何がなんだかわからない騒動に巻き込まれたときも、自分の主張や言いわけをせず、周りの人間ウォッチングをしていたという。「あの人はそういう人だったんだと見ながら、面白いなと思ってた。おかげで、人間関係の整理が出来ました(笑)」。
人に何か言われることを怖がっていたら、どんなことも気になってしまう。だから「いま、自分がやりたいことをやる」と自分の背中を押して進んできた。ずっと、自分に対して正直に、ありのままに生きてきた。
聴く人の想いを感じて
一〇歳でデビューして歌手生活五〇周年に還暦を迎えた。そして、新潟地震から五〇年、中越地震から一〇年と、今年はいろいろな節目がぴったり重なった。
小さい頃から歌の世界しか知らない。この世界にずっといられたことは幸せだったなと思う。「見知らぬ人が私の歌を聴いて『励みになりました』と言ってくださると、こんなにうれしいことはない」。
とくに新潟や東北の震災のあとで被災地を回ったときは、よく言われた。「とてもつらい状況だけど、今ここにいる時間だけはつらいことを忘れさせてもらったと、たくさんの人に感謝されました」。
自分の歌が自分の支えになることもある。幸子さんにとって思い出深い曲は、『雪椿』。歌詞の三番で「つらくても がまんすればきっと来ますよ 春の日が」というところにくると、いつもグッとくる。この歌を中越地震の避難所で歌ったとき、みんなが泣きながら聞いていた姿を一生忘れない。
雪椿は新潟の県木で、県民なら誰でも知っている。「雪がとけるまで咲き続ける雪椿のようにがんばりましょう」というと、みんなうなずいてくれた。歌いながら自分も励まされた。励ますつもりで行ったのに、逆に励まされて帰ってきた。
ある避難所を出て次の避難所に向かうとき、道の向こうに金髪でピアスだらけのお兄ちゃんたちがたむろしていた。彼らが、「あ、小林幸子だ!」と叫ぶので、一瞬、いやだなあ、あそこを通りたくないなあと思った。しかし全員が医務テントにいたおじいちゃんやおばあちゃんをおぶって連れて来た。「小林幸子が来ているよ〜」と言って。彼らは福島からボランティアで来ていた。そのことが脳裏から離れず、東北の震災のときは何かお返しをしたいと思ったのだ。
さっちゃんは、ボクのラジオ番組をよく聴いてくれていた。この日、とても嬉しい感想を話してくれた。「本当にお世辞じゃなくて、きれいな詩を聞いているようでしたよ。神様が何かの詩を村上さんの口から出させてくれている感じがした」 「『素直になっていいんですよ。自分を閉ざさず、開け放っていいんですよ』と番組でリスナーの方へおっしゃるのを聞いて、そうか、それでいいんだと思わせてもらいました」。
すごく嬉しかった。涙が出そうだった。聞いている人の喜怒哀楽、様々な感情に寄り添いたいと思ってやってきたので、さっちゃんにそんなふうに言ってもらえて本当に感激した。
さっちゃんは、今年も紅白に選ばれなかった。ラスボスの晴れ姿を動画サイトファンに見てもらえないのは残念だろうが、新しい世界に歩み出したさっちゃんは、後ろ髪を引かれてはいまい。チャンスの神様は前髪しか持っていない。
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