■杉本武之プロフィール

1939年 碧南市に生まれる。

京都大学文学部卒業。

翻訳業を経て、小学校教師になるために愛知教育大学に入学。

25年間、西尾市の小中学校に勤務。

定年退職後、名古屋大学教育学部の大学院で学ぶ。

〈趣味〉読書と競馬

 

【34】加納実紀代『女たちの〈銃後〉』

◎加納さんの思い出

  2月22日、加納実紀代という一人の魅力的な女性が死去しました。

 「中日新聞」(2月25日・朝刊)の社会面に、顔写真と共に、次のようなかなり詳しい死亡記事が書かれていました。

 加納実紀代(かのう・みきよ=女性史研究家) 22日、すい臓がんのため死去、78歳。旧朝鮮(ソウル市)生まれ。葬儀・告別式は行わない。

 太平洋戦争と女性の関わりについて、さまざまな角度から掘り下げた「銃後史ノート」(全18巻)を刊行。「女たちの現在(いま)を問う会」の一員として、85年度の山川菊栄賞を受賞。5歳の時に広島で被爆した体験などを基に、天皇制や戦争、平和について問い続けた。著書に「越えられなかった海峡」「『銃後史』をあるく」など。

 加納さんは、私の大学の同級生でした。そして、私たちの間には、断続的ではありますが、60年以上に亙って交流が続きました。数々の思い出があります。

 私たちは昭和34年に入学しました。その当時、京都大学では最初の1年間は宇治分校で教養学部の授業が行われていました。私は宇治市内に下宿することにしました。有名な平等院の近くでした。下宿を出て、宇治橋のすぐ側の宇治駅で電車に乗り、黄檗山・万福寺の前の黄檗駅で降り、自衛隊の宇治駐屯所の前を歩いて大学に行っていました。

 加納(旧姓・細井)さんも宇治に下宿していました。二人とも文学部2組(L2)に所属していました。英語や体育の授業を一緒に受けたし、クラス単位で集まる機会も多かったので、自然と彼女と親しくなりました。登下校の時に同じ電車に乗ると、親しく話し合える間柄になりました。

 彼女の美貌と学力は際立っていました。彼女に出会って、私は、よくもこんなにも美しく賢い女学生がいるものだと驚くと共に、憧れの気持ちを強く抱きました。

 一度、宇治の映画館で一緒に映画を観ました。木下恵介監督の『惜春鳥』という作品でしたが、どんな内容だったか、何一つ覚えていません。夢のような時間でした。並んで観ている途中、私がクスッと笑ったことがありました。彼女が「何?」と小声で聞きました。「あの学生の襟の徽章がL(文学部)だから」と答えたことを記憶しています。

 話は飛んで、それから45年も後のこと。平成15年6月14日、女性史研究家として活躍中の加納さんが、西尾市の福祉センターで「日本女性史から学んだこと、考えたこと?私の研究の跡をたどって?」と題して講話をしました。少し前に、私も会員の「西尾・幡豆国語の会」の例会で西尾市内の国語教師に向けて何か話をしてくれないかと頼むと、多忙にも拘わらず快諾してくれたのです。

 講演と懇談会の後、吉良温泉の古びた旅館で一泊してもらい、翌朝9時頃、私は車で宿に迎えに行きました。私の顔を見ると、加納さんはやや興奮した面持ちで「旅館にこんなパンフレットがあったけど、是非見学に行きたい」と言いました。三ヶ根駅の近くに少し前に開設された「アンコールミュージアム」のパンフレットでした。

 不思議そうな顔をしている私に、加納さんは熱く語り始めました。?高校時代に『アンコールワットの恋』という映画を観て、舞台となったアンコールワットに魅せられ、その研究をしたくて京大文学部の東洋史学科に入った。何回もカンボジアに行き、アンコール遣跡を見て来た。数年前からカンボジア語を習い始めている……。

 吉良家の菩提寺・華蔵寺を案内してから、アンコールミュージアムに行きました。アンコールワット修復のビデオを見たりして、加納さんはとても楽しそうでした。数日後に届いた彼女からのハガキにはこう書いてありました。

 「先週は吉良の海が旅館から見えました。今日は新潟県瀬波温泉の日本海です。(中略)このところ何だか夢のような日々です。特に先週日曜は、吉良さまの華蔵寺の後、アンコールワットに出会えるなんて、信じられない!」

 数多くの思い出のある加納実紀代さんが死んでしまいました。死因は、すい臓がんでした。昨年の6月9日付の彼女からの最後のハガキ。

 「ご無沙汰ばかり、すみません。多摩丘陵に建つ大学病院の7階からお便り書いています。(中略)4月中旬から胃がシクシク。検査したら、すい臓ガンということで、肺気腫の持病があるので、手術できるか、ドクターたち頭を悩ませているようです。入院した途端、櫻井さんから岡本さんが亡くなったと知らされました。わがL2もそういう年ですね」

