有為転変の人生
川上さんは、1975年、岐阜県下呂市生まれ。温泉街の一角で育った。両親は美容師だった。
親が店をやっていたので、祖父母は、親代わりのような存在だったのだ。剣道好きな祖父の影響で、幼稚園で始め、小学校3年から中学3年までは岐阜代表として全国大会に毎年出場していた。だが、高校になってからぐれて、剣道をやめた。
美容師を継ごうと、高校卒業後、住み込みで、神奈川で美容院見習いを始めたが、頑張る意味がわからず、毎日遊んでいた。1年半くらいでその店を辞め、親とも一切連絡を取らず、日雇い仕事など、職を転々としていた。
ある時、数年ぶりに実家に電話し、祖父母と話したら懐かしくなり、週末帰ることを約束した。だがその翌日、祖父が突然亡くなった。それを機に、実家に戻ることにして、不良の道を卒業した。
名古屋に出て働き始めた川上さんに、24歳で人生の転機が訪れる。
実家に戻ってからも、いくつかの職を経験し、名古屋のコーヒー製造販売の会社に落ち着いた。営業マンとして豆の販売に没頭する毎日だった。これまでにない、温かい空気の中で生き生き仕事していた。
ある時、焙煎士としても有名な会長の田中仁さんが入れてくれたコーヒーが人生を変えた。その時、飲んだ得も言われぬ味は、今でも忘れられない。この仕事を続けていられるのは、この一杯があったからだと信じている。
入社5年目。その会社が経営に失敗し倒産してしまう。社員は全員解雇されることになったが、川上さんは諦め切れなかった。初めて3年以上同じところで働き、自分が本気で情熱を注げた仕事。この5年を無駄にしたら自分はもうダメになると思った。自分を成長させてくれた会社を守りたい一心だった。それに焙煎の秘術を受け継ぎたかった。
一社員の身ながら、「この会社を続けさせてください」と、会長に直訴した。「焙煎の技術を全部伝授してください。この会社の味と伝統は俺が守っていきます」。
会長は驚き、半ば呆れ口調で断られたが、川上さんの熱意が通じた。会長からの焙煎技術の直伝が始まった。「目も耳も鼻も口も手も、風も全部使え。全部味方につけろ」と何度も言われた。
焙煎機も譲り受け、一から焙煎修業が始まった。多額の負債を抱え、金の取り立ての対応に追われた。しかも、焙煎した豆は全然商品にならない。売れないどころか、焼いては捨てる毎日の連続だった。焙煎の秘伝を体得するまでは、悪戦苦闘の日々だった。
川上さんのコーヒー豆を入れる袋には、ブランド名を筆で書いたラベルが貼られている。
「道」 信じた道を力強く歩き続ければ必ず拓けるという想いを込めた。
「心」 沢山の出会いが自分の心を優しく、強くしてくれたことに感謝を込めた。
「結」 沢山の人と決してほどけない結びつきを続けていけるように願いを込めた。
様々な逆境を乗り越えてきた川上さんは、この3つを信念にして、ひたすら焙煎を続けている。
|