■杉本武之プロフィール

1939年 碧南市に生まれる。

京都大学文学部卒業。

翻訳業を経て、小学校教師になるために愛知教育大学に入学。

25年間、西尾市の小中学校に勤務。

定年退職後、名古屋大学教育学部の大学院で学ぶ。

〈趣味〉読書と競馬

 

【40】日本映画(その1)

◎日本映画の黄金時代

 戦争前の昭和14年(1939)に生まれた私は、今年で80歳になりました。こんなに長く生きられるとは思ってもいませんでした。

 80年という長い年月を生きてきて、何が最も幸運だったか。それは、私の青少年期が日本映画の最盛期と重なっていたことです。10歳から20歳までの多感な青少年時代の10年間が、正に日本映画の輝かしい黄金時代だったのです。

 敗戦後間もない日本に、稀に見る充実した一時期が映画の世界で現出しました。それは、西鶴、近松、芭蕉などを輩出した元禄時代の文学の世界、そして歌麿、写楽、北斎らが活躍した寛政から文化文政時代の浮世絵の世界に匹敵するほどの黄金時代でした。

 特に黒澤明、小津安二郎、溝口健二の三人の活躍は目覚ましく、彼らは現在でも世界映画の最高峰に位置付けられ、映画を愛する世界中の人々から尊敬されています。

 三大巨匠の他にも、木下恵介、今井正、成瀬巳喜男、市川崑、山本薩夫、新藤兼人、吉村公三郎などがいました。

 日本が戦争に負けた時、溝口は47歳、小津は42歳、成瀬は40歳、黒澤は35歳、木下と今井は33歳でした。豊かな才能に恵まれた彼らは、互いに切磋琢磨して、自らの目指す映画作りに邁進しました。そして、昭和24年(1949)頃から、世界映画の歴史に残る傑作が次々と作られていきました。

 具体的に、昭和24年から昭和34年までの日本映画の題名を列挙してみます。

 黒澤明『野良犬』『羅生門』『白痴』『生きる』『七人の侍』『生きものの記録』『蜘蛛巣城』。小津安二郎『晩春』『麦秋』『東京物語』『彼岸花』。成瀬巳喜男『おかあさん』『あにいもうと』『晩菊』『浮雲』。溝口健二『西鶴一代女』『雨月物語』『祇園囃子』『山椒大夫』『近松物語』。木下恵介『カルメン故郷に帰る』『日本の悲劇』『二十四の瞳』『野菊の如き君なりき』『楢山節考』。今井正『また逢う日まで』『ひめゆりの塔』『にごりえ』『ここに泉あり』『キクとイサム』。市川崑『ビルマの竪琴』『炎上』『野火』。山本薩夫『真空地帯』『荷車の歌』。新藤兼人『原爆の子』『縮図』。吉村公三郎『夜明け前』『足摺岬』『夜の河』。

 若い人にはピンと来ないかも知れませんが、私と同年代の人たちは、こうした名作の題名を見て旧懐の情が湧き出るでしょう。暗い貧困生活を送っていた私たちは、同じく暗い映画館の中で、生きる力と勇気と希望を与えてくれる数々の名作を観ていたのです。

◎小津安二郎『東京物語』

 何から取り上げてもいいのですが、日本映画の至宝『東京物語』から始めます。

 『東京物語』がどれほどの名作であるかを示す証拠があります。世界で最も信頼性が高く、権威があるとされている英国の映画雑誌「サイト・アンド・サウンド」が、今から7年前に世界の現役映画監督に対して「映画史上最高の作品を10点挙げよ」というアンケートを実施しました。その結果、日本映画の『東京物語』が第1位に選ばれました。

 2位以下には次のような作品が選出されました。

 『2001年字宙の旅』『市民ケーン』『タクシードライバー』『地獄の黙示録』『ゴッドファーザー』『めまい』『鏡』『自転車泥棒』……。

 映画史上最高の作品に選ばれた『東京物語』を作った監督は、もう50年以上も前に亡くなった小津安二郎です。彼は実に魅力的な人でした。

 彼はこんなことを語っていました。「僕の生活信条として、何でもないことは流行に従う。重要なことは道徳に従う。芸術のことは自分に従う」

 小津は、明治36年(1903)12月12日に東京で生まれ、昭和38年(1963)12月12 日に東京で亡くなりました。ぴったり60歳の還暦を迎えた日に、誕生したのと同じ東京で死去したのです。時刻も同じだったかどうかは知りません。

 小津が死んだ時、私は大学生でした。映画部に入っていて、映画に熱中していました。小津の死を知り、「巨星墜つ」という感慨を抱きました。小学生の頃から彼の映画が大好きで、封切られると、必ずと言っていいほど観に行きました。どの作品も同じように好きで、甲乙つけがたいですが、やはり『東京物語』が最高の傑作だと思います。

