姪の就職2

 十二月中旬、柳原の自宅で机の上に、いつものようにその日の郵便物を女房が整えていた。その中に筆で宛名書きした白の角封筒があった。裏を返すと、山城相互銀行の片桐齊造からである。開封すると、素人顔見世の招待券が二枚同封されている。柳原は片桐の名前を見て一瞬、ギクリとした。柳原が片桐を知ったのは司法記者をしているときである。金融機関のトップである片桐が会社幹部と彼の叔父を相手に地裁で壮絶な争いを演じ、いまもその裁判が続いていたからだ。

 柳原は大阪からきた片桐という男は記者クラブの仕組みをはじめ、京都の土地柄を全く解っていないと、自宅まで忠告に出かけたことがあった。昭和四十八年の年の瀬も迫った、雪の降る寒い夜。宝ヶ池の近くにある片桐の家は比叡おろしをまともに受け、通された応接室の小型石油ストーブでは不足だった。身体を震わせながら待っていると、ほどなく和服に着替えた片桐が入ってきた。

「こんばんは。夜分、失礼とは思ったのですが、知っておいてほしいというか、聞いておいてほしいと思い出かけてきました」

「といいますと…」

「京都では目立ったことをしたら、必ず失敗します。そらぁー、会社の幹部を告訴するにはそれなりの理由と決断があるでしょうが…。でも、京都は旧い街です。地縁、人縁の結びつきは、他所から来た者には想像を超えるものがあります。建前と本音が全く違うのです。この京都というところは、とくにそうなんです」

「そうでしょうな」

「あなたの行動を見ていると危なっかしくて心配なんです」

「どうしろと、おっしゃるんですか」

「とにかく気を付けてくださいよ。それに告訴する以上は、きちんと記者会見しなければならないのに、社長のあなたが出席できないでは通らないのです」

「……」

「それだけの覚悟をもっていないと結局、ダメなのです」

 柳原はせわしくしゃべった。片桐夫人が運んでくれたお茶にも口をつけず、用件だけを言い終わると夜道、タクシーを拾うために国立国際会館に向かって歩いた。片桐は柳原がしゃべっている時も、そのあともほとんど沈黙を保った。(百も承知なのに、わざわざそんなことを言うために来たのかと失望したのかも知れない。それとも彼らの回し者と誤解されたのではないだろうか)

 柳原は誰に頼まれたことでもなかった。京都司法記者クラブでの幹事という立場で、このニュースを早くキャッチしていた。それに加えて記者個人として片桐という人物を知って興味を持ったに過ぎない。柳原自身、途中入社のうえに、よそ者だから京都では苦労している。片桐に対して同じ大阪人というだけではなく、なにか共通のものを持っているような気がして親しみを感じていた。柳原は大阪・南河内の出身で、昭和四十年、東京の私大を卒業したが、この年は山陽特殊鋼が五百億円の負債を抱えて倒産、さらに証券界では山一証券の倒産が噂されるほど、世は不景気の時代だった。前年のオリンピック景気の反動である。所得倍増政策論の池田首相が死去したのもこの年の八月、一つの時代の終焉のようであった。

 柳原はマスコミ志望だったが、うまくいかず知人を通じて大物政治家の見習い秘書のようなことしていた。その政治家の事務所へ日本新聞協会の役員Sが挨拶に来た。部屋にいた柳原も紹介された。この縁で柳原は後日、京都の地元紙に入社することができた。当時は縁故採用というのが結構な数を占めていた。

 地元紙は『京都日日新聞』と『京都H新聞』が昭和十七年に合併して誕生した。その小史によると、『京都H新聞』を創刊した人物が、『京都商事迅報』を発刊した明治十二年を合併後の地元紙の創刊の年としているという。この年、大阪の朝日新聞が誕生している。新聞の黎明期である。『京都商事迅報』を経営していた、その人物は印刷会社も兼業していたが、いまだに『京都商事迅報』の実物は見つかっていないようだ。その人物は後に京都商工会議所会頭、衆議院議員と一躍、京都の名士になったが、貿易事業の失敗でマスコミ事業からも身を引いたという。明治以降、「京都」と名の付く新聞が多かったと、地元紙の小史は伝えている。

