姪の就職2

「考えてみると、我々も親の立場からしたらその関係は希薄だと感じていただろうね」

 真三は我が身を振り返って後悔することばかりである。親孝行したいと思う時には親はいない。もう少し寄り添って望みをかなえてあげれば、親の死後、これほどまで反省の念に駆られることはないのだが…。

 ところで先の理知的なサラリーマン女性が真三の部下だったことがある。その頃、独立心の旺盛な女性だと、秘かに尊敬の念を抱いていた。やがて語学教室で知り合った大企業の技術者と結婚、一流ホテルで式を上げ、マンションを購入―と、自前でできるほど高給取りではない。相手か自分の両親が面倒を見ていることは明白だ。

 ある若者夫婦の場合、さすがに娘の母親は「分不相応のマンションです」と、苦言を呈したので諦めた。ところが、男の母親は「私どもが支援します」ということで、娘の母親は黙り込んでしまった。相手は自慢の息子のところに、すばらしい嫁が来てくれたと手放しで喜んでいるからである。と同時に未来に向けての投資だと考えている。いずれ世話になるときが来るので、いわば保険をかけておこうという下心も感じる。いまから十分なことをしておけば、将来、助けてくれると、息子の嫁に気に入られるようにしたい―そんな気持ちが強く働く。

 息子を嫁に取られたと思う母親と、獲得したので大事にしたいと考える母親の明暗がこういうところに現れる。ただ実際、ことが思うように運ぶか、未知数である。

「嫁と姑の関係は複雑でやっかいな問題ですね」

「るり子は同居しなったから、その点は助かったのではないか」

「確かにその点は良かったわね。姉を見ていると姑にいじめられて実家に帰ってきたことが、いまも思い出されるわ」

「姉さんは結納をすましていた人を振って、旦那に嫁いだのだろう。そうであれば多少のことには堪えないとダメだろう」

「それはそうですが…」

 だからか、人口が大都市に集中し始めると、「核家族」という言葉が流行、親子は離れて暮らすようになる。田舎で元気な間、あるいは近くに住んでも同居しない。

「この前、知人から聞いた話だが、88歳のお父さんは女房が亡くなってから認知症が急速に進んだそうだ」

「そのパターンが多いようですね」

「そうだが、困ったことに認知症が進んでも、足腰が丈夫なら動き回るというのだ」

「動けるのだったらいいのではありませんか」

「ようやく自動車は廃車したのだが、朝の三時ごろから起きて両家の墓の掃除に出かけるというのだ。毎日だよ…」

「それは大変ですね」

「止められないそうだ」

「心配ですね」

「墓で思いついたのだが、るり子もしばらく両親の墓参りに行っていないだろう。僕も熊本の友人から会いたいと言ってきているので、計画を立てようか」

「そうですね」

「姉さんや妹にも声をかけるのだろう」

「姉さんは独り身になって、長男のいる福岡へ行ってしまったので、今回は声をかけません。それと熊本の妹の旦那さんが真三さに会いたがっているみたいですよ」

「この際、会っておこうか」

「妹に伝えます。喜ぶと思いますよ」

「そうか、久しぶりだからな。ただ、昼間しか時間が取れないよ。夕方は友人と会う約束だから…」

 真三は熊本への旅を計画、カレンダーで日時、列車の時刻表、宿泊先を決めながら時折、るり子の意見も聞いて取り入れた。今回の旅行を『熊本旅日記』として残し、友人にも近況報告として配信している。

―今回は二年ぶりの訪熊ですが、かつてはパートナーの故郷でもあるので、両親が健在な間は年に二、三回出かけていました。

 熊本地震後、初めて訪れました。一ヶ月前に予約しましたが、梅雨入り寸前で天候に恵まれました。熊本駅は安藤忠雄設計による熊本城の武者返しの石垣をイメージした駅に驚きました。すっかり見違えるようなモダンな風景が広がっていました。

