■杉本武之プロフィール

1939年 碧南市に生まれる。

京都大学文学部卒業。

翻訳業を経て、小学校教師になるために愛知教育大学に入学。

25年間、西尾市の小中学校に勤務。

定年退職後、名古屋大学教育学部の大学院で学ぶ。

〈趣味〉読書と競馬

 

【45】日本映画(その6)

◎山田洋次監督

 日本映画の歴史の中で最も人々から愛された作品はシリーズ『男はつらいよ』です。

 1969年の第1作『男はつらいよ』から始まり、1995年の『男はつらいよ・寅次郎紅の花』まで、26年間、盆と正月の公開に合わせて中断することなく作り続けられました。最後の作品が完成した7ヶ月後に、主人公・車寅次郎役の渥美清が死亡しました。彼の死と共に、全国民に愛され続けたシリーズ『男はつらいよ』は終幕を迎えました。全部で48作。世界の映画史上最も長く続いた同一監督・同一主演者の映画としてギネス・ブックにも載りました。

 山田洋次監督は、『男はつらいよ』を年に2作品、腕の良い職人のようにきちんと作り上げるだけでなく、その間に、自分の撮りたい映画も作りました。全てが秀作です。『家族』『故郷』『同胞』『幸福の黄色いハンカチ』『遥かなる山の呼び声』『学校』。

 中でも高倉健主演の『幸福の黄色いハンカチ』(1977年)は傑作です。数多くの黄色いハンカチが青空に鯉幟のように翻るラストシーンは本当に感動的です。

 | 山田洋次は、昭和6年(1931)9月13日、大阪で生まれた。父親が技師として満州鉄道に勤めていた関係で、洋次は3歳の時に日本を離れて満州国に渡った。奉天(現・瀋陽)、ハルピン、新京(現・長春)、大連と、満州国内を転々とした。小学4年の時に父親が東京支店に転勤したので、東京に住むようになった。都立八中に入学するが、再び大連に渡り、大連一中に入学した。

 敗戦。自宅が八路軍に接収され、日本に引き揚げるまでの1年半は苦しい生活を送った。ようやく日本に帰って来て、山口県宇部の親戚の家の納屋みたいなところで暮らした。宇部中学に入学した。日本の田舎の生活習慣に馴染めなかった。引揚者としての気後れで、友だちも出来ず、塞いだ卑屈な気分で中学生活を送った。教室では誰とも口をきかなかった。そのうちに、両親が離婚した。彼は、ひたすら勉強に打ち込んだ。そして、旧制山口高校に進学した。

 昭和25年(1950)、東京大学法学部に入学した。大学受験の費用は親戚がバックアップしてくれた。浪人中、彼は行商して生活費を稼いでいた。昭和29年、松竹に入社した時、まず実感したのは撮影所で出る食事のありがたさであった。

 「朝、昼、晩、食堂に行くと、山盛りのご飯があって、食べる心配がないという喜びは大変なものだった」

 学生時代に映画サークルに入っていた。内向的な自分の性格を変えたいためだった。官僚にならずに、映画会社を志望したのも、引きこもりがちな自分を内側から開放して無理矢理にでも外に押し出して生きたいと考えたからであった。

 東大法学部を卒業すると、松竹大船撮影所の助監督部に入社した。1年先に篠田正浩、同期に大島渚、1年後に吉田喜重と石堂淑朗など、後に「松竹ヌーベルバーグ」を形成する人々がいた。彼らの前衛的な動きには同調せず、山田は地道な大衆路線を進んだ。第1回作品は喜劇の『二階の他人』。第2作は倍賞千恵子主演の『下町の太陽』であった。続いてハナ肇主演の『馬鹿まるだし』を作った。この『馬鹿まるだし』と2年後の『なつかしい風来坊』が、『男はつらいよ』以前の山田の初期の代表作だと言われている。

◎『男はつらいよ』

 映画『男はつらいよ』は昭和44年(1969)12月に一般公開されました。作品そのものも良く出来ており、興行成績も良かったので、直ちにシリーズ化されることになりました。どの作品もヒットして、とうとう48作品も続いて作られるようになりました。

 よく知られているように、『男はつらいよ』は、もともとテレビシリーズとして企画され、1968年10月から翌年3月までフジテレビ系列で放映されました。フジテレビが山田洋次に「渥美清の主演で、愚かな兄と賢い妹のシナリオを書いて欲しい」と依頼したのでした。山田と渥美が会って話し合いました。渥美は、若い頃に付き合っていたテキヤの話を面白おかしく喋りました。その話からヒントを得て、山田はフーテンの車寅次郎と賢明な妹のさくらの物語を作り上げました。脚本だけで、演出はしませんでした。

 このテレビドラマは、視聴率が特に高かったわけではありませんが、最終回で寅次郎が旅先の島でハブに噛まれて死ぬと、寅次郎を死なせるのは可哀想だというファンの抗議がテレビ局に殺到しました。それを知った山田は、ファンの要望に応えるために、劇場用映画の企画として松竹に提出しました。会社は渋々と受け入れました。

