店がオープンしたばかりの一か月後、姉に乳がんが見つかった。しかも末期だと告げられた。結局、その店は手放すことになり、姉が有紀さんのために、今の店となる家を見つけてくれた。姉の店を手伝ううちに、自分も店をもちたいと考えるようになった青山さんは、自分の「夢日記」をつけていた。「目黒区青葉台一丁目の一軒家で、おばんざいを出して」と夢日記に書いたことが、そのまま現実になった。
料理学校に通ったわけではない。京都で料理店を営んでいた母は、家族のためにも手料理を拵えてくれた。おやつも全部手作りだった。自分なりに、母の味を思い出しながら作った。舌が覚えていたのだ。母の作った料理の記憶が、いまの自分を支えてくれた。
「母親が子どもに何を食べさせてきたかは、すごく大切なこと。体の細胞が覚えている。味の記憶もあるけど、自分が大切に育てられてきたという思い出もすべて含まれているように思うんです」
「お母さんたちからしてみると、子どもの好き嫌いをなんとかしたいという悩みが一番多いんでしょうけど…。お母さんが大変だと思いながら作る料理は、子どもにも伝わるような気がします。作った人の気持ちや思いが体に入るから、苦しみながら作ると苦しい気持ちが食べる人の体に入ってしまうと思います。私も泣きながら作った料理を知人に出したら、『今日は違う人が作ったような味がする』と言われたことがあるんです。辛い気持ちのときはキッチンに立てへんなと思いました」。
作る人の思いと食べる人の気持ちはつながる。言葉を生業にしてきた私も、言葉も気持ちはつながっていると思う。プラスの言葉を発すると気持ちがよくなるし、マイナスの言葉を口に出すと悪しき気持ちになる。そのことを指摘すると、青山さんも同調してくれた。
「私も姉から教えられました。何があってもマイナスの言葉は口に出したらあかん。すごく大変なことが起きたら、逆にラッキーやと言いなさいって。そうしたら大事な気づきを必ずもらえるはずや」と。
青山さんの姉は、自分が死ぬことで、何かを残そうとしてくれたのかもしれない。
「姉は優秀だったからいつも家庭の中心にいて、昔は私なんか生まれてこなくてもよかったんじゃないか≠チて思ったこともありました。姉は私にとてもやさしく、一番生きていてほしい人が死んでしまって、なんで私が生きているんだろうと考えたとき、私はただ生きているんじゃなくて生かしてもらっていると気づいたんです。そうしたら一日一日、一瞬でも無駄にしてはいけないと思うようになりました」。
青山さんの心残りは、姉が最後に食べたものが、病院から出されたゼリーだったことだ。体調も回復していたので、まさか亡くなるとは思わず、自分で作った野菜スープを飲ませてやれたらよかったと今でも後悔している。「その悔いがあるから、これが最後の食事になってもいいと思えるものを作っています」。
青山有紀さんの「紀」は紀元の「紀」だが、いまのような考え方をする前の「紀元前」と、いまの「紀元後」とでは、自分自身が大きく変わったようだ。
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