私は昨年の12月号の末尾に、「盛田命祺翁は村民とともに生き、小鈴谷村を豊かな郷にしました。溝口幹は、この翁の期特に応え、村民とともに生きる教師として、小鈴谷村を「徳これ香る」郷にしていきます。これを跡づけるのが「鈴渓義塾物語」です」と書きました。

 私は今号から「溝口幹の思想」を書きますが、その前に、盛田命祺と溝口幹の思想の系譜を、なぜ「鈴渓義塾物語」として書くのかという理由を述べることにします。

 溝口幹は、時の文部大臣松田源治から自らの頌徳碑の題額に「徳維香」を贈られます。私は、この題額に「郷」の字をつけて、幹は小鈴谷村を「徳これ香る」郷にしたと言いました。しかしこの徳はどんな徳だったのでしょうか。この徳の中味を解明したい。

 しかし、残念ながら、書く私自身、勉強不足のために十全には解明できていないのです。ただ予感(Ahnen)として書きたいのでご了解下さい。

 盛田命祺は「徳厚くして広く恵んだ」ために徳川義親により「厚德廣惠」という頌徳碑の題額を贈られました。この時の尾張藩の治世は細井平洲の思想に基づいた善政の時代でした。

 細井平洲は為政者がどうあるべきかを問い、そしてどうあるのが真実の為政者かを説きました。被治者(具体的には農民)の苦しみを知って、被治者とともに、否、被治者の先頭に立って被治者の苦しみを除去する方向で頑張るのが為政者だと。この思想において上に立つ者の当然の德の道として藩主や藩士たちに実践させました。

「厚德廣惠」と表現された盛田命祺の思想を、この細井平洲の思想で読み解くと、本当によく理解できます。リーダーとしての責任において村民を貧困から救い、村民を豊かにするために道路をつくり、鈴渓義塾をつくっていったのが盛田命祺ですから。因みにこの時、盛田命祺は盛田酒造の当主であっただけでなく、枳豆志組の惣代と小鈴谷村の庄屋を兼ねた大庄屋でありました。

 しかし『盛田命祺翁小傳』にはこの細井平洲との関係は書かれていないのです。これらの実践は命祺が「仁慈の念」を育み、「真如薫習の妙諦」を身につけた賜物と書かれているだけです。しかし溝口幹を讃える卒業生のことばの中に細井平洲の『嚶鳴館遺草』や『嚶鳴館遺稿』に出て来る語がいっぱい出て来るのです。

 私の力量不足から「仁慈の念」や「真如薫習の妙諦」の語と細井平洲の嚶鳴館思想との関連を克明には書けません。予感でしか。しかしこの予感の上で言えば溝口幹の実践は以下のような物語となりましょう。

 私は12月号で、溝口幹が『盛田命祺翁小傳』の末尾に『明治忠孝節義傳』を引用したのは「私も命祺翁のように村民とともに生きる教師でありたい」という溝口幹の心情によると書きました。その命祺翁の思想の根源を仏教の「仁慈の念」(慈悲の心)に見出し、その人となりを「真如薫習」を「妙諦」として身につけたためと解し、鈴渓義塾での教育現場では命祺翁のような人格者を育てることを目標にし、これは細井平洲の嚶鳴館思想と同じと説き、リーダーとしての自覚を高める教育をしていったからこそ鈴渓の郷を「徳これ香る」郷にしていくことができたのではないでしょうか。

 溝口幹は次のように言っていたと推測します。「学問は出世のためにするものではありません。学問を深め、みんなが幸せになれるようにしていくのが学問の道です」と。これは哲学の道でもあります。私はこの学問の系譜を鈴渓義塾物語として書きたいのです。

 

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 私は昨年の12月号の末尾に、「盛田命祺翁は村民とともに生き、小鈴谷村を豊かな郷にしました。溝口幹は、この翁の期特に応え、村民とともに生きる教師として、小鈴谷村を「徳これ香る」郷にしていきます。これを跡づけるのが「鈴渓義塾物語」です」と書きました。

 私は今号から「溝口幹の思想」を書きますが、その前に、盛田命祺と溝口幹の思想の系譜を、なぜ「鈴渓義塾物語」として書くのかという理由を述べることにします。

 溝口幹は、時の文部大臣松田源治から自らの頌徳碑の題額に「徳維香」を贈られます。私は、この題額に「郷」の字をつけて、幹は小鈴谷村を「徳これ香る」郷にしたと言いました。しかしこの徳はどんな徳だったのでしょうか。この徳の中味を解明したい。

 しかし、残念ながら、書く私自身、勉強不足のために十全には解明できていないのです。ただ予感(Ahnen)として書きたいのでご了解下さい。

 盛田命祺は「徳厚くして広く恵んだ」ために徳川義親により「厚德廣惠」という頌徳碑の題額を贈られました。この時の尾張藩の治世は細井平洲の思想に基づいた善政の時代でした。

 細井平洲は為政者がどうあるべきかを問い、そしてどうあるのが真実の為政者かを説きました。被治者(具体的には農民)の苦しみを知って、被治者とともに、否、被治者の先頭に立って被治者の苦しみを除去する方向で頑張るのが為政者だと。この思想において上に立つ者の当然の德の道として藩主や藩士たちに実践させました。

「厚德廣惠」と表現された盛田命祺の思想を、この細井平洲の思想で読み解くと、本当によく理解できます。リーダーとしての責任において村民を貧困から救い、村民を豊かにするために道路をつくり、鈴渓義塾をつくっていったのが盛田命祺ですから。因みにこの時、盛田命祺は盛田酒造の当主であっただけでなく、枳豆志組の惣代と小鈴谷村の庄屋を兼ねた大庄屋でありました。

 しかし『盛田命祺翁小傳』にはこの細井平洲との関係は書かれていないのです。これらの実践は命祺が「仁慈の念」を育み、「真如薫習の妙諦」を身につけた賜物と書かれているだけです。しかし溝口幹を讃える卒業生のことばの中に細井平洲の『嚶鳴館遺草』や『嚶鳴館遺稿』に出て来る語がいっぱい出て来るのです。

 私の力量不足から「仁慈の念」や「真如薫習の妙諦」の語と細井平洲の嚶鳴館思想との関連を克明には書けません。予感でしか。しかしこの予感の上で言えば溝口幹の実践は以下のような物語となりましょう。

 私は12月号で、溝口幹が『盛田命祺翁小傳』の末尾に『明治忠孝節義傳』を引用したのは「私も命祺翁のように村民とともに生きる教師でありたい」という溝口幹の心情によると書きました。その命祺翁の思想の根源を仏教の「仁慈の念」(慈悲の心)に見出し、その人となりを「真如薫習」を「妙諦」として身につけたためと解し、鈴渓義塾での教育現場では命祺翁のような人格者を育てることを目標にし、これは細井平洲の嚶鳴館思想と同じと説き、リーダーとしての自覚を高める教育をしていったからこそ鈴渓の郷を「徳これ香る」郷にしていくことができたのではないでしょうか。

 溝口幹は次のように言っていたと推測します。「学問は出世のためにするものではありません。学問を深め、みんなが幸せになれるようにしていくのが学問の道です」と。これは哲学の道でもあります。私はこの学問の系譜を鈴渓義塾物語として書きたいのです。