞■折込広告取扱■求人情報■ちたろまん■中部国際空港配送業務

電話:0569-35-2861

あかい新聞店・武豊店

電話:0569-72-0356

 

Copyright©2003-2017 Akai Newspaper dealer

プライバシーポリシー

【54】日本文学(その6)

◎森鴎外について

 森鴎外(1862~1922)は稀に見る頭脳明晰な人物でした。

 彼は東京大学の医学部を出て、ドイツに4年間も官費留学して医学の研究に専念しました。帰国後、ドイツ語などの外国語に堪能な彼は、数多くの外国文学を翻訳しました。軍医として勤務しながら、日本文学史を彩る数々の名作を書きました。

 彼は「万能足りて一心足らず」の欠陥人ではなく、心の修養も十分積んだ円満な人格者でもありました。近代日本が生んだ最高の頭脳と心情の持ち主でした。

 彼の生涯を簡単に紹介します。

 江戸末期の文久2年(1862)1月19日、石見国鹿足郡津和野町(現在の島根県津和野町)に生まれた。本名は森林太郎。森家は代々、津和野藩の典医であった。

 1881年、19歳の若さで東京大学医学部を卒業して軍医になった。1884年、陸軍省から衛生学研究のためドイツへの留学を命じられた。4年後に帰国。留学中に傾倒していたハルトマンの美学を日本に紹介した。1889年に訳詩集『於母影』を、その翌年に処女作の『舞姫』を発表した。1892年からはアンデルセンの『即興詩人』を訳し始め、9年後に完訳した。不朽の名訳として今なお高く評価されている。

 日露戦争前後の沈黙を経て『青年』や『雁』などの小説を次々と発表し、夏目漱石と並ぶ反自然主義の巨匠と目された。大正期に入ると『阿部一族』『山椒大夫』『高瀬舟』などの歴史小説に新しい分野を開き、その後『渋江抽斎』などの史伝でその頂点を極めた。大正11年(1922)7月9日午前7時、萎縮腎と肺結核のために死去。享年60。

 森鴎外は、死ぬ3日前に、遺書を作りました。その一部を引用します。

 「死は一切を打ち切る重大事件なり。いかなる官権威力と言えども、これに反抗することを得ずと信ず。余は石見人・森林太郎として死せんと欲す。宮内省、陸軍省、みな縁故あれども、生死、別る瞬間、あらゆる外形的取り扱いを辞す。『森林太郎墓』の外、一字も彫るべからず」

 この簡潔明晰な遺書は、森鴎外という人間の本質を遺憾なく表しています。

 彼の小説には、だらだらした叙述が排除されています。曖昧さがありません。秋空のように澄み切っています。少し物足りないような気もしますが、読んだ後、美酒を飲んだように後味が良いのです。爽やかで、すっきりとした気分になります。

 私は森鴎外の作品が好きです。ここでは余り有名でない小説を紹介します。

 

◎『安井夫人』

 この作品は、大正3年(1914)4月に「太陽」に発表されました。それ以前に『阿部一族』や『大塩平八郎』が書かれ、その後に有名な『山椒大夫』や『高瀬舟』が書かれました。読んだ人は少ないと思いますが、なかなか面白い小説です。

 題名の安井夫人とは、江戸時代後期の高名な儒学者・安井息軒(1799~1876)の妻・佐代のことです。

 安井息軒(名は衡、別名は仲平)その妻・佐代の物語です。

 日向国宮崎郡の村の人たちが、29歳になる儒学者の安井仲平の噂話をしている。

 「『仲平さんは偉くなりなさるだろう』という評判と同時に、『仲平さんは醜男だ』という陰言が、清武一郷に伝えられている」

 仲平には3歳上の兄・文治がいた。文治は「目鼻立ちの立派な兄」で、仲平は「背の低い、色の黒い、片目の弟」だった。

 「兄弟が同時にした疱瘡が、兄は軽く、弟は重く、弟は大痘痕たになって、あまつさえ右の目がつぶれた」

 仲平は21歳の時に大坂へ学問の修業に出た。2年後に兄の文治が死んだ。仲平は26歳で江戸に出て、江戸幕府の学問所である昌平黌に入った。2年後、藩主の侍読になり、翌年、藩主が帰国した時に供をして帰った。

 父親は、29歳になった息子に嫁を取ってやろうと考えた。父親自身も痘痕があり片目でもあったので、若い頃には「異性に対する苦い経験を嘗めている」。自分と同じ欠陥があり、しかも背の低い息子の嫁を選ぶことの困難さが分かっている父親は、「親戚の中で、未婚の娘をあれかこれかと思い浮かべてみた。(中略)形が地味で、心の気高い、本も少しは読むという娘はいないかと思ってみても、あいにくそういう向きの女子は一人もいない。どれもどれも平凡きわまった女子ばかりである」

 最後に父親は、同じ清武村の大字今泉、小字岡の川添家の二人娘に的を絞った。

 「妹娘の佐代は十六で、三十男の仲平の嫁としては若過ぎる。それに器量よしという評判の子で、若者どもの間では『岡の小町』と呼んでいるそうである。どうも仲平とは不釣り合いなように思われる。姉娘の豊なら、もう二十で、遅く取る嫁としては、年齢の懸隔もはなはだしいというほどではない。豊の器量は十人並みである」

 父親は、長倉家に嫁いだ実の娘(長倉の御新造)に打ち明け、使者の役目を引き受けてもらった。

 「川添の家では雛祭りの支度をしていた。奥の間へいろいろな書き付けをした箱をいっぱい出し散らかして、その中から、お豊さんが、内裏様やら五人囃しやら、一つ一つ取り出して、綿や吉野紙を除けて置き並べていると、妹のお佐代さんがちょいちょい手を出す。『いいから私に任せておき』と、お豊さんは妹を叱っていた」

 長倉の御新造さんがお豊さんに話すと、お豊さんは「私、仲平さんは偉い方だと思っていますが、ご亭主にするのは嫌でございます」と冷然として言い放った。

 御新造さんは、折角来たのだからと思って、二人の娘の母親にも話してみた。川添の門を出て、少し歩いていると、川添の下男が走って来て呼び止めた。戻って行って、娘の母親の話を聞いた。「お豊を呼んで話をいたしてみましたが、やはり参らぬと申します。そうすると、お佐代が『安井さんへは私が参ることは出来ますまいか』と申します」。真意をもう一度聞き質すために、二人の前にお佐代さんが呼び出された。

 「母親は言った。『あの、さっきお前の言ったことだがね、仲平さんがお前のような者でも貰って下さることになったら、お前、きっと行くのだね』。お佐代さんは耳まで赤くして、『はい』と言って、下げていた頭を一層低く下げた」

 結婚すると、お佐代さんは「その控えめな、内気な態度を脱却して、大勢の若い書生たちの出入りする家で、天晴れ地歩を占める夫人になりおおせた」

 お佐代さんは51歳の時に病気で亡くなった。仲平はそれから14年後に亡くなった。78歳であった。