 櫻井さん(京大名誉教授)も岡本さん(甲南女子大学名誉教授)も英文学者。

 こうして、親しい同級生が一人一人亡くなっていきます。寂しいものです。

◎『女たちの〈銃後〉』

 加納実紀代さんの代表作は、何と言っても『女たちの〈銃後〉』です。

 この本は1987年1月に筑摩書房から出版されました。そして、増補新版が1995年にインパクト出版会から発行されています。

 太平洋戦争の戦前・戦中・戦後における女たちの考え方や生き方が様々な角度から描かれています。冷徹な論述もあれば、温かい人間愛に満ちた文学的描写もあります。

 〈序章〉は「私の『原爆の図』」と題されていて、5歳の時の自らの被爆の様子が記述されています。彼女が被爆した地点は爆心から1.9キロメートル。2キロ以内での被爆者を「特別被爆者」といい、加納さんもその一人でした。

 「Ⅰ 〈銃後〉への胎動― 一九三〇年代の女たち」と「Ⅱ 〈銃後〉の組織化?国防婦人会を中心に」では、銃後の女たちが総動員されて大日本婦人会が成立するまでが描かれています。「Ⅲ それぞれの〈銃後〉」では、明治34年に愛国婦人会を発足させた奥村五百子が「軍国昭和」の先導者として取り扱われ、続いて、『母系制の研究』や自伝『火の国の女の日記』で有名な女性史研究家の高群逸枝の〈皇国史観〉への傾斜が批判されています。アナキストの八木秋子の生き方に「屹立する精神」を見い出し、エスペランティストの長谷川テルに対しては「当時、日本人のなかに、これほど強い反戦の意思表示をした人がいたのか!しかも女性のなかに―」と賛嘆しています。

 「Ⅳ 女たちの八月十五日―〈銃後〉の終熄」では、終戦前後の無名の女性たちの生き方が描かれています。加納さんの豊かな文才が発揮されていて、どの篇も感動的です。

 〈終章〉は「生きつづける天皇幻想」という題で、天皇制について論じられています。

 加納さんの基本的な姿勢はこうです。「女の目先のやさしさが孕む加害性を、私たちは、特に女は、肝に銘じておくべきでしょう。そして、それ以上に男は、女の社会的視野をせばめ、差し当たり自分に都合のよいやさしさだけを女に求めることの愚かさを、とっくり考えてみるべきです」(「還ってきた〈息子〉」)

 

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【34】加納実紀代『女たちの〈銃後〉』

◎加納さんの思い出

 2月22日、加納実紀代という一人の魅力的な女性が死去しました。

 「中日新聞」(2月25日・朝刊)の社会面に、顔写真と共に、次のようなかなり詳しい死亡記事が書かれていました。

 加納実紀代(かのう・みきよ=女性史研究家) 22日、すい臓がんのため死去、78歳。旧朝鮮(ソウル市)生まれ。葬儀・告別式は行わない。

 太平洋戦争と女性の関わりについて、さまざまな角度から掘り下げた「銃後史ノート」(全18巻)を刊行。「女たちの現在(いま)を問う会」の一員として、85年度の山川菊栄賞を受賞。5歳の時に広島で被爆した体験などを基に、天皇制や戦争、平和について問い続けた。著書に「越えられなかった海峡」「『銃後史』をあるく」など。

 加納さんは、私の大学の同級生でした。そして、私たちの間には、断続的ではありますが、60年以上に亙って交流が続きました。数々の思い出があります。

 私たちは昭和34年に入学しました。その当時、京都大学では最初の1年間は宇治分校で教養学部の授業が行われていました。私は宇治市内に下宿することにしました。有名な平等院の近くでした。下宿を出て、宇治橋のすぐ側の宇治駅で電車に乗り、黄檗山・万福寺の前の黄檗駅で降り、自衛隊の宇治駐屯所の前を歩いて大学に行っていました。

 加納(旧姓・細井)さんも宇治に下宿していました。二人とも文学部2組(L2)に所属していました。英語や体育の授業を一緒に受けたし、クラス単位で集まる機会も多かったので、自然と彼女と親しくなりました。登下校の時に同じ電車に乗ると、親しく話し合える間柄になりました。

 彼女の美貌と学力は際立っていました。彼女に出会って、私は、よくもこんなにも美しく賢い女学生がいるものだと驚くと共に、憧れの気持ちを強く抱きました。

 一度、宇治の映画館で一緒に映画を観ました。木下恵介監督の『惜春鳥』という作品でしたが、どんな内容だったか、何一つ覚えていません。夢のような時間でした。並んで観ている途中、私がクスッと笑ったことがありました。彼女が「何?」と小声で聞きました。「あの学生の襟の徽章がL(文学部)だから」と答えたことを記憶しています。

