本当にその意味を理解したのは、母が亡くなってからという。28歳のとき、東京に来た母が、和田さんの部屋で倒れて急死した。その三か月後には祖父も亡くなり、どん底の気分の中で神様との向き合い方が変わってきたというのだ。「神様は困ったときにすがる存在ではなく、日々の感謝の気持ちをもって一緒に共存するものなんだとわかった」
悲しい出来事をきっかけに気づきが生まれた。「営業で成功して、がんばれば結果がついてくると驕っていた。でも人の死は、自分がいくらがんばってもどうにもならない。人の手には負えないことの大きさに気づかされた」。だから、生きているだけでもありがたい…感謝の気持ちでお参りするのだ。
母の魔法のことば
京都生まれ。幼いころは、辛気くさく、おとなしく、人と話すのが苦手だった。姉は、なんでも出来た優等生で、バレー部のエースアタッカー。和田さんはといえば、勉強も出来ず、万年補欠のバレーボール部員だった。
大学卒業後上京し、アパレル会社での営業事務を経て、もっとお金が欲しいという単純な欲から転職を考え辞職。しかし、応募した会社すべてで不採用になってしまう。諦めて実家に帰ろうとしていたときに、外資系教育会社ブリタニカで営業職の仕事と出会い、入社を決めた。
スタートは落ちこぼれの新人で、結果が出ない苦しい時期を過ごすことになる。しかし、客からの感謝の言葉をもらう喜びから営業の仕事の面白さを感じ、自分なりの営業スタイルを作り上げた。紹介契約が全体の4割、プレゼンしたお客様の98%から契約をもらうという「ファン作り営業スタイル」を構築した。
24歳で、劇的に人生を変えたのだ。「陽転思考」を身につけたのだ。コンプレックスをガソリンにしたのだ。「明るいほうへ、幸せになるほうへ」ギアチェンジした。マイナスオーラに影響されるより、自分のプラスオーラで影響を与えたらいい。楽しく振舞っていたら楽しくなってくる。自分のためだけにがんばらない。誰かのために頑張ってみる。そんなお節介をしようと考え方を変えた。そうしたら、風向きが変わったのだ。
短期間に昇進を重ね、女性では初めて、2万人に1人と言われる代理店の支社長となった。その後、最年少の営業部長となり、全国20支店、100人を統括する立場となったが、2001年、ブリタニカの日本撤退に伴い、すべてを失う。
しかし、和田さんは挫けなかった。株式会社ペリエを設立。営業コンサルタントとして業種を超えた組織作りに携わり、陽転思考を説く講演で全国を飛び回っている。
和田さんの母は、自由奔放で、外出が多く、付き合いも派手で、あまり母親らしくない人だった。「朝はずっと寝ていてお弁当も作ってくれないし、明日は学校行事があると言っても、明日は明日の風が吹くからわからへんと言って、母親らしいことは何もしてくれないんですが、それを凌駕するくらい明るくて、人間的に魅力的で素敵な母でした」。いつでも和田さんを照らしてくれるお日さまみたいな人だった。
和田さんの書いた童話『ぼくは小さくて白い』(朝日新聞出版)は、母との思い出が題材になっている。何でも、諦めて投げ出してしまうアカンタレな裕美さんに、母は、いつも「大丈夫だよ、大丈夫だよ」と励まし続けてくれた。「裕美は裕美でいいんだ」と、周囲と比べることも一切なかった。
『ぼくは小さくて白い』の締めくくりに、母の象徴として、お日さまが現れるが、和田さんこそお日さまのような人だ。それもギラギラする夏の太陽ではなく、柔らかい冬の木漏れ日のような感じだ。
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