 表面的には城以外に地震の痕跡は見当たりませんし、街はごみもなく、森の都と言われるだけあって、楠の大木など街全体が新緑で包まれていました。

 今回は三〇年来の友人S?現役?の誘いで決断しました。まず義理の妹夫婦と城の傍の郷土料理店「青柳」で食事をしました。昼食時で、テーブルはお客で埋まっていました。義理の妹の夫Wは器用で鉄人のような男です。熊大のボート部からはじまって熊本ヨット連盟の会長を経て、いまも暇を見つけて住まい近くの江津湖で早朝、ボートを浮かべゆったりした時間を過ごしているとか。

 話はボート談義でした。真三はまったく縁がなかったので、もっぱら聞き役でありました。

 五月末には大阪・高石市で開かれた全国シニアボート競技大会に参加、エイトで金賞をもらったそうです。平均年齢七十一歳で総勢1千人を超えるボート狂の人たちが集まり、その馬力に敬意を表した次第です。Wは定年後、自前のヨットで夫婦のみで日本一周の快挙を成し遂げています。

 つい最近まで母校の濟々黌のボート部で指導もしており、現在は近くの私学の高校で地理を教える現役教師です。彼の趣味も多く、合唱(コーラス)、茶道、俳句、横笛、オカリナ、彫刻、生け花などを楽しんできたようです。

 食後、義理の妹夫婦と女房の三人はWの家に行って、談笑を続けました。小生は近くの熊本キャッスルホテルで休み、友人Sと午後6時に会って、下通り(熊本の銀座通り、上通りもある)から入った路地に立つ小さな雑居ビルの中にある「小料理 清正」に出かけました。

 ここで初めて熊本地震が人々の心に大きな痕跡を残していることを知りました。店はカウンター席4席と2畳程度の座敷?に小さなテーブルが2つ所狭し並んでいます。女将一人で切り盛りしています。「材料の仕入れだけは一級品です」と胸を張っておられました。確かに刺身、馬刺しなどどれも新鮮でおいしかったです。とくに馬の肝(なかなか手に入らないとか)、シャコのてんぷらは格別でした。

 友人Sは酒豪で「瑞鷹(株)の純米大吟醸が金賞を受賞、手に入らなかったですが、“蝉”というブランドのものを持ってきました」と、残念な顔を見せながら720mlの1本と店のお酒で十一時近くまで三人で人生を語り合いました。やはり会うことの大切さを知りました。(後日、金賞のお酒を自宅に贈ってきました)

 それで地震の痕跡ですが、女将の店は地震前、上通りのビルの中にあったそうです。ところが地震でビルが半壊、オーナーはたんまり補助金が出たので建て替えることになり、テナントの多くはスズメの涙金で追い出されたそうです。

 それで先の場所に泣く泣く移り、女手ひとつで頑張っているのです。彼女の人生も苦労が多かったようですが、生きることを教えてもらいました。店を出たのは十一時前でした。

 翌日、熊本から九州の小京都言われる人吉に向かいました。結婚したころ義兄がおったので人吉に行ったのですが、記憶に残っていません。熊本から観光列車「かわせみ やませみ」の2両連結の豪華列車に乗り込みました。行きはカワセミ車両で、私ら以外は台湾からの団体客でした。球磨川に沿って列車は走り、1時間あまりで人吉駅に着きました。途中、役所の人たちが旗を振って迎えてくれるという、初めての経験もしました。

 観光協会で紹介を受けたのは、「人吉旅館」(創業・昭和8年、国登録有形文化財)ともう一つのホテルでしたが、韓国籍の女将の人吉旅館にしました。木造の旧い建物でしたが、昭和の時代の懐かしい旅館で前を球磨川が流れていました。天然温泉で料理もよかったのですが、純米酒が一つもないのが、玉にキズでした。ここは焼酎の街でした。旅館の前に与謝野晶子の「川あをく 相良の町の 蔵しろし 蓮の池に うかべるごとく」の碑が置かれていました。

 

■岡田 清治プロフィール

1942年生まれ ジャーナリスト

(編集プロダクション・NET108代表)

