姪の就職2

「自民党のポスト安倍も派閥力学によって菅官房長官に決まったね」

「菅さんて、苦労人ですね」

「ボクは運がいい人だと思っている」

「そうですか」

「安倍さんが病ということで、すっきり幕を下ろしたから、醜い争いもせずに派閥の親分たちの談合で決めたから、面白くなかったね」

「そうですが…」

「いずれにせよ難題が山積しているよ」

「コロナや景気が心配ですね」

「本当にオリンピックをやるのかね」

「中止になったら日本は大混乱になりませんか」

「多少の混乱はあるだろうが、国民の多くは疑問視していると思うよ」

「中止になるとアスリートの方がかわいそうですね」

 話が一段落したところで、真三は小説の原稿に戻った。

―S私立学校の再建問題だったな。

 片桐を乗せた黒のベンツは、国道1号線を京都に向かって走っていた。京都市内に入ると道路が狭くなっているせいか、クルマが一段と混んできた。河原町四条の高島屋百貨店の角を西に左折、烏丸通りを通過、油小路で北に曲がった。片桐がはじめて見る山城相互銀行の本店である。お客さんは四条通りに面した玄関から入れるが、行員は社長といえども奥まった東口から出入りする。建物構造上、自然とそういう仕組みになっていた。

 クルマを迎えに出てきたのは、浪華相銀から出向している専務の橋本順司と常務の山上信二の二人である。

 玄関を入ると、受付の女性が事前に片桐の来訪を告げられていたのか、軽く会釈をする。ところが階段で会う行員は、すれ違いざまにチラッと片桐の顔を見やるが、会釈もしない。片桐はまだ顧問であって、正式には社長に就任していない。片桐の顔を見ても誰であるか知らないわけだ。十一月一日の臨時株主総会で取締役に選任されたら、その後の役員会で正式に社長に就くことになる。それまで約一ケ月間ある。今日はその準備と打ち合わせのためにやってきた。

 応接室のソファーに片桐は橋本専務と山上常務の二人を前にかけた。秘書の津上京子がお茶を運んできた折、緊急の要件は社内の直通電話を利用するように頼んだ。

「片桐社長、本当にごくろうさまでございます。私の方からこの銀行の歴史的な流れと、現在抱えています問題点を簡単にお話しさせていただきます」

 片桐は橋本順司専務の疲労の顔に、この銀行の置かれている状況をくみ取っていた。浪華相銀のトップ支店である阿倍野支店長から二年前、十三支店長の山上信二と共に出向していた。橋本専務は低い声でボソボソとしゃべりだした。

 山城相互銀行の前身は「京都昭和産業無尽」であった。若い人は「無尽」という言葉になじみがないかもしれない。もともと「無尽」は仏教の言葉で、インドから中国を経て日本に入ってきた。「無尽」は「有尽」に対するもので、永久に尽きないことを意味する。仏教の世界だけでなく金融する方法としても一般化したのである。寺院を維持、発展させていくのにも経費がかかる。献財をうまく運用してその収益を充てる制度が仏教と共に伝えられた。

 これが日本で「頼母子」の発生となる。鎌倉時代に起こり、南北朝から室町時代に完成させたと言われる。仲間が集まり、「講」を形成する。この「講」も仏教からきたもので、もともとは僧侶が集まって経典を研究する場所である。仲間がカネを出し合い、担保も利息もなしで融通し合った。これを「頼母子講」と呼んでいる。例えば、仲間三人集まって、毎月一人千円掛け金にすると三千円集まる。三人のうち一人が、靴を買いたいと思ったので集まった掛け金三千円を借りる。一人なら靴を買うのに三ケ月間かかるが、この方法だとすぐに購入することができる。順番はくじ引きなどで決めるから文句がでないというわけだ。これが「頼母子講」の原型で、やがてこれが企業化され、無尽会社に発展していく。

 頼母子講の本来の目的は、困窮者の救済あるいは共済であったが、江戸時代の元禄期には射幸的、賭博的なものが増え、人心を荒廃させ、幕府も対策に困り無尽を何度も禁止にしている。明治維新後は、企業が参入して「営業無尽」が発生してきた。そして大正四年には全国の無尽業者数は二千四百十六社と膨れ上がっていた。無尽は法の規制外にあったので、金融業者として不適格な者でも容易に会社を設立、トラブルが絶えず社会問題化していた。