 小津は『東京物語』の制作意図を次のように語っています。

 「この物語の老父母は、自分たちに対する子どもたちの愛情にふと幻滅を感じて淋しい気持ちに襲われる。ただそれだけで、私は、どちらの愛情を否定しようとか、また強調したりする気持ちは無い。強いて言えば、“親と子の関係を描く”そのことだ」

 尾道に住む平山周吉(笠智衆)と妻のとみ(東山千栄子)の老夫婦が東京へ行く旅の支度をしている。隣家の細君が部屋の前を通りかかり、挨拶を交わす。周吉は「まァ今のうちに子供たちにも会っとこうと思いましてなあ」と話す。

 東京に着いた老夫婦は、町医者をしている長男の幸一(山村聡)や美容院を経営している長女の志げ(杉村春子)の家を訪れる。しかし、長男と長女は多忙で丁重に面倒を見てくれない。挙句の果てに老夫婦は熱海の温泉に追いやられるが、そこも落ち着いて寛げる所ではなかった。早々に引き上げて帰って来てしまう。

 戦争で死んだ次男の未亡人の紀子(原節子)が、老夫婦と一緒にバスの東京見物に同行する。案内した後、住んでいる安アパートに連れて来て二人を優しくもてなす。

 老夫婦は東京の旅を終えて帰途につく。途中、とみが加減が悪くなり、大阪で下車し、国鉄に勤める三男の敬三(大坂志郎)の下宿で一泊する。

 尾道に戻った後、とみが脳溢血で危篤になる。東京から幸一、志げ、紀子が駆けつけ、昏睡の母を徹夜で見守る。夜明けとともに母は死ぬ。出張中だった鉄道員の三男は母の死に目に会えなかった。

 葬儀の後、家族は料理屋で会食をする。実の子どもたちは早々とその日の夜に帰って行く。残ったのは紀子だけになった。やがて紀子の帰る日が来た。故郷で教師をしている末娘の京子(香川京子)が兄や姉の薄情さを紀子に訴える。紀子は義父の周吉に昼過ぎの汽車で東京に帰ると告げる。周吉は紀子に亡妻の時計を形見として渡す。

 映画は、冒頭と同じ平山家の一室でぼんやりと海を眺めている周吉を映し出す。部屋の前を隣家の細君が通りかかる。

 周吉「一人になると、急に日が永うなりますわい……」

 細君「まったくなァ……。お寂しいこってすなァ……」

 周吉「いやァ……」

 ポンポン蒸気が行き交う夏の瀬戸内海の遠景。映画は余韻を残して終わる。

 

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【40】日本映画(その1)

◎日本映画の黄金時代

戦争前の昭和14年(1939)に生まれた私は、今年で80歳になりました。こんなに長く生きられるとは思ってもいませんでした。

 80年という長い年月を生きてきて、何が最も幸運だったか。それは、私の青少年期が日本映画の最盛期と重なっていたことです。10歳から20歳までの多感な青少年時代の10年間が、正に日本映画の輝かしい黄金時代だったのです。

 敗戦後間もない日本に、稀に見る充実した一時期が映画の世界で現出しました。それは、西鶴、近松、芭蕉などを輩出した元禄時代の文学の世界、そして歌麿、写楽、北斎らが活躍した寛政から文化文政時代の浮世絵の世界に匹敵するほどの黄金時代でした。

 特に黒澤明、小津安二郎、溝口健二の三人の活躍は目覚ましく、彼らは現在でも世界映画の最高峰に位置付けられ、映画を愛する世界中の人々から尊敬されています。

 三大巨匠の他にも、木下恵介、今井正、成瀬巳喜男、市川崑、山本薩夫、新藤兼人、吉村公三郎などがいました。

 日本が戦争に負けた時、溝口は47歳、小津は42歳、成瀬は40歳、黒澤は35歳、木下と今井は33歳でした。豊かな才能に恵まれた彼らは、互いに切磋琢磨して、自らの目指す映画作りに邁進しました。そして、昭和24年(1949)頃から、世界映画の歴史に残る傑作が次々と作られていきました。

 具体的に、昭和24年から昭和34年までの日本映画の題名を列挙してみます。

 黒澤明『野良犬』『羅生門』『白痴』『生きる』『七人の侍』『生きものの記録』『蜘蛛巣城』。小津安二郎『晩春』『麦秋』『東京物語』『彼岸花』。成瀬巳喜男『おかあさん』『あにいもうと』『晩菊』『浮雲』。溝口健二『西鶴一代女』『雨月物語』『祇園囃子』『山椒大夫』『近松物語』。木下恵介『カルメン故郷に帰る』『日本の悲劇』『二十四の瞳』『野菊の如き君なりき』『楢山節考』。今井正『また逢う日まで』『ひめゆりの塔』『にごりえ』『ここに泉あり』『キクとイサム』。市川崑『ビルマの竪琴』『炎上』『野火』。山本薩夫『真空地帯』『荷車の歌』。新藤兼人『原爆の子』『縮図』。吉村公三郎『夜明け前』『足摺岬』『夜の河』。

