■杉本武之プロフィール

1939年 碧南市に生まれる。

京都大学文学部卒業。

翻訳業を経て、小学校教師になるために愛知教育大学に入学。

25年間、西尾市の小中学校に勤務。

定年退職後、名古屋大学教育学部の大学院で学ぶ。

〈趣味〉読書と競馬

 

【37】外国映画(その3)

◎『黄金狂時代』

 世界の喜劇王チャールズ・チャップリンの主要な作品を製作年順に並べてみます。

 『犬の生活』(1918)、『キッド』(1921)、『偽牧師』(1923)、『黄金狂時代』(1925)、『サーカス』(1928)、『街の灯』(1931)、『モダン・タイムス』(1936)、『チャップリンの独裁者』(1940)、『チャップリンの殺人狂時代』(1947)、『ライムライト』(1952)

 全てが映画史に残る傑作ばかりです。チャップリンは、どの作品も、脚本、演出、音楽、主演に至るまで何もかも一人でやり遂げました。こんな超人的な映画作家は、古今東西、彼以外にはいません。これからも出て来ないでしょう。

 間違いなく、チャップリンという人は想像を絶する天才でした。相対性理論の物理学者アインシュタインと共に20世紀を代表する真の偉人だった、と私は思っています。

 チャップリンの作品の中で、一番好きなのは『街の灯』です。一番面白いのは『黄金狂時代』で、映画として一番完成しているのは『ライムライト』だと思います。

 『チャップリンの殺人狂時代』は、高校生の時に一人で刈谷の映画館で観ました。また、『チャップリンの独裁者』は、大学1年生の時に中学校の恩師と名古屋の映画館で観ました。その他の映画については、何時、何処で最初に観たのか、よく覚えていません。

 『黄金狂時代』もはっきり記憶していませんが、恐らく、大学生の時に京都の映画館で観たのだと思います。日記を書く習慣がなかったことが、今になって悔やまれます。

 極寒のアラスカの各地で金鉱が発見され、一攫千金を求めて多くの人が殺到した。浮浪者のチャーリーもアラスカにやって来た。猛吹雪に遭うが、運よく山小屋に避難できた。指名手配中の凶悪犯ラーセンの小屋だった。金鉱を発見した大男ジム・マッケーも風に飛ばされるようにして山小屋に入って来た。

 映画の前半は、山小屋に集結した3人の男たちの極度の飢えとの闘いが描かれます。チャーリーが自分の革靴を煮込んで食べるシーンは特に有名です。

 後半は、鉱山街の酒場の踊り子ジョージアに一目ぼれしたチャーリーの喜怒哀楽が描かれます。ジョージアとダンスしている時に、ずり落ちるズボンのベルト代わりに犬の引き綱を結んでしまう場面は本当に面白い。冗談半分に、ジョージアたちは大晦日の夜8時に訪問すると約束する。真に受けた彼は料理とプレゼントを用意して待つが、彼女たちは来ない。待ちくたびれたチャーリーは、夢の中で、ロールパンにフォークを突き刺して踊り子の脚を作り、フォークの先端を巧みに操って生きた人形のように踊らせる。この踊りのシーンは傑作として余りにも有名です。

 『黄金狂時代』は、楽しいギャグ満載の必見の映画です。

 

◎『僕の村は戦場だった』

 黒澤明は、親しかった旧ソ連の映画監督タルコフスキーの早世を悲しみました。

 「山中貞雄とタルコフスキー、特に山中は早く逝っちゃった。なんでこの二人の天才が映画界から早く逝ってしまったのか。その後もいたら、映画界は違っていたかも知れない」

 アンドレイ・タルコフスキーは、1932年4月4日、ヴォルガのイワノヴォ地区ラヴラジエに生まれました。詩人であった彼の父親は、1941年に陸軍に志願し、戦場で片足を失い、前線から帰還します。しかし、前から不和であった妻のもとには戻りませんでした。両親が離婚した後、アンドレイは、母親、祖母、そして妹と一緒に暮らしました。

 1954年、22歳の彼は、全ソ国立映画大学に入学しました。在学していた6年間、彼は彼自身の映画観を確立して行きました。1960年に卒業制作作品として『ローラーとバイオリン』を作りました。この46 分の小品は好評を博しました。

 1962年に作った長編デビュー作『僕の村は戦場だった』によって、彼はヴェネチア国際映画祭で金獅子賞(グランプリ)を獲得しました。30歳での早い受賞でした。

 その後、1966年に『アンドレイ・ルブリョフ』、1972年に『惑星ソラリス』、1974年に『鏡』、1979年に『ストーカー』、1983年に『ノスタルジア』、そして1986年に最後の作品『サクリファイス』を完成しました。