 しかし、『男はつらいよ』が封切られると、観客動員数は56万人を数えました。会社は直ちにシリーズ化することにしました。その後の作品も人気が続き、第8作『寅次郎恋歌』で動員数100万人を超えました。そして、第10作『寅次郎夢枕』で200万人を突破しました。シリーズの最大動員数は第12作『私の寅さん』の242万人です。

 偉大な映画監督・黒澤明は次のように山田洋次を称えています。「山田君にも言ったんだ、何が尊敬出来るって、『寅さん』のシリーズをあれだけ撮り続けることだよって。出てくる人の一人一人の性格をちゃんと書き込めているから出来ることなんだろうね」

 私は、シリーズ『男はつらいよ』の大半を観ています。好きな作品を挙げます。( )はマドンナ役の女優です。 第1作『男はつらいよ』(光本幸子)、第5作『望郷篇』(長山藍子)、第12作『私の寅さん』(岸恵子)、第17作『寅次郎夕焼け小焼け』(太地喜和子)、第25作『寅次郎ハイビスカスの花』(浅丘ルリ子)、第27作『浪花の恋の寅次郎』(松坂慶子)。

 第1作『男はつらいよ』の内容はこうです。

 |20年ぶりに故郷の葛飾柴又へ帰ってきたテキヤの車寅次郎(渥美清)は、長く別れていた妹のさくら(倍賞千恵子)と再会する。さくらの見合いに出席して、粗暴な言動によって座を白けさせ、縁談を破談にしてしまう。旅に出た寅さんは、奈良で、お寺巡りをしていた柴又帝釈天の御前様(笠智衆)と娘の冬子(光本幸子)に出会う。冬子に一目惚れして、二人に従って柴又へ戻って来る。世話になっている叔父(森川信)の団子屋の裏の印刷屋の工員・諏訪博(前田吟)がさくらにプロポーズする。寅さんは反対するが、結局二人は結婚する。一方、寺のお嬢さん・冬子に対する寅さんの想いは増していく。寅さんは、釣り道具を持って、江戸川で釣りをすることを約束していた冬子を誘いにお寺に赴く。縁先で、冬子が品の良い紳士と話している。冬子(寅に気づいて)「あら…」。寅「あ、お客さんですか」。冬子「御免なさい、今日、お約束してたんだわねぇ」。寅「いえ、いいんです、いいんです」。相手は冬子の婚約者だった。傷心の寅さんは旅に出る。

 かくして、寅さんは失恋し、その後も失恋し続けることになります。

 

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【45】日本映画(その6)

◎山田洋次監督

 日本映画の歴史の中で最も人々から愛された作品はシリーズ『男はつらいよ』です。

 1969年の第1作『男はつらいよ』から始まり、1995年の『男はつらいよ・寅次郎紅の花』まで、26年間、盆と正月の公開に合わせて中断することなく作り続けられました。最後の作品が完成した7ヶ月後に、主人公・車寅次郎役の渥美清が死亡しました。彼の死と共に、全国民に愛され続けたシリーズ『男はつらいよ』は終幕を迎えました。全部で48作。世界の映画史上最も長く続いた同一監督・同一主演者の映画としてギネス・ブックにも載りました。

 山田洋次監督は、『男はつらいよ』を年に2作品、腕の良い職人のようにきちんと作り上げるだけでなく、その間に、自分の撮りたい映画も作りました。全てが秀作です。『家族』『故郷』『同胞』『幸福の黄色いハンカチ』『遥かなる山の呼び声』『学校』。

 中でも高倉健主演の『幸福の黄色いハンカチ』(1977年)は傑作です。数多くの黄色いハンカチが青空に鯉幟のように翻るラストシーンは本当に感動的です。

 | 山田洋次は、昭和6年(1931)9月13日、大阪で生まれた。父親が技師として満州鉄道に勤めていた関係で、洋次は3歳の時に日本を離れて満州国に渡った。奉天(現・瀋陽)、ハルピン、新京(現・長春)、大連と、満州国内を転々とした。小学4年の時に父親が東京支店に転勤したので、東京に住むようになった。都立八中に入学するが、再び大連に渡り、大連一中に入学した。

 敗戦。自宅が八路軍に接収され、日本に引き揚げるまでの1年半は苦しい生活を送った。ようやく日本に帰って来て、山口県宇部の親戚の家の納屋みたいなところで暮らした。宇部中学に入学した。日本の田舎の生活習慣に馴染めなかった。引揚者としての気後れで、友だちも出来ず、塞いだ卑屈な気分で中学生活を送った。教室では誰とも口をきかなかった。そのうちに、両親が離婚した。彼は、ひたすら勉強に打ち込んだ。そして、旧制山口高校に進学した。

