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中小の町工場がひしめく東京・大田区。その一角に斬新な経営改革で業績を伸ばし続けている会社がある。「ダイヤ精機」は、自動車の製造ラインの金属部品の精密加工を担っている。諏訪貴子さんは、急逝した父の後を継ぎ、平成16(2004)年、社長になった。 |
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![]() 諏訪さんは幼い頃から、父の会社の跡取りとして育てられてきた。跡取りとなるはずだった兄が白血病を患って6歳でこの世を去り、その2年後の昭和46(1971)年に、貴子さんが生まれた。ずっと「兄の生まれ変わり」と言われ続けてきた。兄と顔が似ていて、誕生日も一週間違いだった。中学生の頃、兄の分骨していた骨を納骨しに行ったとき、父が骨壷にすがって号泣したことがあった。「父の涙を見たのは最初で最後だったけど、その姿を見たときから兄の代わりとして生きていかなくてはならない」と思うようになった。 幼い頃から取引先に連れていかれた。駐車場が遊び場だった。父の用事がすむまで、取引先の駐車場で遊んで待っていた。大学も「工学部に行きなさい」という父の言葉に従った。 大手自動車部品メーカーのエンジニアを経て、結婚。妻として、一人息子の母として、家庭を支えていたところ、父に請われて「ダイヤ精機」に2度入ったが、2度ともやめさせられた。「会社がよくなる方法を見つけてくれと父に言われたので、リストラ案を出したら二度ともクビになりました」と笑って話す。「父には社員に対する情があって、リストラするなら身内からと思ったんでしょうね。リストラの必要性はわかっていたはずですが、ほかの方法を私に探してほしかったのかもしれません」。 父が亡くなる二か月前に、また手伝ってほしいと言われたが、断った。夫のアメリカ転勤も決まっていたので、帰国してから考えるつもりだった。だが、父が急逝して事態は大きく変わった。 最後、父は、リンパが腫れて声が出なくなっていた。普通は感傷的な場面となるはずなのに、父にかけた言葉は必要に迫られて「実印はどこにあるの?」。父との最期の会話は、金庫の暗証番号を尋ねることだった。父が紙に書いた番号を見たとき、貴子さんは、思わず泣いた。万一のときに思いつけるよう、家族に関係のある番号だった。数字から、父の思いが伝わってきた。 「父は、強いまなざしでじっと私の顔を見つめながら息を引き取ったんですが、その目に圧倒されて思わず、『会社は大丈夫だから』と言っていました。言葉はなくても、そのとき『頼むぞ』と言われた気がしたんです」。いまわの際に、言葉にはならない目と目の会話をした。 |
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亡くなった父の顔は笑顔だった。「短くても悔いのない人生を送ったんだなと思え、私も自分の人生を閉じるときは『ああ、おもしろかった』と言える生き方をしようと思うようになりました」。 楽しい嬉しい面白いがバロメーター 来年は会社創業五〇周年。その抱負を聞いてみると、こんな答えが返ってきた。「毎年そうですが、今年より来年はもっと楽しくしたいと思っています。常に、今よりもっと楽しくしたいと考えています。私はなにごとも、自分が楽しめるか楽しめないかで判断しているんです。『楽しい』イコール『自分の成長』ととらえています」 |
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■イネ・セイミプロフィール フルート奏者として活躍中。俳画家。 絵画を幼少より日展画家の(故)川村行雄氏に師事。俳画を華道彩生会家元(故)村松一平氏に師事。俳画の描法をもとに、少女、猫等を独自のやさしいタッチで描いている。個展多数。 * 俳画教室開講中 |
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