 1985年、タルコフスキーは肺ガンに侵されていることを知りました。その時、『サクリファイス』はほぼ完成していました。彼は死ぬまで、次の作品のための準備に取り組みました。計画の中には、偉大なロシアの作家ドストエフスキーや、ドイツのロマン派の幻想的な作家ホフマンの生涯を扱ったものもありました。しかし、病状は好転することなく、1986年12月28日、彼はパリで亡くなりました。54歳での早い死でした。 私は大学生の時に『僕の村は戦場だった』を観ました。両親と妹を殺害したドイツ軍に対する復讐心に燃え、戦闘に加わった12歳のイワン少年の姿を描いた映画でした。

 映画は、木の枝に張られたクモの巣の向こうからイワンがこちらを見ている場面から始まります。少年は実に穏やかな幸福な表情をしています。少年の故郷は自然に恵まれた平和な村でした。しかし、突如としてドイツ軍の猛攻を受け、村は焼き払われ、母も妹も殺されます。少年は復讐の鬼と化し、少年偵察兵として憎むべき敵国ドイツを倒すべく敢然として戦いに挑みますが、戦争が終結する時まで生き長らえることができませんでした。

 美しいシーンに満ちた素晴らしい作品だとは思いました。しかし、少し前に観た同じソ連の反戦映画『誓いの休暇』(グレゴリー・チェフライ監瞽)の方が優れているように思いました。『誓いの休暇』には若い男女の素朴の愛が描かれており、当時の私は、そうした愛の在り方に強く惹かれていました。そんな訳で、私は『僕の村は戦場だった』を余り高く評価していませんでした。

 しかし、次の作品『アンドレイ・ルブリョフ』を観た時、私は、このタルコフスキーという人は天才に違いないと驚嘆してしまいました。この若いソ連の映画作家は、ひょっとすると黒澤明よりも優れた才能の持ち主かも知れないと思いました。私に2人目の神の如き監督が現れたのでした。今でも、私にとって黒澤明の『七人の侍』とタルコフスキーの『アンドレイ・ルブリョフ』は特別な映画です。

 タルコフスキーの映画は水のイメージが豊富です。『僕の村は戦場だった』で特に美しいシーンは、トラックの荷台に積んだリンゴが川岸に落とされると、馬たちが近づいて来るところです。息を呑む美しさです。水について、彼はこう述べています。

 「僕の映画には水が必ず出てくる。私は水が、とりわけ小川が好きだ。私は日本人の自然に対する態度が好きだ。日本人は限られた空間に無限を凝縮して反映させる。水は映画的である。水は動き、深さ、変化を伝える。水以上に美しいものはない」

 

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 『黄金狂時代』もはっきり記憶していませんが、恐らく、大学生の時に京都の映画館で観たのだと思います。日記を書く習慣がなかったことが、今になって悔やまれます。

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【37】外国映画(その3)

◎『黄金狂時代』

 世界の喜劇王チャールズ・チャップリンの主要な作品を製作年順に並べてみます。

 『犬の生活』(1918)、『キッド』(1921)、『偽牧師』(1923)、『黄金狂時代』(1925)、『サーカス』(1928)、『街の灯』(1931)、『モダン・タイムス』(1936)、『チャップリンの独裁者』(1940)、『チャップリンの殺人狂時代』(1947)、『ライムライト』(1952)

 全てが映画史に残る傑作ばかりです。チャップリンは、どの作品も、脚本、演出、音楽、主演に至るまで何もかも一人でやり遂げました。こんな超人的な映画作家は、古今東西、彼以外にはいません。これからも出て来ないでしょう。

 間違いなく、チャップリンという人は想像を絶する天才でした。相対性理論の物理学者アインシュタインと共に20世紀を代表する真の偉人だった、と私は思っています。

 チャップリンの作品の中で、一番好きなのは『街の灯』です。一番面白いのは『黄金狂時代』で、映画として一番完成しているのは『ライムライト』だと思います。

 『チャップリンの殺人狂時代』は、高校生の時に一人で刈谷の映画館で観ました。また、『チャップリンの独裁者』は、大学1年生の時に中学校の恩師と名古屋の映画館で観ました。その他の映画については、何時、何処で最初に観たのか、よく覚えていません。

 『黄金狂時代』もはっきり記憶していませんが、恐らく、大学生の時に京都の映画館で観たのだと思います。日記を書く習慣がなかったことが、今になって悔やまれます。

 極寒のアラスカの各地で金鉱が発見され、一攫千金を求めて多くの人が殺到した。浮浪者のチャーリーもアラスカにやって来た。猛吹雪に遭うが、運よく山小屋に避難できた。指名手配中の凶悪犯ラーセンの小屋だった。金鉱を発見した大男ジム・マッケーも風に飛ばされるようにして山小屋に入って来た。

