中2の時、一家で大阪に移り住んだ。4畳半に5人が寝ていた。中卒で働き、家計を支えたが、役者への夢捨てがたく、20歳の時「毎月必ず仕送りするから」と約束して上京した。そして、ほどなく健さんとの出会うのだ。
東映に入り、アルバイトしながら、大部屋生活を送っていたが、うだつがあがらず、厭世観が出てきた。5年で見切りをつけ、商業演劇の世界に活路を見出そうとした。健さんからは、「この世界、膝まで泥沼に浸かれというが、ドップリ首までつかってみなよ」と、餞別の言葉をもらった。東映をやめることを責めず、夢をあきらめずに頑張れと言われた気がして嬉しかった。結局、ドップリ首までつかることになった。
まるで、仕出しのように次から次にいろんな仕事をしながら、多くの舞台をハシゴした。ギャンブルに手を出し、多額の借金を抱えた。そこに、救いの電話のベルが鳴った。
旧知の坂本九さんから、全国を廻る歌謡ショーの専属の司会者にならないかという誘いだった。司会の経験はゼロだったが、しゃべることは得意だからと引き受けた。水を得た魚だった。やっと、この仕事だけで生活出来るようになった。
坂本さんとの契約期間を終えた後、レオナルド熊さんに請われて、コントという未知の世界に入る。しかしほどなく、熊さんが病に倒れた。いくら何でも、もう潮時と諦め、芸能界を引退するつもりで、千葉県で知人のトマト栽培を手伝った。
だが、病癒えた熊さんから、もう一度コンビを組みたいと熱望された。再結成した「コント・レオナルド」は、折からの漫才ブームにのって、人気者になる。
ある日、高倉健さんから電話がかかってきた。「よかったなぁ。がんばれよ」うれしくて、うれしくて、涙が止まらなかった。
知名度が上がった石倉さんには、役者としての仕事も次々舞い込む。
誰かが見てござる
「ひらり」を見ていた市川昆監督から『忠臣蔵 四十七人の刺客』への出演依頼が来た。なんと、健さん演じる大石内蔵助の用人・瀬尾孫左衛門役だった。23年ぶりの再会だった。「サブちゃん、来たか。やっと、潮が満ちてきたねぇ」と言ってもらえた。首までドップリ浸かったかいがあった。恩返し出来たような気がした。これ以降、石倉さんは、市川作品の常連となる。
石倉さんの信条は『誰かが見てござる』。だから、ふざけた人生送ってはならない。くさっていてもしかたがない。そうすれば、人生、必ず「浮かぶ瀬」があるはずだ。
地道に頑張っていれば、誰かが見てくれている。坂本九さんも、レオナルド熊さんも、市川昆監督も、石倉さんを見てくれていたから、新たな世界が開けた。
そして何より、ずっと高倉健さんが陰になり日向になり見守っていてくれた。石倉さん曰く「菩薩のような存在」だという。青山の喫茶店に、菩薩が座っていたのだ。
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