 このため、政府は無尽業者を取り締まる法制化に乗り出し、大正四年十一月施行。その翌年の大正五年末の免許を持つ無尽会社数は全国で百三十社(近畿地区二十一社)と激減したのである。これは無尽会社にとって大革命であった。その後、無尽は相互扶助の精神を持ち雑草のように生き続け、庶民の親しみやすい身近な金融機関として発達してきたのである。

 そして第二の革命期が訪れた。昭和二十六年、「相互銀行法」が制定され、中小金融専門機関に脱皮したときである。日本の金融機関は日本銀行という中央銀行と民間および政府系金融機関に分けられる。民間金融機関には都市銀行、地方銀行、相互銀行がある。民間の中小企業金融機関としては、相互銀行のほかに信用金庫、信用組合があるが、これらは協同組合法に基づく機関で、相互銀行のように株式会社ではない。だけど業務内容はほとんど銀行と変わらないし、京都では信用金庫の勢力が強いことが他府県に見られない特色となっている。

 相互銀行の数は全国に六十九行(昭和六十年三月末現在)とある。片桐が相互銀行について話した。

 相銀発足の当初は、資金量の大半が掛け金であった。我が国の経済の成長に伴い相銀の預金も伸び、今では約三十六兆円を超えているという。そのほとんどが定期や普通預金である。一般の銀行と変わらない。掛け金業務は皆無に等しいから、相互銀行という行名は実態を公正に表していない。しかしながら今後の相銀は、従来の掛け金業務時代の相互主義とは形式が異なっても、内容は依然として相互の関係になければならない。極端に言えば、お客さんに先に用立てして、その後預金をしてもらうことが大切である。片桐はそう思っている。無尽の歴史的な流れを汲む相銀は、これから先、金融業界の大変革の荒波をどう乗り切るか、注目されるところである。

 真三が小説から目を離し一息ついていると、頃合いを見計らったように、るり子が雑誌を持って書斎に入ってきた。

 それを見て真三は声をかけた。

「前号に“テレワーク考”のコラムがあったね」

「これでしょう」

―コロナ騒動はいつ収束するのか、先が見えない。自宅待機の要請にともなってテレワークの普及が進んでいる。経験者は生産性が上がると、感じているようだ。恐らく通勤時間が不要になるので、時間の余裕が心理的にも効率が上がっていると思うのだろう。

 しかし実際に導入した企業でも「やめた」ところも少なくない。自宅の狭い部屋でテレワークばかりしていると、「うつ」になる人もいるそうだ。自宅にいて、会社とはテレワークのほかにパソコンとインターネット、電話、ファックスで連絡をとる働き方ではデジタルの世界に閉じ込められる。

 テレワークでは新たなスキルが求められる。テレビでオンライン討議風景を見ていると、アイコンタクト、対面会議のやり方が適用されるのでこのやり方になれないと疲れるという。「会話中のアイコンタクトは大変重要で、その際はモニター画像ではなく、ウェブカメラを見ることです。初めは違和感を感じるかもしれないが、すぐに慣れるので試してみてください」と指導される。

 ある新聞記者は「取材は雑談が大切ですが、テレワークではそれがない」と不満を漏らす。クルマのハンドルも「遊び」を設けているので安全運転ができるのだ。コミュニケーションにも遊びが大事だ。ある営業マンはテレワークでできる仕事はいずれAIにとってかわられると指摘する。「人」は二人の人間が支え合って存在している。これは不変の原理だろう。人はデジタル画像では満足できない。ただ、遠隔地との距離が縮まることはメリットだろうが、一般にはほとんど関係ない。

「まあ、そうだな」

「テレワークばかりだと、なにか工場の中で仕事をしているようですね」

「働き方が変わると言っても、人間になじむ働き方とは限らない」

 

■岡田 清治プロフィール

1942年生まれ ジャーナリスト

(編集プロダクション・NET108代表)

