恥ずかしいくらい、思うように弾けなかった。でも、患者さんは涙を流して喜んでくれた。嬉しいけど、こんなのでいいのかと思った。ちゃんと練習していないから、うまく弾けないのが、申し訳なくて、罪悪感でいっぱいになった。その時の思いが、今に繋がっている。
少しずつ、自宅でカンを取り戻すべく練習を始めたが、思うように演奏が出来ない。人前でも弾いてみたが、それまで上がったことがなかったのに、震えが止まらなかった。弾けば弾くほど、弾けなくなった。楽屋で、毎回泣いていた。
演奏感覚が戻るには、7年くらいかかった。ある時、天から降ってきたように、いきなり出来るようになった。29歳で、すべての感覚が一瞬で戻った。今でもその一瞬を覚えている。自分でも不思議だった。それまでの辛さが一遍に吹き飛んだ。
「今までは、体で覚えて、練習して、技術を得て演奏するものだった。演奏は単に、音符を見て演奏するだけではない。身体の中から演奏するものだ。精神力がついてこそ、魅力的な演奏ができると思った。人の心を震わせるような演奏がしたい」と心底、思った。
「例えば、聞いている人の心にあるバッハを受け止めて音にすればいいと気づいた。様々な経験をしてきた人の様々なバッハがあるはず。ほんとうは、聞く人が弾いているのかもしれない。私は、ただ音にしているだけ」そう気づいて演奏が変わった。
いまは、当時を振り返り、挫折は宝物だと思える。「挫折して、バネが縮んでよかった。縮んだら、次には伸びる時が来る」と思えた。
20代は、暗黒時代だった。30代は、気持ちを切り替え新たな出発の時期だった。
40代、ストラディバリウス・デュランティという素晴らしい楽器との出会いがあった。ローマ法王からデュランティ家に渡り、スイスの富豪が所持していたものが真理子さんのもとにやってきた。300年ほど誰にも弾かれず、眠っていた代物だ。「清水の舞台から飛び降りる覚悟で、一生借金生活をしても欲しかった。いまや私の分身。離れられない存在。自分が生まれ変わったように思う。私が生きることも、この楽器がリードしてくれている」。
母の想いを受け継ぐ
文子さんの生前、インタビューしたご縁で、通夜と告別式の司会を依頼されたのだが、日程調整が出来ず、断腸の思いでお断りした。「母の顔を見にだけでもきてください」と真理子さんに言われ、通夜に参列させていただいた。
喪主の長男・博さんの挨拶が素敵だった。
「母が亡くなった夜、3人で乾杯した。長い闘病から解放され、母が楽になっておめでとうだねと。思い返せば、心の中にいつも母がいる気がした。ここにご参列の方々も、母を時々思い出してくださったら、母はいつも皆さんとともにいる」忙しい3人が、母が旅立つときは、一緒に病室で見送れたそうだ。
亡くなったのは、6月27日。すぐさま「andante 〜母・千住文子に捧ぐ」という曲を明さんが作曲。30日には、真理子さんがヴァイオリンを弾き、明さんがピアノを弾き録音。博さんが描いた絵をジャケット写真に使い、CDを完成させ、参列者に会葬御礼として配った。3兄妹の結束は固い。文子母さんの想いは、3人にきちんと引き継がれていく。真理子さんも、これまで以上に、母・文子さんを傍らに意識しながら、演奏していくにちがいない。
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