2002年、北海道から上京して、武蔵野音楽大学へ進んだ。大学卒業後、ソロアーティストとしてデビューを目指し、曲作りとライブ活動を繰り返したが、デビューまでの道のりが長かった。オーディションを受けまくったが、どこからも見向きされなかった。
のべ100社を超えた頃、いまの事務所のオーディションを受けた。たまたまクラシックの発声で、オペラも入れたデモテープを持っていった。社長が聞いて「両方いけるじゃないか!まだ誰もやっていないし面白い!」と反応してくれた。どちらかに決めなくてもデビュー出来ると安心した。どちらも完璧に、というのは無理だ。「新しいジャンルに挑戦したい」「オンリーワン」を目指そうと思った。
2008年4月、『ダッタン人の踊り』でデビューした。ロシアの作曲家ボロディンのオペラ作品『イーゴリ公』の中の曲「韃靼人の踊り」をサビに引用し、新たなメロディーを新たに作りオリジナルの歌詞を付けたもので、ポップオペラの原型が出来上がった。その後も、バッハ、ベートーベン、アルビノーニ、マスカーニ、ドビュッシーの曲を藤澤流にアレンジして、どんどんファンを増やして、コンサート会場は、いつも満席だ。
藤澤さんのファンは、30代から、上は限りない世代の、ほとんどが女性。「ノリくんの歌を聴いていると幸せな気持ちになれる」という人たちばかり。彼の歌を聴くことを生きがいにしている人たちばかり。だが藤澤さんは、「ファン層はデビュー当時と少し変わって、芸術性を認めてくれるファンが多くなりました。デビューした頃は、テレビにたくさん出て知名度を上げたいと思っていましたが、徐々に本物の作品や音を届けたいと思うようになりました。自分の求めるものが変わった頃から音≠聴きに来てくれる人が増えたんです」と自己分析している。
耳の病気がもたらしたもの
去年秋、20回に渡るコンサートツアーが始まる直前、藤澤さんは、突発性難聴になった。絶対音感があるから、鍵盤の音がなくても音程がとれるが、そのときは実際の音より低く感じたので違和感を覚えたらしい。だが他の人が客観的に聴くといつもと変わらぬ歌に聞こえるらしい。その頃はライブやキャンペーンでとっても忙しかったので、疲れがたまっていたのかもしれないと思った。最悪の場合は、コンサートも全部キャンセルかなと考えた。一時期はうつになりかけた。「曲作りにも意欲がわかないし、自分はどこに向かって走っているのかわからなくなってしまって…」と、その時の心境を吐露する。
ぼくは、耳のことを聞いて、初日のコンサートを迎えるまでは、気がかりで気がかりでしかたなかった。その日は客席でドキドキしながら見ていた。まさしく父親の心境そのものだった。だから、第一声を聴いたときは「ああ大丈夫だ」と胸をなでおろした。
「僕も楽屋で村上さんの顔を見たときは胸がつまってしまって…。ただ、あの苦しみを乗り越えたことで何か大きなものをつかんだような気がするんです」「自分にとってはこれが精いっぱいだと開き直って臨んだ結果、かえっていい出来になったような気がします」
辛い思いはしたが、結果的によかった部分もあったようだ。会場には、いろいろな悩みを抱えている人たちもいただろうが、彼が病気と闘っている姿やがんばっているところを見て励まされた人もいたはずだ。
実は、突発性難聴を発症したとわかったのは、藤澤さんと雑誌の対談をする日だった。当日の朝、彼からキャンセルの申し入れがあった。心配して駆けつけたコンサートの楽屋で、彼はケロッとしていて、いささか拍子抜けしたのだが、後日談を聞いて、顔で笑ってなんとやら…。彼の成長の糧になった事態であったことはもとより、深刻ぶらない彼にも、感心したのだった。
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