著書に『高野山開創千二百年 いっぱんさん行状記』『心の遺言』『あなたは社員の全能力を引き出せますか!』『リヨンで見た虹』など多数

※この物語に対する読者の方々のコメント、体験談を左記のFAXかメールでお寄せください。

今回は「就職」「日本のゆくえ」「結婚」「夫婦」「インド」「愛知県」についてです。物語が進行する中で織り込むことを試み、一緒に考えます。

FAX‥0569―34―7971

メール‥takamitsu@akai-shinbunten.net

 

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「考えてみると、我々も親の立場からしたらその関係は希薄だと感じていただろうね」

 真三は我が身を振り返って後悔することばかりである。親孝行したいと思う時には親はいない。もう少し寄り添って望みをかなえてあげれば、親の死後、これほどまで反省の念に駆られることはないのだが…。

 ところで先の理知的なサラリーマン女性が真三の部下だったことがある。その頃、独立心の旺盛な女性だと、秘かに尊敬の念を抱いていた。やがて語学教室で知り合った大企業の技術者と結婚、一流ホテルで式を上げ、マンションを購入―と、自前でできるほど高給取りではない。相手か自分の両親が面倒を見ていることは明白だ。

 ある若者夫婦の場合、さすがに娘の母親は「分不相応のマンションです」と、苦言を呈したので諦めた。ところが、男の母親は「私どもが支援します」ということで、娘の母親は黙り込んでしまった。相手は自慢の息子のところに、すばらしい嫁が来てくれたと手放しで喜んでいるからである。と同時に未来に向けての投資だと考えている。いずれ世話になるときが来るので、いわば保険をかけておこうという下心も感じる。いまから十分なことをしておけば、将来、助けてくれると、息子の嫁に気に入られるようにしたい―そんな気持ちが強く働く。

 息子を嫁に取られたと思う母親と、獲得したので大事にしたいと考える母親の明暗がこういうところに現れる。ただ実際、ことが思うように運ぶか、未知数である。

「嫁と姑の関係は複雑でやっかいな問題ですね」

「るり子は同居しなったから、その点は助かったのではないか」

「確かにその点は良かったわね。姉を見ていると姑にいじめられて実家に帰ってきたことが、いまも思い出されるわ」

「姉さんは結納をすましていた人を振って、旦那に嫁いだのだろう。そうであれば多少のことには堪えないとダメだろう」

「それはそうですが…」

 だからか、人口が大都市に集中し始めると、「核家族」という言葉が流行、親子は離れて暮らすようになる。田舎で元気な間、あるいは近くに住んでも同居しない。

「この前、知人から聞いた話だが、88歳のお父さんは女房が亡くなってから認知症が急速に進んだそうだ」

「そのパターンが多いようですね」

「そうだが、困ったことに認知症が進んでも、足腰が丈夫なら動き回るというのだ」

「動けるのだったらいいのではありませんか」

「ようやく自動車は廃車したのだが、朝の三時ごろから起きて両家の墓の掃除に出かけるというのだ。毎日だよ…」

「それは大変ですね」

「止められないそうだ」

「心配ですね」

「墓で思いついたのだが、るり子もしばらく両親の墓参りに行っていないだろう。僕も熊本の友人から会いたいと言ってきているので、計画を立てようか」

「そうですね」

「姉さんや妹にも声をかけるのだろう」

「姉さんは独り身になって、長男のいる福岡へ行ってしまったので、今回は声をかけません。それと熊本の妹の旦那さんが真三さに会いたがっているみたいですよ」

「この際、会っておこうか」

「妹に伝えます。喜ぶと思いますよ」

「そうか、久しぶりだからな。ただ、昼間しか時間が取れないよ。夕方は友人と会う約束だから…」

 真三は熊本への旅を計画、カレンダーで日時、列車の時刻表、宿泊先を決めながら時折、るり子の意見も聞いて取り入れた。今回の旅行を『熊本旅日記』として残し、友人にも近況報告として配信している。

―今回は二年ぶりの訪熊ですが、かつてはパートナーの故郷でもあるので、両親が健在な間は年に二、三回出かけていました。

 熊本地震後、初めて訪れました。一ヶ月前に予約しましたが、梅雨入り寸前で天候に恵まれました。熊本駅は安藤忠雄設計による熊本城の武者返しの石垣をイメージした駅に驚きました。すっかり見違えるようなモダンな風景が広がっていました。