 日本新聞協会の役員Sは戦時中、会社組織のもつれから退社、日本人絹織物統制株式会社に移るが、昭和二十年三月、京都H新聞の主幹で復帰。当時の社長が市会の議長となって退社したので、Sに白羽の矢が立った。復帰の翌年、社長に就任、中興の祖となる。

「Sは東大大学院にいたときに、関東大震災に遭い、人生観が変わった。学者になる道を捨て、一番興味のあった新聞社を選んだ。紹介者がサラリーマンで終わるなら朝日でも毎日でもいいが、洋行させてもらって部長になったらサラリーマンはしまいだ。それでは新聞をやったことにはならんぜといわれ、これは名言だと思った」

 そういういきさつでSは京都H新聞に入った経緯を政治家の事務所で披歴した。Sの話は地方紙の役割についても及んだ。高度経済成長期で世の中は大量生産、大量販売の最中だったが、(必ず地方の時代が来る)と断言していた。柳原はSの話を聞いて地方紙に興味をもった。柳原が京都でSに再び会ったのはその一年後である。はじめSの秘書となるが、すぐに希望の編集局へ配属され社会部記者としてスタート。裁判所を担当。そこで片桐という経営者を知った。あれから十二年経つ。

 片桐齊造が素人顔見世に出るという。それも女形で主役の乳母・政岡を演じる。素人顔見世は京の政界人、財界人、文化人の顔見世であり、これに出演できることは、京の人として認知されることを暗黙のうちに了解している風であった。片桐は大阪の浪華銀行から山城相互銀行の再建のために送り込まれていた。よく持ちこたえている。ただの経営者でないことは確かだが、どうしてそこまで頑張るのだろうと柳原は疑問を抱くのだった。

 柳原は片桐の出演する歌舞伎に強く魅ひかれるものがあった。千代萩のストーリーだけでも頭を入れておこうと、河原町三条の大型書店に立ち寄って『歌舞伎入門』(和角仁著)を買った。歌舞伎の好きな人なら千代萩と聞いただけで、すぐ場面を想い浮かべるぐらい有名である。

 これは江戸中期の仙台藩の伊達家のお家騒動を題材にしたものだ。『歌舞伎入門』からあらすじを紹介しておこう。

 ―足利頼兼が吉原の遊女にうつつをぬかしている隙に、仁木弾正一味は、主家の横領たくらみ、若君の鶴千代を毒殺しようとする。

 乳人との政岡は、若君は病気だと偽って、自ら殿中で飯をたき、その魔手から鶴千代を守っているが、そこへ悪人一味の栄御前(山名宗全の奥方)と八や汐(仁木弾正の妹)が来て、将軍家から見舞いの菓子を差し出す。

 政岡は、それが毒入りであることを知りながらも、届け主が届け主だけにどうすることもできない。そこへ奥から政岡の実子、千松が飛び出してその菓子を食べ、たちまち毒にあたって苦しむ。

 毒殺が露見するのを恐れた八汐は、すぐに千松を刺し殺すが、それを見ても母親である政岡は眉一つ動かさない。栄御前は、この態度に、政岡がわが子を若君に仕立ているものと錯覚し、一味の連判状をあずけて帰る。

 一方、妖術使いの仁木弾正は、その連判状を鼠に化けて奪うが、床下に隠れていた忠臣の荒獅子男之助に発見され鉄扇をくらう。

 仁木弾正に謀反の廉ありと、渡辺外記左衛門は幕府に訴えるが、一味に加担の山名宗全は全くとりあわず、あわや敗訴となりかけたとき、細川勝元が登場して弾正の悪事をあばく。もはやこれまでと悟った弾正は隙をみて渡辺外記左衛門を切り殺そうとするが、ついに討ち取られる。

 舞台で政岡役の片桐は完全な女に化けていた。これがあの片桐かと思えるほど、堂々たる容貌の政岡である。背丈一六四センチで中肉中背だが、腹は出ている。頭髪は薄く坊主頭に近い。目はギョロ目で歌舞伎役者の初代市川猿之助に似ていると誰かが言っていた。わが一人息子が毒殺されるのを平気でいられる政岡を演じる片桐の顔が、あの告訴事件の時の顔とだぶってくる。