著書に『高野山開創千二百年 いっぱんさん行状記』『心の遺言』『あなたは社員の全能力を引き出せますか!』『リヨンで見た虹』など多数

※この物語に対する読者の方々のコメント、体験談を左記のFAXかメールでお寄せください。

今回は「就職」「日本のゆくえ」「結婚」「夫婦」「インド」「愛知県」についてです。物語が進行する中で織り込むことを試み、一緒に考えます。

FAX‥0569―34―7971

メール‥takamitsu@akai-shinbunten.net

 

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姪の就職2

「自民党のポスト安倍も派閥力学によって菅官房長官に決まったね」

「菅さんて、苦労人ですね」

「ボクは運がいい人だと思っている」

「そうですか」

「安倍さんが病ということで、すっきり幕を下ろしたから、醜い争いもせずに派閥の親分たちの談合で決めたから、面白くなかったね」

「そうですが…」

「いずれにせよ難題が山積しているよ」

「コロナや景気が心配ですね」

「本当にオリンピックをやるのかね」

「中止になったら日本は大混乱になりませんか」

「多少の混乱はあるだろうが、国民の多くは疑問視していると思うよ」

「中止になるとアスリートの方がかわいそうですね」

 話が一段落したところで、真三は小説の原稿に戻った。

―S私立学校の再建問題だったな。

 片桐を乗せた黒のベンツは、国道1号線を京都に向かって走っていた。京都市内に入ると道路が狭くなっているせいか、クルマが一段と混んできた。河原町四条の高島屋百貨店の角を西に左折、烏丸通りを通過、油小路で北に曲がった。片桐がはじめて見る山城相互銀行の本店である。お客さんは四条通りに面した玄関から入れるが、行員は社長といえども奥まった東口から出入りする。建物構造上、自然とそういう仕組みになっていた。

 クルマを迎えに出てきたのは、浪華相銀から出向している専務の橋本順司と常務の山上信二の二人である。

 玄関を入ると、受付の女性が事前に片桐の来訪を告げられていたのか、軽く会釈をする。ところが階段で会う行員は、すれ違いざまにチラッと片桐の顔を見やるが、会釈もしない。片桐はまだ顧問であって、正式には社長に就任していない。片桐の顔を見ても誰であるか知らないわけだ。十一月一日の臨時株主総会で取締役に選任されたら、その後の役員会で正式に社長に就くことになる。それまで約一ケ月間ある。今日はその準備と打ち合わせのためにやってきた。

 応接室のソファーに片桐は橋本専務と山上常務の二人を前にかけた。秘書の津上京子がお茶を運んできた折、緊急の要件は社内の直通電話を利用するように頼んだ。

「片桐社長、本当にごくろうさまでございます。私の方からこの銀行の歴史的な流れと、現在抱えています問題点を簡単にお話しさせていただきます」

 片桐は橋本順司専務の疲労の顔に、この銀行の置かれている状況をくみ取っていた。浪華相銀のトップ支店である阿倍野支店長から二年前、十三支店長の山上信二と共に出向していた。橋本専務は低い声でボソボソとしゃべりだした。

 山城相互銀行の前身は「京都昭和産業無尽」であった。若い人は「無尽」という言葉になじみがないかもしれない。もともと「無尽」は仏教の言葉で、インドから中国を経て日本に入ってきた。「無尽」は「有尽」に対するもので、永久に尽きないことを意味する。仏教の世界だけでなく金融する方法としても一般化したのである。寺院を維持、発展させていくのにも経費がかかる。献財をうまく運用してその収益を充てる制度が仏教と共に伝えられた。

 これが日本で「頼母子」の発生となる。鎌倉時代に起こり、南北朝から室町時代に完成させたと言われる。仲間が集まり、「講」を形成する。この「講」も仏教からきたもので、もともとは僧侶が集まって経典を研究する場所である。仲間がカネを出し合い、担保も利息もなしで融通し合った。これを「頼母子講」と呼んでいる。例えば、仲間三人集まって、毎月一人千円掛け金にすると三千円集まる。三人のうち一人が、靴を買いたいと思ったので集まった掛け金三千円を借りる。一人なら靴を買うのに三ケ月間かかるが、この方法だとすぐに購入することができる。順番はくじ引きなどで決めるから文句がでないというわけだ。これが「頼母子講」の原型で、やがてこれが企業化され、無尽会社に発展していく。