 表面的には城以外に地震の痕跡は見当たりませんし、街はごみもなく、森の都と言われるだけあって、楠の大木など街全体が新緑で包まれていました。

 今回は三〇年来の友人S?現役?の誘いで決断しました。まず義理の妹夫婦と城の傍の郷土料理店「青柳」で食事をしました。昼食時で、テーブルはお客で埋まっていました。義理の妹の夫Wは器用で鉄人のような男です。熊大のボート部からはじまって熊本ヨット連盟の会長を経て、いまも暇を見つけて住まい近くの江津湖で早朝、ボートを浮かべゆったりした時間を過ごしているとか。

 話はボート談義でした。真三はまったく縁がなかったので、もっぱら聞き役でありました。

 五月末には大阪・高石市で開かれた全国シニアボート競技大会に参加、エイトで金賞をもらったそうです。平均年齢七十一歳で総勢1千人を超えるボート狂の人たちが集まり、その馬力に敬意を表した次第です。Wは定年後、自前のヨットで夫婦のみで日本一周の快挙を成し遂げています。

 つい最近まで母校の濟々黌のボート部で指導もしており、現在は近くの私学の高校で地理を教える現役教師です。彼の趣味も多く、合唱(コーラス)、茶道、俳句、横笛、オカリナ、彫刻、生け花などを楽しんできたようです。

 食後、義理の妹夫婦と女房の三人はWの家に行って、談笑を続けました。小生は近くの熊本キャッスルホテルで休み、友人Sと午後6時に会って、下通り(熊本の銀座通り、上通りもある)から入った路地に立つ小さな雑居ビルの中にある「小料理 清正」に出かけました。

 ここで初めて熊本地震が人々の心に大きな痕跡を残していることを知りました。店はカウンター席4席と2畳程度の座敷?に小さなテーブルが2つ所狭し並んでいます。女将一人で切り盛りしています。「材料の仕入れだけは一級品です」と胸を張っておられました。確かに刺身、馬刺しなどどれも新鮮でおいしかったです。とくに馬の肝(なかなか手に入らないとか)、シャコのてんぷらは格別でした。

 友人Sは酒豪で「瑞鷹(株)の純米大吟醸が金賞を受賞、手に入らなかったですが、“蝉”というブランドのものを持ってきました」と、残念な顔を見せながら720mlの1本と店のお酒で十一時近くまで三人で人生を語り合いました。やはり会うことの大切さを知りました。(後日、金賞のお酒を自宅に贈ってきました)

 それで地震の痕跡ですが、女将の店は地震前、上通りのビルの中にあったそうです。ところが地震でビルが半壊、オーナーはたんまり補助金が出たので建て替えることになり、テナントの多くはスズメの涙金で追い出されたそうです。

 それで先の場所に泣く泣く移り、女手ひとつで頑張っているのです。彼女の人生も苦労が多かったようですが、生きることを教えてもらいました。店を出たのは十一時前でした。

 翌日、熊本から九州の小京都言われる人吉に向かいました。結婚したころ義兄がおったので人吉に行ったのですが、記憶に残っていません。熊本から観光列車「かわせみ やませみ」の2両連結の豪華列車に乗り込みました。行きはカワセミ車両で、私ら以外は台湾からの団体客でした。球磨川に沿って列車は走り、1時間あまりで人吉駅に着きました。途中、役所の人たちが旗を振って迎えてくれるという、初めての経験もしました。

 観光協会で紹介を受けたのは、「人吉旅館」(創業・昭和8年、国登録有形文化財)ともう一つのホテルでしたが、韓国籍の女将の人吉旅館にしました。木造の旧い建物でしたが、昭和の時代の懐かしい旅館で前を球磨川が流れていました。天然温泉で料理もよかったのですが、純米酒が一つもないのが、玉にキズでした。ここは焼酎の街でした。旅館の前に与謝野晶子の「川あをく 相良の町の 蔵しろし 蓮の池に うかべるごとく」の碑が置かれていました。