 柳原にはなにか、片桐の演技に殺気立ったようなものを感じながらも、自分をギリギリまで追い込み自滅していくようにも思えてくる。それはなぜなのか。柳原は先ほどから思案している。素人顔見世で主役の女形を演じたからには、これほどの力量のある人は歓迎されこそすれ、嫌われることはない。片桐はあの事件以降、晴れがましいところには一切、出ていない。 なのに、素人顔見世という京の町でもっとも晴れがましい舞台に登場した。なぜなんだ。京の人として認めてもらいたいからか。それならそれでいい。そう思いながらも柳原は納得しかねていた。京には分限、分際思想が根強い。分を重んじ、分以上のことを嫌う。それは古都千二百年の歴史の中で学んだ京の人の知恵かもしれない。

 片桐が京都素人顔見世で主役を演じることは、分を超えているのではないか。他所から来て倒産寸前の山城相互銀行を建て直したぐらいの分際でええかっこうするな。少なくともそう思う京の人間はいるはずだ。そうだとしたら彼らは旧い秩序感覚を守ることに生き甲斐を覚えているところがあるので、片桐の足を引っ張ろうとするに違ない。秩序、序列という目に見えない網を破る者は必ず排斥されると柳原は感じていた。

 この千代萩には、当時のA京都府副知事、S京都市助役をはじめ、京都ホテル社長、西陣信用金庫理事長、京大総長、タクシーのMKグループ会長、版画家のK氏、京都府医・歯科会会長ら地元有力者が共演していた。このほか、京都素人顔見世そのものには京都府知事、京都商工会議所会頭ら、京都の政財界の顔となっている人たちはもとより、老舗の経営者、病院の医院長、ミス着物ら、いわゆる京の名士約百十名がこぞって参加している。

 

■岡田 清治プロフィール

1942年生まれ ジャーナリスト

(編集プロダクション・NET108代表)

著書に『高野山開創千二百年 いっぱんさん行状記』『心の遺言』『あなたは社員の全能力を引き出せますか!』『リヨンで見た虹』など多数

※この物語に対する読者の方々のコメント、体験談を左記のFAXかメールでお寄せください。

今回は「就職」「日本のゆくえ」「結婚」「夫婦」「インド」「愛知県」についてです。物語が進行する中で織り込むことを試み、一緒に考えます。

FAX‥0569―34―7971

メール‥takamitsu@akai-shinbunten.net

 

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姪の就職2

 十二月中旬、柳原の自宅で机の上に、いつものようにその日の郵便物を女房が整えていた。その中に筆で宛名書きした白の角封筒があった。裏を返すと、山城相互銀行の片桐齊造からである。開封すると、素人顔見世の招待券が二枚同封されている。柳原は片桐の名前を見て一瞬、ギクリとした。柳原が片桐を知ったのは司法記者をしているときである。金融機関のトップである片桐が会社幹部と彼の叔父を相手に地裁で壮絶な争いを演じ、いまもその裁判が続いていたからだ。

 柳原は大阪からきた片桐という男は記者クラブの仕組みをはじめ、京都の土地柄を全く解っていないと、自宅まで忠告に出かけたことがあった。昭和四十八年の年の瀬も迫った、雪の降る寒い夜。宝ヶ池の近くにある片桐の家は比叡おろしをまともに受け、通された応接室の小型石油ストーブでは不足だった。身体を震わせながら待っていると、ほどなく和服に着替えた片桐が入ってきた。

「こんばんは。夜分、失礼とは思ったのですが、知っておいてほしいというか、聞いておいてほしいと思い出かけてきました」

「といいますと…」

「京都では目立ったことをしたら、必ず失敗します。そらぁー、会社の幹部を告訴するにはそれなりの理由と決断があるでしょうが…。でも、京都は旧い街です。地縁、人縁の結びつきは、他所から来た者には想像を超えるものがあります。建前と本音が全く違うのです。この京都というところは、とくにそうなんです」

