■杉本武之プロフィール

1939年 碧南市に生まれる。

京都大学文学部卒業。

翻訳業を経て、小学校教師になるために愛知教育大学に入学。

25年間、西尾市の小中学校に勤務。

定年退職後、名古屋大学教育学部の大学院で学ぶ。

〈趣味〉読書と競馬

 

【46】日本映画(その7)

◎宮崎駿について

  あの魅力的な『となりのトトロ』や『魔女の宅急便』を作った偉大なアニメ作家の宮崎駿は、昭和16年(1941)1月5日、父・宮崎勝次と母・美子の次男として東京墨田区で生まれた。父の勝次は、兄と一緒に、祖父が創業した町工場を営んでいた。翌年、二人は「宮崎航空機製造所」を立ち上げて、飛行機の下請けを始めた。栃木県の鹿沼市に本社を移し、地元の人達を雇って航空機の一部を分業生産した。会社の設立と共に、一家も宇都宮市に転居した。昭和20年7月に宇都宮大空襲があり、一家は会社のある鹿沼市に逃げた。そこの別荘で、しばらくの間、親戚の者たちと一緒に暮らした。

 宮崎駿は、当時のことを次のように話しています。

 「僕の育った家は、戦争中にとても景気のいい家だったんです。といいますのは、一族の、伯父が社長で親父が工場長をやっていた会社は、軍需産業の一角にいたんです。末端の方ですけども、戦争中に飛行機の翼や先っぽや風防の組み立てなんかを、栃木県の片田舎に疎開した工場で千数百人の工員でやっていました。親父は戦争中に自家用車に乗ってました。木炭自動車じゃなくてガソリンの自動車です。戦争の被害という事では、確かに空襲を受けたし逃げ回ったりもしたけれど、実は我が一族の歴史の中では、戦争中が一番景気が良かったんです。戦後の混乱の時にも何とか食べていけた」

 昭和22年、宮崎駿は宇都宮市立西小学校に入学した。ところが、この年、母親が脊椎カリエスに罹った。2ヶ月ほど入院した後、それから9年間も自宅でほぼ寝たきりの闘病生活を送った。母が入院した時、長男の新あらたは3年生だった。彼は「母は亡くなるかも知れない」と思った。後年、彼はこう話しています。

 「亡くなるかも知れない、と思っても、口にはしなかった。駿にも言わせないようにした。『となりのトトロ』には、その間の情景が再現されています。サツキが僕で、メイが駿です。あのアニメを見ていると、当時の駿の母に対する気持ちがよく理解できます」

 昭和25年4月、宮崎一家は東京の杉並区永福に家を買った。『となりのトトロ』のモデルになった家である。駿は杉並区立大宮小学校に転入した。そして、大宮中学校を卒業すると、都立豊多摩高校に入学した。母の病気が新しい抗生物質によって完治した。その頃から、彼はマンガ家になりたいと思うようになった。高校3年生の冬、『白蛇伝』というアニメーションに出会った。運命的な出会いであった。

 「日本最初の本格的長編色彩漫画映画『白蛇伝』が公開されたのは1958年である。その年の暮れ、場末の三番館で、高校3年の受験期のただ中にいた僕は、この映画と出会ってしまった。僕は漫画映画のヒロインに恋をしてしまった。心を揺すぶられて、降り出した雪の道をよろめきながら家へ帰った。彼女たちのひたむきさに比べ、自分のぶざまな有り様が情けなくて、一晩、炬燵にうずくまって涙を流した。未熟なその時の僕は、『白蛇伝』との出会いは強烈な衝撃を残していった」

 昭和34年(1959)、宮崎駿は学習院大学政治経済学部へ入学した。美術系の大学に行きたかったのだが、父から「絵で身を立てるのは大変である。そういう学校に行く気なら、金は出さない」と強く言われ、兄の新が行っていた学習院大学へ進学したのだった。彼は初めから「漫画を描くためのモラトリアムとして大学に行った」のであり、どの大学でもよかったのであった。

 大学を卒業すると、彼は東映動画に入社した。8年後、東映動画を退社し、いろいろな会社でテレビ用アニメの原画や場面設定や演出を手掛けた。劇場用アニメの初の監督作品『ルパン三世 カリオストロの城』(1979)や次に監督した意欲作『風の谷のナウシカ』(1984)によって彼の才能は広く、そして高く認められた。1985年にスタジオジブリの設立に参加した。その後、自分のスタジオで『天空の城ラピュタ』『となりのトトロ』『魔女の宅急便』『紅の豚』『もののけ姫』『千と千尋の神隠し』『ハウルの動く城』『崖の上のポニョ』『風立ちぬ』を次々と作り上げ、日本のみならず世界中で絶賛された。2013年、『風立ちぬ』を最後に現役引退を表明した。とても残念です。