 頼母子講の本来の目的は、困窮者の救済あるいは共済であったが、江戸時代の元禄期には射幸的、賭博的なものが増え、人心を荒廃させ、幕府も対策に困り無尽を何度も禁止にしている。明治維新後は、企業が参入して「営業無尽」が発生してきた。そして大正四年には全国の無尽業者数は二千四百十六社と膨れ上がっていた。無尽は法の規制外にあったので、金融業者として不適格な者でも容易に会社を設立、トラブルが絶えず社会問題化していた。

 このため、政府は無尽業者を取り締まる法制化に乗り出し、大正四年十一月施行。その翌年の大正五年末の免許を持つ無尽会社数は全国で百三十社(近畿地区二十一社)と激減したのである。これは無尽会社にとって大革命であった。その後、無尽は相互扶助の精神を持ち雑草のように生き続け、庶民の親しみやすい身近な金融機関として発達してきたのである。

 そして第二の革命期が訪れた。昭和二十六年、「相互銀行法」が制定され、中小金融専門機関に脱皮したときである。日本の金融機関は日本銀行という中央銀行と民間および政府系金融機関に分けられる。民間金融機関には都市銀行、地方銀行、相互銀行がある。民間の中小企業金融機関としては、相互銀行のほかに信用金庫、信用組合があるが、これらは協同組合法に基づく機関で、相互銀行のように株式会社ではない。だけど業務内容はほとんど銀行と変わらないし、京都では信用金庫の勢力が強いことが他府県に見られない特色となっている。

 相互銀行の数は全国に六十九行(昭和六十年三月末現在)とある。片桐が相互銀行について話した。

 相銀発足の当初は、資金量の大半が掛け金であった。我が国の経済の成長に伴い相銀の預金も伸び、今では約三十六兆円を超えているという。そのほとんどが定期や普通預金である。一般の銀行と変わらない。掛け金業務は皆無に等しいから、相互銀行という行名は実態を公正に表していない。しかしながら今後の相銀は、従来の掛け金業務時代の相互主義とは形式が異なっても、内容は依然として相互の関係になければならない。極端に言えば、お客さんに先に用立てして、その後預金をしてもらうことが大切である。片桐はそう思っている。無尽の歴史的な流れを汲む相銀は、これから先、金融業界の大変革の荒波をどう乗り切るか、注目されるところである。

 真三が小説から目を離し一息ついていると、頃合いを見計らったように、るり子が雑誌を持って書斎に入ってきた。

 それを見て真三は声をかけた。

「前号に“テレワーク考”のコラムがあったね」

「これでしょう」

―コロナ騒動はいつ収束するのか、先が見えない。自宅待機の要請にともなってテレワークの普及が進んでいる。経験者は生産性が上がると、感じているようだ。恐らく通勤時間が不要になるので、時間の余裕が心理的にも効率が上がっていると思うのだろう。

 しかし実際に導入した企業でも「やめた」ところも少なくない。自宅の狭い部屋でテレワークばかりしていると、「うつ」になる人もいるそうだ。自宅にいて、会社とはテレワークのほかにパソコンとインターネット、電話、ファックスで連絡をとる働き方ではデジタルの世界に閉じ込められる。

 テレワークでは新たなスキルが求められる。テレビでオンライン討議風景を見ていると、アイコンタクト、対面会議のやり方が適用されるのでこのやり方になれないと疲れるという。「会話中のアイコンタクトは大変重要で、その際はモニター画像ではなく、ウェブカメラを見ることです。初めは違和感を感じるかもしれないが、すぐに慣れるので試してみてください」と指導される。

 ある新聞記者は「取材は雑談が大切ですが、テレワークではそれがない」と不満を漏らす。クルマのハンドルも「遊び」を設けているので安全運転ができるのだ。コミュニケーションにも遊びが大事だ。ある営業マンはテレワークでできる仕事はいずれAIにとってかわられると指摘する。「人」は二人の人間が支え合って存在している。これは不変の原理だろう。人はデジタル画像では満足できない。ただ、遠隔地との距離が縮まることはメリットだろうが、一般にはほとんど関係ない。

「まあ、そうだな」

「テレワークばかりだと、なにか工場の中で仕事をしているようですね」

「働き方が変わると言っても、人間になじむ働き方とは限らない」