「そうでしょうな」

「あなたの行動を見ていると危なっかしくて心配なんです」

「どうしろと、おっしゃるんですか」

「とにかく気を付けてくださいよ。それに告訴する以上は、きちんと記者会見しなければならないのに、社長のあなたが出席できないでは通らないのです」

「……」

「それだけの覚悟をもっていないと結局、ダメなのです」

 柳原はせわしくしゃべった。片桐夫人が運んでくれたお茶にも口をつけず、用件だけを言い終わると夜道、タクシーを拾うために国立国際会館に向かって歩いた。片桐は柳原がしゃべっている時も、そのあともほとんど沈黙を保った。(百も承知なのに、わざわざそんなことを言うために来たのかと失望したのかも知れない。それとも彼らの回し者と誤解されたのではないだろうか)

 柳原は誰に頼まれたことでもなかった。京都司法記者クラブでの幹事という立場で、このニュースを早くキャッチしていた。それに加えて記者個人として片桐という人物を知って興味を持ったに過ぎない。柳原自身、途中入社のうえに、よそ者だから京都では苦労している。片桐に対して同じ大阪人というだけではなく、なにか共通のものを持っているような気がして親しみを感じていた。柳原は大阪・南河内の出身で、昭和四十年、東京の私大を卒業したが、この年は山陽特殊鋼が五百億円の負債を抱えて倒産、さらに証券界では山一証券の倒産が噂されるほど、世は不景気の時代だった。前年のオリンピック景気の反動である。所得倍増政策論の池田首相が死去したのもこの年の八月、一つの時代の終焉のようであった。

 柳原はマスコミ志望だったが、うまくいかず知人を通じて大物政治家の見習い秘書のようなことしていた。その政治家の事務所へ日本新聞協会の役員Sが挨拶に来た。部屋にいた柳原も紹介された。この縁で柳原は後日、京都の地元紙に入社することができた。当時は縁故採用というのが結構な数を占めていた。

 地元紙は『京都日日新聞』と『京都H新聞』が昭和十七年に合併して誕生した。その小史によると、『京都H新聞』を創刊した人物が、『京都商事迅報』を発刊した明治十二年を合併後の地元紙の創刊の年としているという。この年、大阪の朝日新聞が誕生している。新聞の黎明期である。『京都商事迅報』を経営していた、その人物は印刷会社も兼業していたが、いまだに『京都商事迅報』の実物は見つかっていないようだ。その人物は後に京都商工会議所会頭、衆議院議員と一躍、京都の名士になったが、貿易事業の失敗でマスコミ事業からも身を引いたという。明治以降、「京都」と名の付く新聞が多かったと、地元紙の小史は伝えている。

 日本新聞協会の役員Sは戦時中、会社組織のもつれから退社、日本人絹織物統制株式会社に移るが、昭和二十年三月、京都H新聞の主幹で復帰。当時の社長が市会の議長となって退社したので、Sに白羽の矢が立った。復帰の翌年、社長に就任、中興の祖となる。

「Sは東大大学院にいたときに、関東大震災に遭い、人生観が変わった。学者になる道を捨て、一番興味のあった新聞社を選んだ。紹介者がサラリーマンで終わるなら朝日でも毎日でもいいが、洋行させてもらって部長になったらサラリーマンはしまいだ。それでは新聞をやったことにはならんぜといわれ、これは名言だと思った」

 そういういきさつでSは京都H新聞に入った経緯を政治家の事務所で披歴した。Sの話は地方紙の役割についても及んだ。高度経済成長期で世の中は大量生産、大量販売の最中だったが、(必ず地方の時代が来る)と断言していた。柳原はSの話を聞いて地方紙に興味をもった。柳原が京都でSに再び会ったのはその一年後である。はじめSの秘書となるが、すぐに希望の編集局へ配属され社会部記者としてスタート。裁判所を担当。そこで片桐という経営者を知った。あれから十二年経つ。

 片桐齊造が素人顔見世に出るという。それも女形で主役の乳母・政岡を演じる。素人顔見世は京の政界人、財界人、文化人の顔見世であり、これに出演できることは、京の人として認知されることを暗黙のうちに了解している風であった。片桐は大阪の浪華銀行から山城相互銀行の再建のために送り込まれていた。よく持ちこたえている。ただの経営者でないことは確かだが、どうしてそこまで頑張るのだろうと柳原は疑問を抱くのだった。

