スーパーの売り場で、ちくわが目にとまったことがある。母は、歯が丈夫でなかったので、ちくわやはんぺんを好んで食べていた。頼まれて買い物に行ったものの、「ご指定のちくわ」でないと取り替えに行かされたこともある。母の「ご指定のちくわ」を見かけた瞬間、熱いものがこみあげてきた。スーパーでちくわを見て泣いている男など、どこにもいまい。
母は、ユーモアセンスのある人でもあった。エイプリルフールには、よく引っかかった。
ボクは横綱・柏戸の大ファンだった。ある年の4月1日、「(家の近くの)金閣寺に柏戸が来てるで〜」と言われ、「え!ほんま」と喜び勇んで、家を飛び出そうとした。背後で、ケラケラ笑っている母の声を聞いて、「あっ、またやられた」と気づいた。このことは、忘れられない思い出だ。
母は、ラジオが大好きだった。一日中、ラジオがつけっぱなしだった。NHKが中心だが、TBSも文化放送もニッポン放送も聞いていた。ボク以上に各局のアナウンサー事情にも精通していた。ラジオから得た雑学を教えてもらうことも多かった。
生前、たいした親孝行も出来なかったが、ボクが、NHKラジオで11年間番組を担当出来たことは、何よりの親孝行だった。面と向かっては言えないので、自分の誕生日にドサクサ紛れに「母さん、生んでくれてありがとー」とマイクに向かって言ったことがある。
寄り添うことば
六十代に入ってからは、頸椎のヘルニアで、「痛い、辛い、しんどい」の毎日だった。
笑顔も少なくなり、眉間に皺がよることが多くなった。おまけに潔癖症に拍車がかかり、ボクは煩わしくて、あまり実家に行かなくなった。
スーパーに買い物に行ったこともない、掃除や洗濯をしたこともなかった父が、母のサポートをする姿に感心していたが、恋文の存在を知って合点がいった。愛ゆえのことである。その父が亡くなってからは、「寂しい」が加わった。
なかなか嬉しいことばを言わない母に、息子はなかなか聞く耳を持てなかった。「痛いのは生きてる証拠」などとひどいことを言った。「あんた、アナウンサーやろ。どうしてもっと優しい言い方できひんの」と母を嘆かせた。
「痛いよね」「辛いよね」「しんどいよね」どうして、ことばで寄り添えなかったのか、後悔先に立たずだ。母と、もっと話しておけばよかった。いつも生返事。いつも短時間。
だが、最期の日は、5時間ベッドサイドにいた。腸閉塞を起こし、救急車で運ばれ、尿毒症を併発し、かなり厳しい状態だったが、母は死ぬ気などなく、弱弱しい声ながら饒舌だった。「菜の花」のこと以外にも、病状のこと、夢に父が出てきた話、生まれてくるひ孫の話…いろんな話が出来た。そして、一旦引き上げるからと告げると、しっかり目を見据えて「気をつけてね」と言ってくれた。その3時間後、容態が急変したのだ。
父の最期の時も、前夜、ゆっくり話せた。別れ際に聞いたことばは、「気をつけてな」。
父も母も、病身ながら、息子を気遣う「気をつけて」が最期のことば。吉田松陰の歌にもある「親思う心にまさる親心」なのである。
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