◎『となりのトトロ』

 宮崎駿の作品の中で私が一番好きなのは『となりのトトロ』です。

 映画が始まると、妹のメイがクモやトカゲやムカデの道を元気に歩いています。主題歌「さんぽ」の楽しい音楽が流れています。| 快適なオープニングタイトルが終わると、5月の美しい青空の下、麦畑の中の道をオート三輪が走っています。荷台には、引っ越し荷物と二人の姉妹(サツキとメイ)が乗っています。やがて、うっそうとした森の下に赤い屋根の家が見えてきます。サツキたちの父(考古学者)が見つけておいた引っ越し先の家で、文字通り「お化け屋敷」なのです。病気で入院している母が退院した時に一緒に住むために、環境の良い家を借りたのです。巨木なクスの木が、家の東側の神社にそびえ立ち、その巨木の空洞に、何とも不思議な生き物が住んでいるのです。「トトロ」です。

 最初に妹のメイがトトロに出会います。庭先の草むらを歩く半透明の白い生き物を見つけ、後を追って行きます。クスの木の空洞に落ちたメイは、大きな太ったオバケが眠っているのを見つけます。メイはそのふかふかの腹の上に登ります。そして、彼女も気持ち良さそうに眠ってしまいます。

 やがて姉のサツキもトトロと出会います。雨の中、バス停で父の帰りを待っていると、いつの間にか、トトロが隣に立っています。サツキから傘を貸してもらったトトロは、待っていたネコバスに乗り込む間際に、笹の葉で包んだ木の実をサツキに渡します。

 木の実は庭の苗床に埋められます。ある夜、サツキが目を覚ますと、月光に輝く庭先で傘を差した大トトロと中・小トトロが踊っています。メイを起こして、二人はその仲間に加わります。トトロの動作を真似します。すると、埋めてあった木の実が、芽を吹き、ぐんぐんと成長し、あっという間に一本の巨木になります。それから、姉妹はトトロと楽しく遊びます。翌朝、昨夜の出来事が夢だったと気づきますが、苗床には双葉がでています。二人は、それを見て、「夢だけど、夢じゃなかった!」と喜びます。

 ある日、病院から電報が届きます。父は研究所に行っていて留守です。姉の不安が伝わって、メイは一人で母に会いに行くことを決心します。病院までは大人の足でも3時間はかかります。サツキは妹を探しに行きますが、見つけ出せません。日がどんどん暮れてきます。サツキはトトロに「メイを探して」と頼みます。ネコバスに乗ったサツキはメイを見つけ、病院まで行きます。姉妹は、病院の庭の大きな木の枝に座って、母の病室を眺めています。病室には父がいて、母と楽しそうに話しています。これで映画は終わります。

 ああ、楽しかったな!何回観ても、もう一度観たくなるアニメの傑作です。

 

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【46】日本映画(その7)

◎宮崎駿について

 あの魅力的な『となりのトトロ』や『魔女の宅急便』を作った偉大なアニメ作家の宮崎駿は、昭和16年(1941)1月5日、父・宮崎勝次と母・美子の次男として東京墨田区で生まれた。父の勝次は、兄と一緒に、祖父が創業した町工場を営んでいた。翌年、二人は「宮崎航空機製造所」を立ち上げて、飛行機の下請けを始めた。栃木県の鹿沼市に本社を移し、地元の人達を雇って航空機の一部を分業生産した。会社の設立と共に、一家も宇都宮市に転居した。昭和20年7月に宇都宮大空襲があり、一家は会社のある鹿沼市に逃げた。そこの別荘で、しばらくの間、親戚の者たちと一緒に暮らした。

 宮崎駿は、当時のことを次のように話しています。

 「僕の育った家は、戦争中にとても景気のいい家だったんです。といいますのは、一族の、伯父が社長で親父が工場長をやっていた会社は、軍需産業の一角にいたんです。末端の方ですけども、戦争中に飛行機の翼や先っぽや風防の組み立てなんかを、栃木県の片田舎に疎開した工場で千数百人の工員でやっていました。親父は戦争中に自家用車に乗ってました。木炭自動車じゃなくてガソリンの自動車です。戦争の被害という事では、確かに空襲を受けたし逃げ回ったりもしたけれど、実は我が一族の歴史の中では、戦争中が一番景気が良かったんです。戦後の混乱の時にも何とか食べていけた」

 昭和22年、宮崎駿は宇都宮市立西小学校に入学した。ところが、この年、母親が脊椎カリエスに罹った。2ヶ月ほど入院した後、それから9年間も自宅でほぼ寝たきりの闘病生活を送った。母が入院した時、長男の新あらたは3年生だった。彼は「母は亡くなるかも知れない」と思った。後年、彼はこう話しています。

 「亡くなるかも知れない、と思っても、口にはしなかった。駿にも言わせないようにした。『となりのトトロ』には、その間の情景が再現されています。サツキが僕で、メイが駿です。あのアニメを見ていると、当時の駿の母に対する気持ちがよく理解できます」

