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明治の実業家、渋沢栄一の孫である鮫島純子さん。92歳になった今も、車を運転してどこへでも行けば、社交ダンス教室にも通っている。背筋をピンと伸ばし、食欲も旺盛、会話の内容も魅力的。その生き方を見ていると、年齢をまったく感じさせない。 渋沢栄一から引き継いだこと |
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渋沢家の暮らし方は質素だった。大きな家に住んではいたが、それは、客人をもてなすためだった。渋沢栄一は素性のわからない人も平気で家に入れて、身の上相談に応じていた。渋沢は「慈善を慈善として行うのは真の慈善にあらず。余はこれを楽しみとする」という言葉を残している。人の喜びが、自分の喜びにつながっていたようだ。91歳で亡くなる直前、肺炎で寝込んでいるところに、貧困にあえいでいる方々に国からお金が出ないと聞かされ、病身をおして、政府に陳情に出向いていった。医師が止めても「私がこの年まで生かされたのは、こういうときに役立つため。それで死ぬなら本望です」と言ったそうだ。「私も今、祖父と同じ心境で、みなさまのお役に立てるならいつでもこの命をお使いくださいという気持ちで生きております」と、すでに渋沢栄一が亡くなった年齢を一つ超えた鮫島さんは言う。 祖父が亡くなったとき、鮫島さんは9歳だったが、いろいろなことを覚えている。「普通のおじいちゃんだと思っていたら、盛大なお葬式を見て、すごい人だとわかった。天皇陛下から感謝の意を伝える御沙汰書が勅使によって読み上げられ、当時は車なんてそんなになかったのに、葬列に東京中の車が集まったと思えるくらい何十台もの車が続いたことも驚きでした。祖父は学校の援助もしていたので、沿道に各学校の生徒さん達がお見送りに並び、祖父はこれほど多くの方に慕われる人だったのかと初めてわかったんです」。 |
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祖父は、孫に優しかった。毎週土曜日には孫たちが集まり、一人ずつ祖父に「ごきげんよう」と挨拶に行った。そうすると祖父は「よう来られたな」と頭をなでながら、梅干し飴を口に入れてくれた。「来られた」と、孫にも丁寧なことばを使う人だった。渋沢について書かれた文書によると、どんな時も、どんな人にも丁寧なことばを使っていたようだ。 感謝の気持ちで生きる |
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| ■イネ・セイミプロフィール フルート奏者として活躍中。俳画家。 絵画を幼少より日展画家の(故)川村行雄氏に師事。俳画を華道彩生会家元(故)村松一平氏に師事。俳画の描法をもとに、少女、猫等を独自のやさしいタッチで描いている。個展多数。 * 俳画教室開講中 |
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