 若い人にはピンと来ないかも知れませんが、私と同年代の人たちは、こうした名作の題名を見て旧懐の情が湧き出るでしょう。暗い貧困生活を送っていた私たちは、同じく暗い映画館の中で、生きる力と勇気と希望を与えてくれる数々の名作を観ていたのです。

◎小津安二郎『東京物語』

 何から取り上げてもいいのですが、日本映画の至宝『東京物語』から始めます。

 『東京物語』がどれほどの名作であるかを示す証拠があります。世界で最も信頼性が高く、権威があるとされている英国の映画雑誌「サイト・アンド・サウンド」が、今から7年前に世界の現役映画監督に対して「映画史上最高の作品を10点挙げよ」というアンケートを実施しました。その結果、日本映画の『東京物語』が第1位に選ばれました。

 2位以下には次のような作品が選出されました。

 『2001年字宙の旅』『市民ケーン』『タクシードライバー』『地獄の黙示録』『ゴッドファーザー』『めまい』『鏡』『自転車泥棒』……。

 映画史上最高の作品に選ばれた『東京物語』を作った監督は、もう50年以上も前に亡くなった小津安二郎です。彼は実に魅力的な人でした。

 彼はこんなことを語っていました。「僕の生活信条として、何でもないことは流行に従う。重要なことは道徳に従う。芸術のことは自分に従う」

 小津は、明治36年(1903)12月12日に東京で生まれ、昭和38年(1963)12月12 日に東京で亡くなりました。ぴったり60歳の還暦を迎えた日に、誕生したのと同じ東京で死去したのです。時刻も同じだったかどうかは知りません。

 小津が死んだ時、私は大学生でした。映画部に入っていて、映画に熱中していました。小津の死を知り、「巨星墜つ」という感慨を抱きました。小学生の頃から彼の映画が大好きで、封切られると、必ずと言っていいほど観に行きました。どの作品も同じように好きで、甲乙つけがたいですが、やはり『東京物語』が最高の傑作だと思います。

 小津は『東京物語』の制作意図を次のように語っています。

 「この物語の老父母は、自分たちに対する子どもたちの愛情にふと幻滅を感じて淋しい気持ちに襲われる。ただそれだけで、私は、どちらの愛情を否定しようとか、また強調したりする気持ちは無い。強いて言えば、“親と子の関係を描く”そのことだ」

 尾道に住む平山周吉(笠智衆)と妻のとみ(東山千栄子)の老夫婦が東京へ行く旅の支度をしている。隣家の細君が部屋の前を通りかかり、挨拶を交わす。周吉は「まァ今のうちに子供たちにも会っとこうと思いましてなあ」と話す。

 東京に着いた老夫婦は、町医者をしている長男の幸一(山村聡)や美容院を経営している長女の志げ(杉村春子)の家を訪れる。しかし、長男と長女は多忙で丁重に面倒を見てくれない。挙句の果てに老夫婦は熱海の温泉に追いやられるが、そこも落ち着いて寛げる所ではなかった。早々に引き上げて帰って来てしまう。

 戦争で死んだ次男の未亡人の紀子(原節子)が、老夫婦と一緒にバスの東京見物に同行する。案内した後、住んでいる安アパートに連れて来て二人を優しくもてなす。

 老夫婦は東京の旅を終えて帰途につく。途中、とみが加減が悪くなり、大阪で下車し、国鉄に勤める三男の敬三(大坂志郎)の下宿で一泊する。

 尾道に戻った後、とみが脳溢血で危篤になる。東京から幸一、志げ、紀子が駆けつけ、昏睡の母を徹夜で見守る。夜明けとともに母は死ぬ。出張中だった鉄道員の三男は母の死に目に会えなかった。

 葬儀の後、家族は料理屋で会食をする。実の子どもたちは早々とその日の夜に帰って行く。残ったのは紀子だけになった。やがて紀子の帰る日が来た。故郷で教師をしている末娘の京子(香川京子)が兄や姉の薄情さを紀子に訴える。紀子は義父の周吉に昼過ぎの汽車で東京に帰ると告げる。周吉は紀子に亡妻の時計を形見として渡す。

 映画は、冒頭と同じ平山家の一室でぼんやりと海を眺めている周吉を映し出す。部屋の前を隣家の細君が通りかかる。

 周吉「一人になると、急に日が永うなりますわい……」

 細君「まったくなァ……。お寂しいこってすなァ……」

 周吉「いやァ……」

 ポンポン蒸気が行き交う夏の瀬戸内海の遠景。映画は余韻を残して終わる。