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人生観に影響を与える出会いだった。育まれた環境は大きいと感嘆する出会いだった。そこに流れる穏やかな時間は、人柄そのものだった。深く豊かに洞察する教養は、一朝一夕のものではない。こういう生き方を真似しようと思っても、いまさら遠く及ばない。だが、足元くらいには近づきたいと思う出会いだったのだ。 |
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![]() 湯河原の敷地自体は、500坪ほど。斜面がほとんどで、平らなところは150坪くらいだ。そこに、およそ30坪の平屋が建っている。昭和初期の純和風の建物は、母方の祖父、近衛文麿が保養のために求めたものだ。祖父が亡くなった後、祖母千代子が80代後半で亡くなるまで、菜園いじりをして一人で暮らしていた。天真爛漫な人柄の祖母に惹かれて、中学生の頃から、護熙さんは、よく湯河原に通っていた。いつかここで暮らしたいと思っていた。少年の頃から、都会の喧騒より自然の中が好きだった。 1938年、肥後細川家の後継ぎとして、東京に生まれた。守護の時代から数えると26代目に当たる。子どもの頃から「異風者(いひゅうもん)」(熊本方言)だった。みんなと同じことをするのが嫌いな変わり者だった。3歳の時に母が亡くなったこともあり、寂しさの反動かもしれない。人と交わるのが億劫な子だった。「よく総理大臣になったもの」と苦笑する。 学校嫌いの問題児だった。中学校は、横須賀にあった栄光学園に進んだが、カトリック系の名門校で、厳格な教育方針が、バンカラな旧制高校体質の護熙さんには、合わなかった。中2のとき、ついに落第し、高校に上がる前に転校を勧告された。東京の祖父の家から通える学習院高等科に転入した。ここで、祖父から薫陶を受けたことが、大きい。祖父の書棚から抜き出した本をむさぼり読んだ。祖父のコレクションした美術品を見る眼を養った。祖父を訪ねてくる一流の教養人たちと交わった。 高校2年のとき、母方の叔父、近衛文隆が、抑留中の収容所で亡くなった。劇団四季の「異国の丘」の主人公として、ミュージカルにもなった人物だ。自分がその志を継がねばという運命的なものを感じた。 |
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上智大学法学部を卒業した後は、朝日新聞記者となり、参議院議員から熊本県知事を務め、2期8年で退陣。その後日本新党を結成しブームを巻き起こし、第79代内閣総理大臣に上り詰め、さっと身を引いた。 一隅を照らしたい 幼いころの学びが大切と痛感している。「勉強嫌いの私が、今、古典や漢籍、和歌に親しんでいる原点は、幼年時代の素読にある」。 |
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■イネ・セイミプロフィール フルート奏者として活躍中。俳画家。 絵画を幼少より日展画家の(故)川村行雄氏に師事。俳画を華道彩生会家元(故)村松一平氏に師事。俳画の描法をもとに、少女、猫等を独自のやさしいタッチで描いている。個展多数。 * 俳画教室開講中 |
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