 柳原は片桐の出演する歌舞伎に強く魅ひかれるものがあった。千代萩のストーリーだけでも頭を入れておこうと、河原町三条の大型書店に立ち寄って『歌舞伎入門』(和角仁著)を買った。歌舞伎の好きな人なら千代萩と聞いただけで、すぐ場面を想い浮かべるぐらい有名である。

 これは江戸中期の仙台藩の伊達家のお家騒動を題材にしたものだ。『歌舞伎入門』からあらすじを紹介しておこう。

 ―足利頼兼が吉原の遊女にうつつをぬかしている隙に、仁木弾正一味は、主家の横領たくらみ、若君の鶴千代を毒殺しようとする。

 乳人との政岡は、若君は病気だと偽って、自ら殿中で飯をたき、その魔手から鶴千代を守っているが、そこへ悪人一味の栄御前(山名宗全の奥方)と八や汐(仁木弾正の妹)が来て、将軍家から見舞いの菓子を差し出す。

 政岡は、それが毒入りであることを知りながらも、届け主が届け主だけにどうすることもできない。そこへ奥から政岡の実子、千松が飛び出してその菓子を食べ、たちまち毒にあたって苦しむ。

 毒殺が露見するのを恐れた八汐は、すぐに千松を刺し殺すが、それを見ても母親である政岡は眉一つ動かさない。栄御前は、この態度に、政岡がわが子を若君に仕立ているものと錯覚し、一味の連判状をあずけて帰る。

 一方、妖術使いの仁木弾正は、その連判状を鼠に化けて奪うが、床下に隠れていた忠臣の荒獅子男之助に発見され鉄扇をくらう。

 仁木弾正に謀反の廉ありと、渡辺外記左衛門は幕府に訴えるが、一味に加担の山名宗全は全くとりあわず、あわや敗訴となりかけたとき、細川勝元が登場して弾正の悪事をあばく。もはやこれまでと悟った弾正は隙をみて渡辺外記左衛門を切り殺そうとするが、ついに討ち取られる。

 舞台で政岡役の片桐は完全な女に化けていた。これがあの片桐かと思えるほど、堂々たる容貌の政岡である。背丈一六四センチで中肉中背だが、腹は出ている。頭髪は薄く坊主頭に近い。目はギョロ目で歌舞伎役者の初代市川猿之助に似ていると誰かが言っていた。わが一人息子が毒殺されるのを平気でいられる政岡を演じる片桐の顔が、あの告訴事件の時の顔とだぶってくる。

 柳原にはなにか、片桐の演技に殺気立ったようなものを感じながらも、自分をギリギリまで追い込み自滅していくようにも思えてくる。それはなぜなのか。柳原は先ほどから思案している。素人顔見世で主役の女形を演じたからには、これほどの力量のある人は歓迎されこそすれ、嫌われることはない。片桐はあの事件以降、晴れがましいところには一切、出ていない。 なのに、素人顔見世という京の町でもっとも晴れがましい舞台に登場した。なぜなんだ。京の人として認めてもらいたいからか。それならそれでいい。そう思いながらも柳原は納得しかねていた。京には分限、分際思想が根強い。分を重んじ、分以上のことを嫌う。それは古都千二百年の歴史の中で学んだ京の人の知恵かもしれない。

 片桐が京都素人顔見世で主役を演じることは、分を超えているのではないか。他所から来て倒産寸前の山城相互銀行を建て直したぐらいの分際でええかっこうするな。少なくともそう思う京の人間はいるはずだ。そうだとしたら彼らは旧い秩序感覚を守ることに生き甲斐を覚えているところがあるので、片桐の足を引っ張ろうとするに違ない。秩序、序列という目に見えない網を破る者は必ず排斥されると柳原は感じていた。

 この千代萩には、当時のA京都府副知事、S京都市助役をはじめ、京都ホテル社長、西陣信用金庫理事長、京大総長、タクシーのMKグループ会長、版画家のK氏、京都府医・歯科会会長ら地元有力者が共演していた。このほか、京都素人顔見世そのものには京都府知事、京都商工会議所会頭ら、京都の政財界の顔となっている人たちはもとより、老舗の経営者、病院の医院長、ミス着物ら、いわゆる京の名士約百十名がこぞって参加している。