 映画の前半は、山小屋に集結した3人の男たちの極度の飢えとの闘いが描かれます。チャーリーが自分の革靴を煮込んで食べるシーンは特に有名です。

 後半は、鉱山街の酒場の踊り子ジョージアに一目ぼれしたチャーリーの喜怒哀楽が描かれます。ジョージアとダンスしている時に、ずり落ちるズボンのベルト代わりに犬の引き綱を結んでしまう場面は本当に面白い。冗談半分に、ジョージアたちは大晦日の夜8時に訪問すると約束する。真に受けた彼は料理とプレゼントを用意して待つが、彼女たちは来ない。待ちくたびれたチャーリーは、夢の中で、ロールパンにフォークを突き刺して踊り子の脚を作り、フォークの先端を巧みに操って生きた人形のように踊らせる。この踊りのシーンは傑作として余りにも有名です。

 『黄金狂時代』は、楽しいギャグ満載の必見の映画です。

 

◎『僕の村は戦場だった』

 黒澤明は、親しかった旧ソ連の映画監督タルコフスキーの早世を悲しみました。

 「山中貞雄とタルコフスキー、特に山中は早く逝っちゃった。なんでこの二人の天才が映画界から早く逝ってしまったのか。その後もいたら、映画界は違っていたかも知れない」

 アンドレイ・タルコフスキーは、1932年4月4日、ヴォルガのイワノヴォ地区ラヴラジエに生まれました。詩人であった彼の父親は、1941年に陸軍に志願し、戦場で片足を失い、前線から帰還します。しかし、前から不和であった妻のもとには戻りませんでした。両親が離婚した後、アンドレイは、母親、祖母、そして妹と一緒に暮らしました。

 1954年、22歳の彼は、全ソ国立映画大学に入学しました。在学していた6年間、彼は彼自身の映画観を確立して行きました。1960年に卒業制作作品として『ローラーとバイオリン』を作りました。この46 分の小品は好評を博しました。

 1962年に作った長編デビュー作『僕の村は戦場だった』によって、彼はヴェネチア国際映画祭で金獅子賞(グランプリ)を獲得しました。30歳での早い受賞でした。

 その後、1966年に『アンドレイ・ルブリョフ』、1972年に『惑星ソラリス』、1974年に『鏡』、1979年に『ストーカー』、1983年に『ノスタルジア』、そして1986年に最後の作品『サクリファイス』を完成しました。

 1985年、タルコフスキーは肺ガンに侵されていることを知りました。その時、『サクリファイス』はほぼ完成していました。彼は死ぬまで、次の作品のための準備に取り組みました。計画の中には、偉大なロシアの作家ドストエフスキーや、ドイツのロマン派の幻想的な作家ホフマンの生涯を扱ったものもありました。しかし、病状は好転することなく、1986年12月28日、彼はパリで亡くなりました。54歳での早い死でした。 私は大学生の時に『僕の村は戦場だった』を観ました。両親と妹を殺害したドイツ軍に対する復讐心に燃え、戦闘に加わった12歳のイワン少年の姿を描いた映画でした。

 映画は、木の枝に張られたクモの巣の向こうからイワンがこちらを見ている場面から始まります。少年は実に穏やかな幸福な表情をしています。少年の故郷は自然に恵まれた平和な村でした。しかし、突如としてドイツ軍の猛攻を受け、村は焼き払われ、母も妹も殺されます。少年は復讐の鬼と化し、少年偵察兵として憎むべき敵国ドイツを倒すべく敢然として戦いに挑みますが、戦争が終結する時まで生き長らえることができませんでした。

 美しいシーンに満ちた素晴らしい作品だとは思いました。しかし、少し前に観た同じソ連の反戦映画『誓いの休暇』(グレゴリー・チェフライ監瞽)の方が優れているように思いました。『誓いの休暇』には若い男女の素朴の愛が描かれており、当時の私は、そうした愛の在り方に強く惹かれていました。そんな訳で、私は『僕の村は戦場だった』を余り高く評価していませんでした。

 しかし、次の作品『アンドレイ・ルブリョフ』を観た時、私は、このタルコフスキーという人は天才に違いないと驚嘆してしまいました。この若いソ連の映画作家は、ひょっとすると黒澤明よりも優れた才能の持ち主かも知れないと思いました。私に2人目の神の如き監督が現れたのでした。今でも、私にとって黒澤明の『七人の侍』とタルコフスキーの『アンドレイ・ルブリョフ』は特別な映画です。

 タルコフスキーの映画は水のイメージが豊富です。『僕の村は戦場だった』で特に美しいシーンは、トラックの荷台に積んだリンゴが川岸に落とされると、馬たちが近づいて来るところです。息を呑む美しさです。水について、彼はこう述べています。

 「僕の映画には水が必ず出てくる。私は水が、とりわけ小川が好きだ。私は日本人の自然に対する態度が好きだ。日本人は限られた空間に無限を凝縮して反映させる。水は映画的である。水は動き、深さ、変化を伝える。水以上に美しいものはない」