 話は飛んで、それから45年も後のこと。平成15年6月14日、女性史研究家として活躍中の加納さんが、西尾市の福祉センターで「日本女性史から学んだこと、考えたこと?私の研究の跡をたどって?」と題して講話をしました。少し前に、私も会員の「西尾・幡豆国語の会」の例会で西尾市内の国語教師に向けて何か話をしてくれないかと頼むと、多忙にも拘わらず快諾してくれたのです。

 講演と懇談会の後、吉良温泉の古びた旅館で一泊してもらい、翌朝9時頃、私は車で宿に迎えに行きました。私の顔を見ると、加納さんはやや興奮した面持ちで「旅館にこんなパンフレットがあったけど、是非見学に行きたい」と言いました。三ヶ根駅の近くに少し前に開設された「アンコールミュージアム」のパンフレットでした。

 不思議そうな顔をしている私に、加納さんは熱く語り始めました。?高校時代に『アンコールワットの恋』という映画を観て、舞台となったアンコールワットに魅せられ、その研究をしたくて京大文学部の東洋史学科に入った。何回もカンボジアに行き、アンコール遣跡を見て来た。数年前からカンボジア語を習い始めている……。

 吉良家の菩提寺・華蔵寺を案内してから、アンコールミュージアムに行きました。アンコールワット修復のビデオを見たりして、加納さんはとても楽しそうでした。数日後に届いた彼女からのハガキにはこう書いてありました。

 「先週は吉良の海が旅館から見えました。今日は新潟県瀬波温泉の日本海です。(中略)このところ何だか夢のような日々です。特に先週日曜は、吉良さまの華蔵寺の後、アンコールワットに出会えるなんて、信じられない!」

 数多くの思い出のある加納実紀代さんが死んでしまいました。死因は、すい臓がんでした。昨年の6月9日付の彼女からの最後のハガキ。

 「ご無沙汰ばかり、すみません。多摩丘陵に建つ大学病院の7階からお便り書いています。(中略)4月中旬から胃がシクシク。検査したら、すい臓ガンということで、肺気腫の持病があるので、手術できるか、ドクターたち頭を悩ませているようです。入院した途端、櫻井さんから岡本さんが亡くなったと知らされました。わがL2もそういう年ですね」

 櫻井さん(京大名誉教授)も岡本さん(甲南女子大学名誉教授)も英文学者。

 こうして、親しい同級生が一人一人亡くなっていきます。寂しいものです。

 

◎『女たちの〈銃後〉』

 加納実紀代さんの代表作は、何と言っても『女たちの〈銃後〉』です。

 この本は1987年1月に筑摩書房から出版されました。そして、増補新版が1995年にインパクト出版会から発行されています。

 太平洋戦争の戦前・戦中・戦後における女たちの考え方や生き方が様々な角度から描かれています。冷徹な論述もあれば、温かい人間愛に満ちた文学的描写もあります。

 〈序章〉は「私の『原爆の図』」と題されていて、5歳の時の自らの被爆の様子が記述されています。彼女が被爆した地点は爆心から1.9キロメートル。2キロ以内での被爆者を「特別被爆者」といい、加納さんもその一人でした。

 「Ⅰ 〈銃後〉への胎動― 一九三〇年代の女たち」と「Ⅱ 〈銃後〉の組織化?国防婦人会を中心に」では、銃後の女たちが総動員されて大日本婦人会が成立するまでが描かれています。「Ⅲ それぞれの〈銃後〉」では、明治34年に愛国婦人会を発足させた奥村五百子が「軍国昭和」の先導者として取り扱われ、続いて、『母系制の研究』や自伝『火の国の女の日記』で有名な女性史研究家の高群逸枝の〈皇国史観〉への傾斜が批判されています。アナキストの八木秋子の生き方に「屹立する精神」を見い出し、エスペランティストの長谷川テルに対しては「当時、日本人のなかに、これほど強い反戦の意思表示をした人がいたのか!しかも女性のなかに―」と賛嘆しています。

 「Ⅳ 女たちの八月十五日―〈銃後〉の終熄」では、終戦前後の無名の女性たちの生き方が描かれています。加納さんの豊かな文才が発揮されていて、どの篇も感動的です。

 〈終章〉は「生きつづける天皇幻想」という題で、天皇制について論じられています。

 加納さんの基本的な姿勢はこうです。「女の目先のやさしさが孕む加害性を、私たちは、特に女は、肝に銘じておくべきでしょう。そして、それ以上に男は、女の社会的視野をせばめ、差し当たり自分に都合のよいやさしさだけを女に求めることの愚かさを、とっくり考えてみるべきです」(「還ってきた〈息子〉」)