 昭和25年4月、宮崎一家は東京の杉並区永福に家を買った。『となりのトトロ』のモデルになった家である。駿は杉並区立大宮小学校に転入した。そして、大宮中学校を卒業すると、都立豊多摩高校に入学した。母の病気が新しい抗生物質によって完治した。その頃から、彼はマンガ家になりたいと思うようになった。高校3年生の冬、『白蛇伝』というアニメーションに出会った。運命的な出会いであった。

 「日本最初の本格的長編色彩漫画映画『白蛇伝』が公開されたのは1958年である。その年の暮れ、場末の三番館で、高校3年の受験期のただ中にいた僕は、この映画と出会ってしまった。僕は漫画映画のヒロインに恋をしてしまった。心を揺すぶられて、降り出した雪の道をよろめきながら家へ帰った。彼女たちのひたむきさに比べ、自分のぶざまな有り様が情けなくて、一晩、炬燵にうずくまって涙を流した。未熟なその時の僕は、『白蛇伝』との出会いは強烈な衝撃を残していった」

 昭和34年(1959)、宮崎駿は学習院大学政治経済学部へ入学した。美術系の大学に行きたかったのだが、父から「絵で身を立てるのは大変である。そういう学校に行く気なら、金は出さない」と強く言われ、兄の新が行っていた学習院大学へ進学したのだった。彼は初めから「漫画を描くためのモラトリアムとして大学に行った」のであり、どの大学でもよかったのであった。

 大学を卒業すると、彼は東映動画に入社した。8年後、東映動画を退社し、いろいろな会社でテレビ用アニメの原画や場面設定や演出を手掛けた。劇場用アニメの初の監督作品『ルパン三世 カリオストロの城』(1979)や次に監督した意欲作『風の谷のナウシカ』(1984)によって彼の才能は広く、そして高く認められた。1985年にスタジオジブリの設立に参加した。その後、自分のスタジオで『天空の城ラピュタ』『となりのトトロ』『魔女の宅急便』『紅の豚』『もののけ姫』『千と千尋の神隠し』『ハウルの動く城』『崖の上のポニョ』『風立ちぬ』を次々と作り上げ、日本のみならず世界中で絶賛された。2013年、『風立ちぬ』を最後に現役引退を表明した。とても残念です。

 

 

◎『となりのトトロ』

 宮崎駿の作品の中で私が一番好きなのは『となりのトトロ』です。

 映画が始まると、妹のメイがクモやトカゲやムカデの道を元気に歩いています。主題歌「さんぽ」の楽しい音楽が流れています。| 快適なオープニングタイトルが終わると、5月の美しい青空の下、麦畑の中の道をオート三輪が走っています。荷台には、引っ越し荷物と二人の姉妹(サツキとメイ)が乗っています。やがて、うっそうとした森の下に赤い屋根の家が見えてきます。サツキたちの父(考古学者)が見つけておいた引っ越し先の家で、文字通り「お化け屋敷」なのです。病気で入院している母が退院した時に一緒に住むために、環境の良い家を借りたのです。巨木なクスの木が、家の東側の神社にそびえ立ち、その巨木の空洞に、何とも不思議な生き物が住んでいるのです。「トトロ」です。

 最初に妹のメイがトトロに出会います。庭先の草むらを歩く半透明の白い生き物を見つけ、後を追って行きます。クスの木の空洞に落ちたメイは、大きな太ったオバケが眠っているのを見つけます。メイはそのふかふかの腹の上に登ります。そして、彼女も気持ち良さそうに眠ってしまいます。

 やがて姉のサツキもトトロと出会います。雨の中、バス停で父の帰りを待っていると、いつの間にか、トトロが隣に立っています。サツキから傘を貸してもらったトトロは、待っていたネコバスに乗り込む間際に、笹の葉で包んだ木の実をサツキに渡します。

 木の実は庭の苗床に埋められます。ある夜、サツキが目を覚ますと、月光に輝く庭先で傘を差した大トトロと中・小トトロが踊っています。メイを起こして、二人はその仲間に加わります。トトロの動作を真似します。すると、埋めてあった木の実が、芽を吹き、ぐんぐんと成長し、あっという間に一本の巨木になります。それから、姉妹はトトロと楽しく遊びます。翌朝、昨夜の出来事が夢だったと気づきますが、苗床には双葉がでています。二人は、それを見て、「夢だけど、夢じゃなかった!」と喜びます。

 ある日、病院から電報が届きます。父は研究所に行っていて留守です。姉の不安が伝わって、メイは一人で母に会いに行くことを決心します。病院までは大人の足でも3時間はかかります。サツキは妹を探しに行きますが、見つけ出せません。日がどんどん暮れてきます。サツキはトトロに「メイを探して」と頼みます。ネコバスに乗ったサツキはメイを見つけ、病院まで行きます。姉妹は、病院の庭の大きな木の枝に座って、母の病室を眺めています。病室には父がいて、母と楽しそうに話しています。これで映画は終わります。

 ああ、楽しかったな!何回観ても、もう一度観たくなるアニメの傑作です。