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俳人の金子兜太さんは、先月、92歳になったばかりだ。全国に弟子が1000人。新聞の俳句投稿欄に毎週6000句投稿される句に全て目を通し選句している。週に3回は、東京や地方へ出かけ、講演や講座、句会にと大忙しという俳句界の巨人だ。巨人は、92歳の心境を「今を生きて 老い思わずと 去年今年(こぞことし)」と詠む。 何のために生きるのか |
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![]() ご本人曰く「立禅」という儀式もある。立ったまま、30分ほど瞑想する。5年前に亡くなった愛妻をはじめ、130人くらいの亡くなった人々の名前を思い浮かべながら語りかけるのだ。名前を思い出す順番を決めている。記憶力の鍛錬にもなるからだ。 話しかける自分のところに、死んだ人々が、時間を飛び越えてやってくる。死んだ人と一緒にいるような気持ちになれる。名前を言っていると、その人が生きているように思える。心を正し、初心に帰る。この「立禅」の出来いかんで、その日一日が左右される。後悔ばかりの人生だが、その人の面影で正されるような気がする。 ひときわの思いで語りかけるのが戦友たちだ。太平洋戦争で徴兵された金子さんは、南方戦線トラック島で海軍主計中尉として「敗戦」を迎えた。東京帝大を出て、日本銀行に就職したが、わずか3日勤めただけで、1944(昭和19)年、トラック島に施設部隊として赴いた。しかし補給路を失い食糧を断たれた。餓死していく者や銃弾に当たり戦死する者も目の当たりにした。 この「悲惨」な体験が、戦後の生き方の原点、自分の出発点だと思っている。多くの仲間たちの「非業の死」を見た。同時に、「死」を力ずくで実現させてしまう戦争というものの「悪」を、身をもって感じた。一方で、「俺は何で助かったのか」との気持ちも残った。1年3カ月の抑留生活の後、引き揚げ船で帰国する時に、心は決まっていた。これまで人のために何もして来なかった。せめて「非業の死者たち」に報いるために生きたい。『水脈(みお)の果 炎天の墓標を 置きて去る』は、人生の転機となった句だ。 |
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人は死ぬなら、自然に死ななくてはならない。今回の地震でも、尊厳を奪われ、理不尽な死があった。地球のなせる業と諦めていいのか。地震や津波で人が亡くならない方法を考えねばならないと思う。 大地とつながるために生きる 僕の父も、俳句が趣味だった。毎年、正月元日になると「元日や 餅で押し出す 去年糞」と言っていたのが、子ども心に忘れられない。そうしたら、それは金子さんのお父さんの句であることが、今回判明した。田舎の開業医だった親父は、とにかく「放屁」が好きで、のべつまくなしだった。 「俳句は、相手と抱き合えば、いい句になる」と言う。物に即するには、離れていてはダメだ。即物とは、相手と抱き合うことだ。 |
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■イネ・セイミプロフィール フルート奏者として活躍中。俳画家。 絵画を幼少より日展画家の(故)川村行雄氏に師事。俳画を華道彩生会家元(故)村松一平氏に師事。俳画の描法をもとに、少女、猫等を独自のやさしいタッチで描いている。個展多数。 * 俳画教室開講中 |
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