それを見た同級生から「すごい!」「格好いい!!」という声が聞こえてきた。料理を作れる事を誇りに思うようになれた。
微分積分が道を開いた
料理人への道は、微分積分が切り開いてくれた。大学受験はうまくいかず浪人した。夏休みに予備校で、微分積分の授業の最中に、一瞬、周りの音がすべて遮断された。頭の中が真っ白になった。「いったい、ここで何をしているんだ?僕が進みたいのは料理人の道だ」と唐突に気づいた。授業が終わると一目散に本屋に向かい「フランス料理用語辞典」を買って、予備校の授業中に読み始めた。
しかし両親は大反対した。夏休みの終わりに、家族に打ち明けると、母は泣き、父は怒鳴って反対した。両親の反応は予測出来たし、理解も出来たが、気持ちを曲げるつもりはなかった。
母は途中で折れて、料理学校の願書に捺印してくれたが、父親は願書提出の締め切り直前になっても、首を縦に振ってくれなかった。
専門学校に通いながら、アルバイトをしたフレンチレストランのオーナーに、両親を店に連れてくるように言われた。食事を終えた両親に、そのオーナーが、料理人という仕事のすばらしさを説明してくれた。両親も、ようやく納得してくれた。
料理学校を卒業後、ホテルでの修業を経て、オーストリアへ渡ることになった。父が知り合いを通じてオーストリアのホテルに紹介してくれた。出発前にも「人の出来ないことをやってこい。自分が納得するまでは帰ってくるな」と、誰よりも勇気づけてくれた。
オーストリアとの出会い
フランス料理のシェフを目差していた神田さんは、オーストリアは足がかりのつもりだった。だが、オーストリアに渡り、その料理に魅せられてしまう。オーストリアで出会った人々の素朴で温かい人柄に触れたことが理由の一つだ。チロル地方のお祭りに出かけ、そこで出会った老婦人の顔が、自分の祖母にそっくりで驚いてしまった。老婦人は湯気の立つスープを飲ませてくれた。飾り気のないあっさりした味だったが、心のこもった、心安らぐ味だった。
「美味しいかい」「美味しいよ」
小さい頃から、おはぎや草餅などを作ってくれた祖母と繰り返したやりとりと同じだった。このことがきっかけで、チロル地方が大好きな場所になっていった。現地の人々と触れあい、オーストリア料理の奥深さを知るにつれ「通過点」から、自分とは切っても切れない「かけがえのない国」に変わっていった。父の「人とは違うことをやれ」という言葉に、後押しされた。
2004年、マイスター試験を受けた。試験期間は半年にも及ぶ。1800ページに及ぶテキストで24科目を学び、16科目については筆記試験がある。そして与えられたテーマでの論文発表。これらの全ては、当然ドイツ語だ。
さらに5日にわたる実技試験。一人分五品の料理を、五人分五時間で作る「マイスターのメニュー」が最大の難関。「秘密の箱」に入っている三十〜四十種類の食材を提示され、コースを即興で仕立てる。試験官は、ハプニングにどう対応するか、頬と頬が近づくくらいの距離で、つぶさに観察する。最大のプレッシャーは、試験が「生涯に一度しか受けられない」ということだ。
睡眠時間は一日に3〜4時間。ここで、剣道で鍛えた体力と集中力が生きた。迷いがあるときや、意志がくじけそうなとき、照明を落とした部屋で、正座をして黙想したあと、木刀で素振りをして集中力を取り戻した。
こうして、神田さんは、難関を突破した。
マイスターとしての初の大仕事は、ハプスブルグ家の末裔が住む屋敷での晩餐会。インスブルッグ市長が、魚が苦手と聞き、あえてナマズ料理に挑んだ。歩き回って、新鮮なナマズを調達し、パン粉の衣をつけて香ばしく焼き上げ、カボチャの種のソースで食べてもらった。ひやひやものだったが、「カンダの作る魚料理なら食べる」と絶賛を浴びた。
神田さんは、3年前、東京に戻り赤坂でレストランを開業した。日本に、オーストリア料理の伝統を伝えるのが、「自分の使命」だと思っている。奇をてらわず、モダンに流されず、1800年代の貴族が家庭で食べていた料理を忠実に再現していくことが、自分に課せられた役割だと思っている。自分の流儀、自分の姿勢を崩さない、意志の強さは、道場でひたすら素振りを繰り返す剣士のようだ。
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