 昭和25年(1950)、東京大学法学部に入学した。大学受験の費用は親戚がバックアップしてくれた。浪人中、彼は行商して生活費を稼いでいた。昭和29年、松竹に入社した時、まず実感したのは撮影所で出る食事のありがたさであった。

 「朝、昼、晩、食堂に行くと、山盛りのご飯があって、食べる心配がないという喜びは大変なものだった」

 学生時代に映画サークルに入っていた。内向的な自分の性格を変えたいためだった。官僚にならずに、映画会社を志望したのも、引きこもりがちな自分を内側から開放して無理矢理にでも外に押し出して生きたいと考えたからであった。

 東大法学部を卒業すると、松竹大船撮影所の助監督部に入社した。1年先に篠田正浩、同期に大島渚、1年後に吉田喜重と石堂淑朗など、後に「松竹ヌーベルバーグ」を形成する人々がいた。彼らの前衛的な動きには同調せず、山田は地道な大衆路線を進んだ。第1回作品は喜劇の『二階の他人』。第2作は倍賞千恵子主演の『下町の太陽』であった。続いてハナ肇主演の『馬鹿まるだし』を作った。この『馬鹿まるだし』と2年後の『なつかしい風来坊』が、『男はつらいよ』以前の山田の初期の代表作だと言われている。

 

 

◎『男はつらいよ』

 映画『男はつらいよ』は昭和44年(1969)12月に一般公開されました。作品そのものも良く出来ており、興行成績も良かったので、直ちにシリーズ化されることになりました。どの作品もヒットして、とうとう48作品も続いて作られるようになりました。

 よく知られているように、『男はつらいよ』は、もともとテレビシリーズとして企画され、1968年10月から翌年3月までフジテレビ系列で放映されました。フジテレビが山田洋次に「渥美清の主演で、愚かな兄と賢い妹のシナリオを書いて欲しい」と依頼したのでした。山田と渥美が会って話し合いました。渥美は、若い頃に付き合っていたテキヤの話を面白おかしく喋りました。その話からヒントを得て、山田はフーテンの車寅次郎と賢明な妹のさくらの物語を作り上げました。脚本だけで、演出はしませんでした。

 このテレビドラマは、視聴率が特に高かったわけではありませんが、最終回で寅次郎が旅先の島でハブに噛まれて死ぬと、寅次郎を死なせるのは可哀想だというファンの抗議がテレビ局に殺到しました。それを知った山田は、ファンの要望に応えるために、劇場用映画の企画として松竹に提出しました。会社は渋々と受け入れました。

 しかし、『男はつらいよ』が封切られると、観客動員数は56万人を数えました。会社は直ちにシリーズ化することにしました。その後の作品も人気が続き、第8作『寅次郎恋歌』で動員数100万人を超えました。そして、第10作『寅次郎夢枕』で200万人を突破しました。シリーズの最大動員数は第12作『私の寅さん』の242万人です。

 偉大な映画監督・黒澤明は次のように山田洋次を称えています。「山田君にも言ったんだ、何が尊敬出来るって、『寅さん』のシリーズをあれだけ撮り続けることだよって。出てくる人の一人一人の性格をちゃんと書き込めているから出来ることなんだろうね」

 私は、シリーズ『男はつらいよ』の大半を観ています。好きな作品を挙げます。( )はマドンナ役の女優です。 第1作『男はつらいよ』(光本幸子)、第5作『望郷篇』(長山藍子)、第12作『私の寅さん』(岸恵子)、第17作『寅次郎夕焼け小焼け』(太地喜和子)、第25作『寅次郎ハイビスカスの花』(浅丘ルリ子)、第27作『浪花の恋の寅次郎』(松坂慶子)。

 第1作『男はつらいよ』の内容はこうです。

 |20年ぶりに故郷の葛飾柴又へ帰ってきたテキヤの車寅次郎(渥美清)は、長く別れていた妹のさくら(倍賞千恵子)と再会する。さくらの見合いに出席して、粗暴な言動によって座を白けさせ、縁談を破談にしてしまう。旅に出た寅さんは、奈良で、お寺巡りをしていた柴又帝釈天の御前様(笠智衆)と娘の冬子(光本幸子)に出会う。冬子に一目惚れして、二人に従って柴又へ戻って来る。世話になっている叔父(森川信)の団子屋の裏の印刷屋の工員・諏訪博(前田吟)がさくらにプロポーズする。寅さんは反対するが、結局二人は結婚する。一方、寺のお嬢さん・冬子に対する寅さんの想いは増していく。寅さんは、釣り道具を持って、江戸川で釣りをすることを約束していた冬子を誘いにお寺に赴く。縁先で、冬子が品の良い紳士と話している。冬子(寅に気づいて)「あら…」。寅「あ、お客さんですか」。冬子「御免なさい、今日、お約束してたんだわねぇ」。寅「いえ、いいんです、いいんです」。相手は冬子の婚約者だった。傷心の寅さんは旅に出る。

 かくして、寅さんは失恋し、その後も失恋し続けることになります。